「不自由である現実を受け入れたほうが、自由を希求するよりも生きやすい世界」を描いた『ゼイリブ』
cover photo by jon rubin(CC BY 2.0)
「表現の不自由展」についてのゴタゴタがどうにも頭を離れず、色々考えてしまい、何か書こうと思ったのですが、どうにもまとまりませんでした。
ちょうど別の文脈で、映画のブログの方に『ゼイリブ』について書いていて、そこに私は、
不自由である現実を受け入れたほうが、自由を希求するよりも生きやすい世界、それが今の現実なのです。
と書きました。
公権力は不自由を受け入れた人のほうがコントロールしやすくなるので、自由を制限しようとします。だから不自由を選んだほうが生きやすい世の中になりがちなのです。
表現の自由の前提にあるのは、自由の相互承認だと私は思うのですが、不自由である現実を受け入れた人は、意識的であれ無意識的であれ他者の自由に対して不寛容になると思います。そうすると公権力が自ら手をくださなくても、自由はどんどん制限されるようになっていきます。この映画が描いているのはそのことです。
今回の「表現の不自由展」に関する一連の報道を見ながら思ったのもそのことでした。
自分は果たして自由なのか、そして他者の自由を承認できているのか、そのことをもう少し深く考えないと、この問題の全体について何かを書くことは難しいなと思ったのです。
同じように感じている人がいたら、ぜひ『ゼイリブ』を観てみてください。