昭和をカタルシス[6] 空想、掘り炬燵
もし今、居酒屋を始めるのなら、靴を脱いで上るスペースには、
必ず“掘り炬燵”を置く。これが、大事な集客ポイントらしい。
何故なら、団塊ジュニア最後の昭和49年生れ(現39歳)をピークに
人口は減少し、若者が減っていること。さらに、30歳までの若い
人に、お酒を飲む習慣を持つ人が少なく、居酒屋離れが顕著な事。
反面、団塊の世代を初め年配者は、お酒を飲む習慣を持っていて、
居酒屋に行く人も多いが、加齢と共に足腰が弱まる人も増えて、
足に優しい“掘り炬燵”のある店が選ばれやすい、という長い理由だ。
足腰に不安は無いが、勿論、私も飲んで楽な“掘り炬燵派”である。
◆
“掘り炬燵”と云えば、私が昔、住んでいた下町の家でも使っていた。
ちゃわん屋の店の奥、曇硝子の引戸を開けると居間(兼寝床)があった。
八畳ほどの畳部屋だが、その先が台所、部屋の右はすぐ縁側だった。
部屋の左にも襖があって、開けると、二階へ上る階段と玄関が見えた。
襖や土壁は、子供達が活発に逆立ちの練習をしたお陰で、ボロボロ。
家具と云えば、和室に不似合いな、姿見が付いた背の高い洋服箪笥と、
対面に白黒テレビ。その家具との間に、掘り炬燵が据えられていた。
炬燵の横の畳に、夜は布団が敷かれたが、ふた組で部屋はいっぱい。
足の踏み場など無い。そこに父と母と私は、丸まって寝ていた。
明らかに、部屋の広さに比べ“掘り炬燵”の占有面積は多いのだが‥
家族にとっては、冬の貴重な暖房機具であると共に、食卓であり、
テレビを視る団欒の場である。また、私にとっては、気のない勉強机
であり、炬燵の中は遊び場であり、炬燵の上はジャンプ台でもあった。
炬燵は全て木製。天端も格子戸のような木組みで、頑丈な構造だった。
床下を掘り下げ、中はコンクリ左官仕上、真中に熱源が置かれていた。
当時の熱源は電気でなく、練炭である。保温用の土器は七輪でなく、
「練炭コンロ」という、専用のコンロが使われていたようだ。
練炭は日本人が発明。明治、大正期に石炭より効率の高い、軍艦燃料
を求めて研究、開発された。当初は円筒形でなく角型だったようだ。
練炭の需要は長く、今もまだ使われているが、その歴史の中でも‥
昭和29年に、上から着火できるコンロが発明され、広く一般普及した。
使い勝手の良さプラス、上部での一酸化炭素の再燃焼を可能にして、
熱効率を高め、さらに、CO2の排出量も少なくした為である。
練炭使用による一酸化炭素の害を良く聞くが、この練炭コンロの成果
か、昔の家の風通しの良さか不明だが、堀炬燵の練炭で中毒になった
という話は聞かなかったし、炬燵の中に潜り込む習性のあった自分も、
炬燵の中でひっくり返った覚えはない。と、思うが?
炬燵は私にとって、かっこうの遊びである。夏は空想の中の秘密基地、
冬は、炬燵の中を潜りぬけ探検する、デンジャラス・トンネルだ。
冬、炬燵では練炭が赤く燃え、上にのせた薬缶がチンチン鳴いている。
私は身近な入口から炬燵の底に潜り、下に敷かれたスノコの上を、
しゃがんで前進。伸びた足を除け、薬缶に注意しながら、地上に続く
別の出口を求め、炬燵布団を潜り抜けて、ヒョコッと顔を出す。
炬燵で温まっている人には、「熱が逃げるからやめろ」と叱られるが、
執拗に息をとめ、水に潜るように沈み、別の処から、ヒョコッと顔を出す。
まるでモグラ叩き。何がそんなに、夢中にさせたのか知らないが‥
オモチャがあまりない、子供にとっては、炬燵や布団の中で広げる
空想の世界こそ、掛替えのない、テーマパークだったのかも知れない。
ところで、近頃、空想よりも、妄想が多いのは、
やはり加齢の成せるわざ、だろうか‥
(2013年10月24日 記)
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