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情報社会を生き抜くための本52「身体の時間」(野間俊一)

著者は、京都大学附属病院で臨床と研究に従事している精神科医である。現代社会における時間と生物である我々人間の身体の時間、両者の協働と齟齬に焦点を合わせて、現代の様々な精神病理現象を論じている。

PTSDのフラッシュバックについての記述でなるほどと思ったことがある。精神療法の立場は二通りあるのだそうだ。一つは「心の奥底にあるかもしれないメカニズムは取り扱わず、現実にあった出来事と実際に生じた精神面および行動面の問題のみを対象として認知行動の修正を目指す『認知行動療法』」である。もう一つは、「精神現象の背後になんらかの秘められたメカニズムが存在すると仮定し、精神の安定を目指す『洞察的精神療法』」である。『認知行動療法』は、近年よく取り扱われており、苦しんでいる立場にあるとすがる思いで頼ってしまう傾向がある。しかし、筆者は表面的な療法に警告をならす。「『認知行動療法』の考え方を表面的に理解すると、精神現象を極端に単純化要素化して機械的な因果関係として取り扱い、患者を人間全体からというより症状の列記で把握しようとする傾向がある。その手続きだけに拘泥しすぎるならば、患者理解において大きな見誤りが生じる危険をはらんでいる。」ということだ。PTSDなどは、心的外傷の程度にのみ比例するのではなく、過去の外傷体験の既往体験や外傷を受けたときの保護状況に大きく影響されるというのだ。

東日本大震災のあと、学生を連れてボランティアに行っている。将来学校の教員になる学生たちと大川小学校や雄勝小学校の跡地を見て回り、雄勝ローズファクトリーガーデンでオーナーの徳水博志先生から震災学習を受けるお決まりのコースだ。徳水先生は、震災時に雄勝小学校の教諭だった。震災を生き延びた子供達のPTSDを自身のトラウマとも闘いながら克服する学習プログラムを実践したのだ。この『身体の時間』の第1章「フラッシュバック」を読みながら、徳水先生の実践を思い浮かべた。徳水先生は、子供達と震災の夜のことを1枚の大きな版画にした。さまざまな思いをめぐらせながら、その夜、子供達は雪の降る山の中を逃げて焚き火のもとで夜を明かして生き延びたのだ。大きな版画にはそのときの子供の恐怖や不安やうめきが現れている。そしてまた、その中に希望や未来への思いも表されている。版画をつくることで追体験をして、断片的な記憶をしっかりと向き合えるものにしていった。

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「残っているのはつねに心身反応としての断片だけなのかもしれなのである。フラッシュバックが容易には語りえないのは・・・・そもそも恐怖として身体に刻み込まれるかたちでしか覚えられていないからではないだろうか。すなわち、フラッシュバックという現象は、過去の想起についての認知過程などではなく、言語化不能できないきわめて原初的な心身反応なのかもしれない。」と著者は語る。

本書の後半に「レジリアンス」についての解説がある。resilienceのことで「レジリエンス」とも記されることが多い。本書では、「激しい心的外傷を被った人がPTSDに陥らずに立ち直る力を意味する」と説明されている。「レジリアンス(回復力)」は、高度に発達し続ける情報化社会を生き延びるための重要な力である。情報化社会は、ストレスフルな社会であり、ネットを通じて常に個人が攻撃にさらされることになる。このストレスに負けない強い回復力が求められるのだ。

「レジリアンス」を高めるのは、「無力感がなんらかの支援によって和らげられ、他者との結びつきが強固になり孤立感から解放されること」と著者は語る。本人に自己コントロール感を取り戻させるような信頼できる治療関係の確立が必要なのだ。PTSD治療で大事なのは、自分の経験した苦悩をそのまま再体験し、整理し直すことだけではない。自分の苦悩が基本的なところで他者に共感され、自分の体験と存在が全面的に肯定されることこそが、重要なのである。

徳水先生の実践したPTSD克服プログラムは、版画を作成したり、詩や文で表現したり、作品を作り発表することを生き延びた仲間で取り組むことで達成した。もちろん先生と子供たちとの強い信頼関係もそこにある。

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著者は、ネット社会では多重性と利便性があらゆる場面にフラクタル構造を成すように反復されており、そこで与えられるものが多ければ多いほど心の中に空洞ができてしまい、見た目が華やかになればなるほど強い不安に襲われるようになると述べる。問題になるのは、「現代における『今』という時間である。この時間は、通常私たちが『時間』と聞いて想像するような『時間の流れ』とは無関係である。むしろ、『今』という体験を成り立たせているような、時間のあり方が問われている。それは、『今』という時間の『密度』についての問いでもある」と書く。

最後にこのように述べている。
「現代に生きる私たちに求められているのは、やはり『身体と時間の回復』なのではないだろうか。近年の私たちは、身体を疎かにしてしまった。もし人びとの交流において、直接出会い、語り合い、触れ合う、というように、身体をこれまで以上に介在させるようになれば、ともに過ごす時間は充実したものになるだろう。自分の身体を労わり、身体を休め、身体が喜ぶ運動を心がければ、時間もまた正気を取り戻すにちがいない。そのような時間の積み重ねこそが、自分にとっての真の歴史となる。」

もう一度書く。著者は、臨床と研究に従事しているドクターである。


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