京から旅へ / インド編 インド仏跡巡礼(24) 霊鷲山 (りょうじゅせん)
霊鷲山は、晩年の釈尊(ブッダ)が、弟子達に教えを説いた聖地で、無量寿経や法華経、般若教もこの地で、説かれたと云われている。
また此処は、釈尊(ブッダ)が八十歳を迎えた年に、故郷をめざす「最後の旅」に出るが、その時の“旅立ちの地”でもある。
その霊鷲山が、インドの旅5日目、最初の目的地だが、まずは‥昨日の超・想定外の運行トラブルで、宿泊できなかったホテルへ。
早朝4時10分に到着し、そのまま、着替えの為に部屋に入る。霊鷲山への出発は5時30分。あと80分。で、ある。
仮眠や朝食をとるより、ホテルの大浴場で、汗を流す事を選び、綺麗なままのベッドを横目に、枕元へチップを置き、部屋を出た。
とりあえず身体を温め、気分転換を、と湯舟に飛び込むが‥ぬるい湯と、水温調整の効かない冷たいシャワーに泡を食い、気分、不転換のまま、夜明け前、バタバタと、出発する。
霊鷲山は小高い山である。上った感じでは、大文字山より低い。徹夜明けのフラついた脚でも、25分ほどで頂上へ着く。
登り口からずっと石をコンクリートで固定し、舗装された坂道が緩やかに続き、まだ薄暗い参道を、牛も上って行く。
牛に曳かれて、霊鷲山。だが、気をつけないと牛の落し物もある。
この道は、約2500年前にビンビサーラ王が、釈尊(ブッダ)の説法を聞く為に初めて着工したものだと云われてる。
インドの仏教が、5世紀から13世紀にかけて、イスラム教徒軍による侵攻や、国内のヒンドゥ教徒の拡大に伴い、衰退していくなかで、この聖地を訪れる人も消え、猛獣や毒蛇が棲むジャングルと化した。
釈尊(ブッダ)生誕の地「ルンビニ」と同様、この聖地の存在は永い 間、謎だったが‥
1903年(明治36年)、浄土真宗本願寺派 第22代法主・大谷光瑞を 隊長とする、大谷探検隊が、埋もれた霊鷲山の場所を再発見し、 数年後に、インド考古局の調査を受け、国際的に認定された。
「仏教誕生の地」インドから、教えは北へ、原初仏教から大乗仏教 の流れが生まれ、シルクロードを経て、中国、朝鮮、そして日本へ。
「大乗仏教の終着地」と呼べる日本の、仏教徒が,2000年以上の時空 を超え、釈尊(ブッダ)の“教えの聖地”を蘇らせたのである。
山を上るほど、夜は明け、黒い山肌にアースカラーが浮かんできた。
頂上近く、釈尊(ブッダ)の十大弟子、シャリホツやアーナンダが修行したとされる洞窟を見て、そのまま頂上へと、歩みを進める。見上げると、霊鷲山を象徴する、鷲顔の岩が、迎えてくれた。
ぐるっと回って上れば、そこが頂上。一気に視界が広がる。
頂上では、石貼り床(6m四方程)の周りに、低い煉瓦で欄干が作られ、その前方に四畳半位の、これも煉瓦で囲んだ礼拝場所があった。
此処で釈尊(ブッダ)が、弟子達に教えを説いたとされ、鮮やかなタルトやレイ、本などの供物が、煉瓦の上下に数多く積まれている。
訪れた人々は、その前に正座し、ゆっくり、深く、静かに合掌する。釈尊(ブッダ)の,今は無き声を、全身で受け止めるかのように‥
眼前に広がる素晴らしいパノラマ。朝の陽が、茜色に空を染める。
礼拝場所の後ろでは、男女混じった白装束の仏教徒達が、低く、厳かな声で、終わることのない、祈りを続けている。
こんな風景が、2500年前からあったのかと思うと、頭がぼんやり、靄に包まれて、あてどなく、彷徨うような、不思議な感覚になる。
参拝を終えて、下り階段に向うと、右の崖から突き出た岩の上から、ひょっこりと、オナガザル科のハヌマン・ラングール達が、現れた。
彫り深く鼻筋が通った、黒い顔に、薄茶色の長い毛を纏っている。尻尾だけでなく、手足も長く、スラッとした、美しい猿である。
大柄のボスらしき猿が座る、岩の下に数匹のオスとメスの猿が並び、子猿を抱く母猿もいる。警戒心もなく、ジッと人間共を見ている。
“ハヌマン”はインド神話に出てくる神で、この猿はハヌマンの使いと云われ、手厚く保護されてきたため、人を恐れないそうだ。
彼らは神の使いとして2500年前からずっと、ここに集う人間を見て、インド仏教の盛衰の歴史も全て、飲みこんできたのだろうか‥
「おや、遠く日本から来た凡夫よ、もう、お帰りかい?」「ところで、少しは、釈尊(ブッダ)の教えは、学べたのかい?」そんな“ハヌマン”の視線に見送られるように、私は山を下りた。
インド仏跡巡礼(25)へ、続く
(2014年7月14日 記)
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