飛行機の本#34最後の戦闘機「紫電改」(碇義朗)
紫電改は、太平洋戦争末期に作られた日本海軍の局地戦闘機だ。局地戦闘機というのは、敵(アメリカ軍)の爆撃機を迎え撃つための戦闘機という意味。本土防空戦で活躍した。この本は、紫電改開発のいきさつとその製造を行なった川西飛行機関係者、爆撃下で製造に従事した女学生や中学生(旧制)、戦闘にあたった搭乗員たちへのインタビューから構成したドキュメンタリーである。
もともとは昭和16年に作られた水上戦闘機「強風」(敵地への侵攻作戦用)がスタートだった。ミッドウェイ海戦後に侵攻ではなく防衛に回らなくてはならなくなった日本帝国海軍は、水上戦闘機を必要としなくなっていた。
さらに世界の戦闘機は1000馬力級から2000馬力級へと進化し、飛行機の戦い方も、ひらりひらりと敵をかわしながら回り込むというものから編隊飛行による速度重視の一撃離脱へと変わっていった。それまで無敵といわれた零戦では戦えなくなったのだ。零戦は、その性能を極限まで引き出すためにギリギリまで強度を削って軽量化したのだ。機体をささえるフレームも限界まで軽量化をはかるために穴をあけられていた。そのためエンジンの進化に機体がついていかなかったのだ。2倍の馬力を出す重量級のエンジンを積むことはとうていできなかった。次期戦闘機をつくらねばならないが、予定されていた零戦後継機の「烈風」は、仕様要求が厳しすぎて開発が難航していた。
そこで、すでに大馬力エンジンを積んで完成していた「強風」を水上機から転用することにした。川西航空機からの提案試作がなされていたのだ。昭和17年末、たった1年間で局地戦闘機「紫電」ができる。空戦フラップを生かし、速度と格闘性能を併せ持った重量級戦闘機の誕生である。しかし、エンジンはトラブル続きの中島飛行機製の「誉」2000馬力を積み、水上戦闘機からの転用のため2段階で引き込まねばならない長い脚をつけざるをえなかった。この「誉」と長い脚は、後々まで故障や事故を頻繁におこし、頭痛のタネになる。
とりあえず間に合わせといいながら、生産工程を見直し、できるだけ省力化するなかで1000機も作り上げる。しかも、生産にあたったのは女学生や旧制中学の学生たちで、飢えと寒さと心細さのなかで慣れない製造にあたった。製造工場は徴用された人員でかえって生産効率を悪くし、大勢の人間の衣食住を考えなければならないことになる。工場長の最初の仕事は7000人の従業員を5000人に減らすことからだったという。製造現場を知らない関係者は、人さえ集めればいいとどんどん送り込み、仕事を教える人間もいない中でうろうろする人間ばかりだったという。現場を知らないで指示をすればなんでもできると思うとこういうことになる。困るのは現場をあずかる者だ。これは今でも同じ。
川西航空機は緊急に作り上げた紫電と同時に根本から設計を見直した「紫電改」も作り上げる。中翼から低翼にリファインし、全体としての形状もずんぐりからスマートになった。性能は一段と増した。昭和19年に試験飛行に成功し、年末頃から前線に配備される。この「紫電改」をもとに結成されたのが343航空隊だ。「飛行機の本#33」で紹介した菅野直や杉田庄一が紫電改で戦うことになる。343航空隊が開隊されたのは昭和19年(1944)の12月25日、今日は令和2年(2020)12月26日ちょうど今頃の季節だ。
この343空での戦闘訓練で、紫電改は謎の空中分解をする。当時は原因不明であったが、のちに降下中に亜音速に達して機体にねじれが生じたのではないかと推測されている。その当時は亜音速の時に何が起きるのかはわからなかったのだ。そして、紫電改が降下している時には亜音速に達していたということでもある。戦後、アメリカに運ばれテストされた。電気系統を換装しオクタン価の高いガソリンをいれることでP51マスタングと同等のスピード(時速680km)が計測され、武装は紫電改が上回っていたと報告された。