エッセイ「文学作品と映像化②」~マチネの終わりに
2021年9月記 石野夏実
※22年1月発行の同人誌に掲載したエッセイです。
前号では「文学作品と映像化」と題し、又吉直樹の小説「劇場」を原作に、行定勲監督が山崎賢人主演で映像化した「劇場」を取り上げた。
その理由は単純で、行定監督の映画ファンであること、又吉直樹の純文学小説が好きなこと、山崎賢人が様々な役に挑戦しながらも期待を裏切らない俳優として幅広く成長していることの三点であった。しかし、副題として「劇場」と明記しなかった結果、大それた題名になってしまった。
前回の反省を踏まえ、今回は「「文学作品と映像化(2)」と題し「マチネの終わりに」を副題に掲げ、原作となる平野啓一郎の小説と西谷弘監督の同名映画を対比させながら、映像化を考えてみたい。
ネットの検索中心ではあるが、自分の視点で集めた資料と手持ち書籍を使ってアプローチした結果、見えてきた事象について書き進めていこうと思う。
ところで今回「マチネの終わりに」をテーマに選んだ理由であるが、以下のとおりである。
2021年の6月の読書会で担当氏により平野啓一郎の「一月物語」が取り上げられたことと映画の会で管理人氏が平野啓一郎の原作で映画化されたこの作品「マチネの終わり」の感想を書かれていたことが、きっかけとなった。
同氏に触発され、数日後に鑑賞したのであるが、観終わって色々な思いが湧きあがった。小説もすぐに入手し、一気に読み終えた。スケールが大きく単純な恋愛映画ではなかったからだ。
これらのことが、今回、再度「文学作品と映像化」の考察をしてみたいという挑戦の出発点となった。※映画の会は同人誌内サークル。原則として当番が決めたプライムビデオの作品を参加者全員で各自鑑賞の上、感想文を例会で発表。外部者参加も可。コロナ禍で昨今の会合はズームを活用。
この映画の監督は西谷弘である。氏は共同テレビのCMディレクター出身。その後、親会社のフジテレビに移籍し、ドラマのディレクターに転じた。2003年版の「白い巨塔」や「ガリレオ」など名の残るテレビ作品を多数手掛けている。※ディレクターも監督も意味は同じであると思うが、以後、テレビはディレクター、映画は監督と分けて記す。
移籍後すぐの数年は、オカルトやホラーが多かったが、おそらくこの唐沢寿明主演での「白い巨塔」の再ドラマ化が転機となり、サスペンスものや恋愛ものに進んでいったものと思われる。
「マチネの終わりに」の主役の福山雅治とは十数年に渡りドラマや映画を通じて十分な信頼関係が成り立っている。福山の当たり役「ガリレオ」=物理学者湯川のドラマシリーズや、その劇場版を2作とも監督し、そして来年は同じレギュラーキャストで、三度目の「ガリレオ」の劇場版「沈黙のパレード」が公開予定とのことである。
氏は、今もフジテレビで連続ドラマや映画の制作をしていて直近では、私も毎週楽しみにしていた「モンテ・クリスト伯」と「シャーロック」があり、主演は2作ともディーン・フジオカであった。
数年前のドラマ「昼顔」とその劇場版の監督をしたのも氏と知り、そのジャンルの広さに独立系の映画監督とはまた別の、テレビ局勤務ディレクターの何でもこなすプロの仕事人を強く感じた。求めているものは、ライフワークや芸術性が一番ではなく、視聴率や客を呼ぶことが至上命令のエンターテイメントなのであろう。
そうであっても、氏の作品の映像美は印象に残る。残影が美しい理由はフィルム撮影に拘っているからのようである。
映画での初監督作品は織田裕二主演、柴咲コウ共演の2006年公開「県庁の星」であった。申し訳ないが、手抜きの雑さもあり、駄作であった。それでも当時のふたりの集客力のおかげで興行収入は約二十億円以上だったとのことである。
辻褄の合わなさは、テレビなら許されるかもしれないが、映画は料金を払って観に行くものであるから、インチキは許されない、と私は思う。
織田裕二扮する県庁の役人が関わっていたプロジェクトの建設予定地に、失意の織田が寝転がっていると、出向先のスーパーの従業員で普段忙しがっている柴咲コウが、突如、制服姿で現れるとか、柴咲の住んでいるアパートに、その住所を知っている様子もない織田が酔いつぶれて突然訪問するとか、不自然な設定は説得力がなさ過ぎて、観客は興ざめする。
テレビドラマの簡便さを映画に持ち込んではいけないと思う。
「マチネの終わりに」を書こうと思い立ち、西谷監督のことを知るためにこの映画を観たのであるが、前回の行定監督とはタイプが違うと痛感した。
行定作品には、矛盾したごまかしは、おそらく無い。
1作だけでは評価がしにくいので、氏が監督し評判の高かったガリレオ劇場版「容疑者Xの献身」をプライムで観ることにした。テレビの映画劇場で一度観ていたのであるが、再度観ることにした。
東野圭吾原作のサスペンス物は、事件の裏にある登場人物の心の描写の伝え方が上手いため、説得力もあり共感を呼ぶので、ドラマ化すると視聴率が上がるし、劇場版を作ればヒットするのであろう。犯罪物なので、矛盾した場面はさすがに無かった。
この映画は容疑者Xに成りきった堤真一の表情と何気ない仕草が素晴らしく、共演の松雪泰子も劣らず好演していて、50億円近い興行収入を上げ2008年で一番の集客映画となった。
その後の氏は、映画「マチネの終わり」まで4本ほど映画監督をしている。2本は織田裕二主演のノベライズ物。主人公は外交官で海外を舞台にした「アマルフィ女神の報酬」と「アンダルシア女神の報復」である。
この2本の作品の海外ロケの経験は「マチネの終わりに」のパリやニューヨークでの海外ロケに役だったのではと推測できる。
実は、会社員であるためなのか、西谷弘監督の情報はとても少なく、wikiとほんの少しのインタビューだけではイメージが掴めなかった。
また、平野啓一郎の小説を全く逸脱する形で映像化するということを果たして平野は許していたのだろうか、どう思っていたのだろうか等も知りたかった。
完成した映画を観て平野は「まさか自分の映画で泣くとは思いませんでした」とインタビューで答えていたので、映像化は成功したのだろう。
自分の小説はあくまでも原作であって、手を離れた以上、設定が作り替えられても良い作品になれば仕方がないと思ったのであろうか。原作者は、どこまで映画に注文をつけられるのだろう。
そんなことをあれこれ考えていたので、原作の使用時の取り決めがどうなっているのか、とても知りたくなった。使用契約を結んでしまうと何もいえないのではないのか。それと契約は誰と誰がするものなのかについても興味がわいた。
映画化に際し、原作使用料といわれるものがあって、ある原作を映画会社が使いたい場合、原作の出版社もしくは版権を管理するエージェントに手付けとして、オプション契約(予約権のようなもの)を含めた金額を支払う。
それが映画化権の許諾契約金、すなわち原作使用料とのことであるようだ。そして、その使用料に二次使用料(ビデオ販売やレンタル貸し出し料)を加えたものを原作者は受け取る。映画がヒットするかどうかは未知のことなので、制作側と出版側の話し合いになり、作家個人の登場は、あまりないようだ。注文を付ける立場にはないということになる。※日経エンタメを参照。ただし、売れっ子作家で何本もの映画の原作の実績がある場合、ある程度注文は付けられるらしい。
平野の普段の言動からすれば、もっと多くの人に自分の小説を読んでもらいたい、それが一番の望みであるはずなので、自作品が映画化されるということは、願ってもないことであったのだろう。しかし初めてのことなので、おそらく注文を付けられる立場にはなかったと推測する。
西谷監督の原作への向き合い方を知らなければ「映像化」を語れないので、ネットで色々探してみた。
キネマ旬報の2019年11月下旬号で「マチネの終わりに」の特集が組まれていたのを知りそれを入手して、やっと監督の細かいインタビューを読むことが出来た。少し物足りない気もしたが内容は次のとおり。
「平野さんの小説を映画化するのだけれど、という段階で話をもらった。原作物が多い中でも純文学だとなかなか映画化できない風潮なのですごく興奮した。氏の知性と美しさの満ちた文章力によるこの重層的な小説をどう映像化するのかというプレッシャーに悶々としながら入っていった」
「音=台詞(言葉)とクラシックギタリストである主人公が奏でる音楽をなるべく忠実に再現し、音には出来ない感情表現の部分も原作を慎重に咀嚼して映像にしようと腐心した」
「相手の洋子がフランスの通信社のジャーナリストとして滞在する06年時のイラクでの撮影は実際には不可能だったので、テロのあったパリに設定を変えた。それによって、原作の舞台が2019年からの逆算になった」
実は私は、読書会の時から平野啓一郎が少し苦手であった。今も「マチネの終わりに」と「一月物語」「私とは何か~個人から分人へ」以外は読んでいない。
本来なら「日蝕」を読み「決壊」を読み、変遷を追いかけてゆくのであろうが・・・。
文庫のゴッホの表紙絵に惹かれ「空白を満たしなさい」を買おうかとも思ったが、あらすじとレヴューを読んでやめておいた。氏が唱える分人主義も、わからなくもないが・・・敢えて分人化する必要を感じない。
氏がどれほど博識で知能が高いか。いわゆる万能で考え方はリベラルでSNSも多用していて、書いていること話していることは納得がいき、なるほどなるほどと思うのであるが、そして日本人ではノーベル文学賞に最も近いひとりなのではないかと思ったりもするのであるが、この非の打ち所がないということが、逆に私が平野ファンに成れない原因である。
完璧である(あろうとする)ことは、見ているこちら側は少し苦しく、彼の気負いを強く感じるのだ。
しかし、売らんかなの意思が少々垣間見える自己プロデュースは、新しい小説家のひとつのスタイルなのであろうし、多弁が純文学と馴染む時代が、平野によってもたらされていることは事実だと認識せざるを得ないことは確かだ。
氏のデビュー当時の作品「一月物語」が、強烈に華美で過剰に身構えた印象が強いために、彼のイメージを変えることが出来ないままであったが、この恋愛小説「マチネの終わりに」を読了し、こちらの方がよほど彼が拘っているもの、興味のあるもの、造詣が深いものが散りばめられていて、面白かった。具体的には、世界情勢、政治、経済、クラシック音楽など多岐にわたり、それらをうまく生かしながらダイナミックに恋愛小説を書き上げるとは、何とスケールの大きな小説家であることかと、あらためて感嘆した。
平野にしか書けないストーリーであろう。そしてそれでもやはり上質な硬質語句により文章が形成された純文学なのであった。
それを西谷監督は上手くドラマチックな国際恋愛映画に仕上げた。文学性を内包させながらクラシックギターの調べを最大限に生かし、国外にも通用するエンターテイメント映画に作り上げた。
平野啓一郎は、小説の導入として巻頭にエピグラフを用いる。
今回の「マチネの終わりに」は《序》として恋物語へ誘う文章を載せている。恋愛関係にあったかどうかは別にして、蒔野も洋子も実在の人物であったと実感した。
クラシックギターの音色とカメラワークの素晴らしさが、この映画を美しいものに仕上げた。これは映画の力。
蒔野と洋子の世界情勢の中で生きている姿、職業の説得力、これは作家の書く力。
平野啓一郎の「マチネの終わりに」の次に刊行された「ある男」が映画化され二十二年に公開されるそうである。二作目ともなれば平野は色々関わるのではないだろうか。
「愚行録」の石川慶が監督、主演は妻夫木聡(「愚行録」でも主演)、共演は安藤サクラとのこと。
注文したこの本が届いた。とても楽しみである。