『クリード 過去の逆襲』(クリード3)が迎える未来(ロッキー&クリードファン向けの感想)
正直、観終わってまだ何を観たのかよくわからない気持ち。もしかしたら『ロッキー5』を劇場で観た人もこんな気持ちだったのではないか。
だが、不当に貶めることも、無責任に持ち上げることもしたくない。それがロッキーとアポロの魂を受け継ぐ者達の責務だからだ。マイケル・B・ジョーダン氏がこの映画で何をしようと考えていたのか、そしてロッキーとアドニスの物語はこれからどうなっていくのか、誠実に考えてみたい。
今回予告編を観た人が事前に得ている情報は、
・ロッキーは出ないらしい
・今回はブラック・ムービー
・アドニスには隠したい過去があるらしい
主にこんなところだ。
ロッキーが出ないことについては覚悟していた。ロッキーは『クリード 炎の宿敵』(以下、『クリード2』)で明確に、次の世代へバトンを繋ぐというメッセージを伝えていたからだ。作中に、黒人カップルであるアドニスとビアンカの子供が黒人であることを忘れているような発言があり、そのあたりにかなりスタローンの思いが込められていることを感じてもいた。
そして実際今作を鑑賞してみても、ロッキーがいないことに違和感を感じなかった。クリード1&2がなんだかんだロッキーの続編であったのに対し、本作は明確にロッキーシリーズと違う映画としての道を歩み始めていた。そしてそのことが、まさにスタローンのバトンを受け継ぐ作品であることの証明になっているとも感じた。なのでスタローンは出なくてよかったと思う。
「違う」というのは、単にロッキーが出てこないというだけではない。
「あ、本当に今回『ロッキー』とは違う映画なんだ」と確信したのが、比較的冒頭のほうで出てくるアドニス&ビアンカのイチャイチャシーンだった。
ロッキーや前作までのクリードは、流血シーンはあるものの、基本的に親子で劇場に行っても楽しめる作品であったと思う。『ロッキー』でロッキーとエイドリアンの心身が触れ合う例のシーンはちょっと照れてしまうが、あらまあ、くらいで済ませられる範囲ではないだろうか。最も赤裸々なシーンがそれというかわいさ。上品さ。それもロッキーシリーズのいいところだ。クリード1&2でもいちおうラブシーンはあるが、どこか微笑ましく思える雰囲気があった。
ところが今回は、行為としてはそこまでではないのに、直視してはまずい!と思わせる生々しさが明らかにあった。クリードは本当にロッキーの続編から脱して、新たな道を歩き始めたんだな。よし、じゃあこちらもそのつもりで観ていこうではないか。
観終えて何が一番印象に残ったかというと、主人公・アドニスの敵役であるデイミアン(大人バージョン)の顔面だった。
現れた瞬間から、というかもはやまだ顔がちゃんと映っていない段階から、彼は強烈に不穏な空気を醸し出していた。顔立ち自体はいい奴感さえあって、あまり乱暴な感じはしない。ミスターTみたいなイキリ感やファニー感はない。若いのにおじいさんのような、悲しい埃のにおいがするような雰囲気があった。一見穏やかで優しいようにも感じるのだが、顔面のほんのわずかな、1ミリくらいの変化が絶え間なく続き、彼がいったいどんな奴なのか断定を許してくれない。それがまた不安を加速する。その状態が映画の前半ずっと続いた。それもまた「今回はロッキーと違うんだ」という事実を突きつけてくる。ロッキーやクリード1&2を観ているときは、どのシーンを観ていてもスタローンの心地よい体温を感じていたのだ。そのことにもここで初めて気づいた。
全体的に、ロッキーや前作までのクリードは体内を温かく流れる血であるのに対し、クリード3は吐き出された血、流されて冷え切った血、というようなイメージを感じた。主人公の懐にいつの間にか包み込まれてしまう、みたいな温かさがなく、常に不安と緊張が胃のあたりに渦巻いている。
そんな中、ぽつぽつと入ってくる女性陣のシーン。ここだけは血の通った感じがあるのだが、それさえも心からの安心を与えてはくれない。男性が常に何かと戦っている感じってこういう感じなのかな…などと思ってしまい、ますます物語と自分の間に距離が生まれる感じがあった。これは自分が女だからかもしれないので男性の意見も聞いてみたいところ。男性が、妻や子の前では束の間の笑顔を見せるものの、心の底から安らげる瞬間はひとときもないんだ、みたいな。常にうっすらグレーの眼鏡を通して世界を見ているかのような。
だが!
デイミアンが本懐をあらわにしてから!
その流れが変わる!
デイミアンは18年間刑務所にいて、その間ずっとトレーニングを続け、その間アドニスの試合も観てきたライバルという設定。刑務所暮らしの間も腐ることなく、チャンピオンの座を狙い続けていた。アドニスに金銭的にたかることもなく、それでいてチャンスは逃さないしたたかさもある。ネタバレを防ぐため詳細は伏せるが、アドニスの罪についても恐ろしいほど責めてこない(それがまた怖い)。わかりやすく追いかけてはこないが、振り向くといつの間にか背後に立っていた、みたいな不気味さがある。
とはいえ、刑務所にいる間もチャンプの座をあきらめず地道に筋トレをしたりしていて、すごく立派な奴なのである。見れば見るほどデイミアンが気になってしょうがない。ジャイアンみたいな感じというか、憎めない、という域を超えて、「この人すごく立派な人なんじゃないの?」という気持ちが、さきほどの不安と入れ替わるようにしてどんどん加速していく。むしろアドニスが悪役に見えかねない感じすらあった。私は演技や映画にまったく詳しくないが、デイミアンの微妙なほんと1ミリ2ミリくらいの顔の動きが、1秒ごとに「いい奴」「不気味」「かわいい」「やめて!」などこちらの感情をぐるぐると揺さぶってくるのがすごかった。そして試合中の顔もすごい。久しぶりに、いい顔の人物を見た!!!!!という喜び。それが本作で文句なしに一番素晴らしかったところだ。
ここからは完全に勝手な想像なのですが……
マイケル・B・ジョーダン氏はすごく真面目で子供の頃からずっと優等生の気質を持ち続けてきたのではないだろうか。そんな彼が初めて思いの丈を詰め込み、誰の目も気にせずにやりたい放題やったこと、それが彼にとってのSHINJIDAIだったのではないだろうか。
彼は強い国・アメリカの人であり、今も差別の残る黒人であり、そして日本のアニメに夢中になった少年でもある。真面目な彼は当然自分の国が過去にしてきたこと、今していることについても知り、考え、自責の念も抱いているであろう。そしてスタローンをはじめとする過去の素晴らしい映画人たちの影がどこまでもついてくること、自分たちの世代には本物を作ることができるだろうか?という悩みや恐れや焦りも抱えてきたはずだ。そして人種や国を問わず、男性が抱える「強くあらねばならない」という崖から転落することを恐れて生きてきてもいる(はず)。
そんな中、どのようなルートでかはわからないが、「男の強さではない何か」という曖昧な、だが切実なキーワードが彼の中で浮かび上がってきた。そのキーワードと、彼が少年時代に愛してきて彼の体の一部を構成しているという日本のアニメ、そしてそこに流れる、アメリカの文化とは異なるなにかが結実した。
結果、意識的にか無意識にかはわからないが、「禅(ZEN)」のような要素が本作に散りばめられることになったのではないか。
今回の試合のあの白黒の演出。「過去でも未来でもなく今」というメッセージが繰り返されること。それぞれの登場人物に、それぞれの人生があること。腕力とは違う強さ。戦う相手は常に自分であること。
マイケル氏は「これなんだ!」と感じたはずだ。その何かを発見した喜びと、それをみんなに伝えようという思いが、映画の後半に満ちているように感じた。
マイケル氏は若く見えるが意外と30代後半である。スタローンと同じくボクサーとしては完全に遅咲きの年齢だし、日本でいうなら昭和の血を宿しつつも、物心つけば平成、という世代。
俺たちは一生、偉大なる世代の陰から太陽を仰ぐだけで死んでいくのか?俺たちは本当の光を生み出せないのか?俺たちが受け取った、あの素晴らしい時代を享受できるのは俺たちの世代までなのか?俺たちが憧れたあの時代はもう二度と訪れないのか?
でも、俺たちがやらなかったら、誰がやる?
俺がやろう。
マイケル氏がスタローンからのバトンを受け取り、ポーズではなく本当に「新時代」を切り開こうとした作品。
それが今回の『クリード3』だったのではないだろうか。
ひっくり返すようだが一言だけ文句を言うならば、アドニスは試合に負けたほうがよかったような気がする。せっかく、旧来の男性的な強さではないものがあるよね、というメッセージを積み上げてきたのに、「結局力が勝つんだね…」という結末になってしまったのは惜しいなと感じる。そしてその気持ちを引きずったまま、映画は終わった。えーと結局、アドニスは何のために戦っていたんだっけ?
…というところに例のアニメが。展開がめちゃ早でますますよくわからない。でも、マイケル氏が自らの声で シンジダイ と言っているからには、新時代のメッセージが込められていることは疑いようもない。マイケル氏は確実に、新時代を生き始めているのだ。
このアニメは、『ロッキー4』で唐突に出てきたロボットのような存在なのかもしれない。もしかしたらマイケル氏も「それ、いる?」と思われることをいとわずに、自分のやりたいことを詰め込んでみたのかもしれない。そうだとしたらかなりいい。好きだ。
そして、『クリード4』は『クリード3』をバネに、シリーズ最高傑作の呼び声高い名作となるのではないだろうか。『ロッキー5』のあとに『ロッキー・ザ・ファイナル』がファンを狂喜させたように。今回ロッキーに飢えきっているファンも、『クリード』シリーズからファンになった新しい世代も、誰もが歓喜する大傑作において、スタローンがついにオスカー像を手にするのかもしれない。あるいは、クリードはもはやボクシング映画であることからも逃れて、「誰かのせいではなく、誰かのためでもなく、自分が自分としてこの命をどう全うするか」というロッキー&クリードのテーマを描く作品として生き続けていくのかもしれない。マイケル氏なら、スタローンなら、やってくれるはずだ。