日常的にお経を読んで起きた変化
自宅で朝のおつとめをするようになって半年ほどが経った。
天台宗のお寺のお護摩に通ううち、お護摩のときには読まないページがあることが気になり、家で声に出して読んでみた。そうするうちに、なんとなく全ページ読みたくなり、頭から最後まで読んでみた。そうしたら、なんとなくいい感じがした。朝やる気が出ないときなどにそうやって全文読むようになり、次第にその頻度が高まっていった。そして今は、平日の朝に息子を保育園に送って帰ってきたあと、家に一人でいる時間に全文を読むようになっている。
お経を読むことが日常になると、同じお経を読んでいるはずなのに、日によってまったく違うことをしているかのような感じになることに気づいた。お経を声に出して読むことが、自分のその日の体調や気分、抱えている悩みや状況の捉え方を判定するリトマス試験紙のようなものになっている。
まず、お経本を開いたときの第一声が違う。キーがやたらと高くか細い感じの消え入りそうな声が出る日もあれば、普段の話し声よりも低いキーの力強い声が出て驚くときもある。
テンポもその日によって違う。仕事が詰まっているので焦ったり、意図的に早いペースで読んだりするときもあるし、やることが溜まっていてパニック状態のときに、不思議とどっしりゆったりとしたペースになるときもある。自分でのコントロールがきかないのだ。そして、そのコントロールできなさを楽しんでいる。
お経本を開いた瞬間に涙が出て止まらなくなったり、すごく辛いと感じているのに、最後まで特に感情が動かないときもある。お経の主人公が自分になるときもあれば、同じ箇所の主人公が、自分を悩ませていると感じている相手に変わったりするときもある。そういうときは自分のわがままさに気づいてハッとする。
基本的には「仏さまが自分にお話ししてくださっている」という気持ちで文言を受け取っているのだが、心配している人に向かって自分が応援のメッセージを送っているような気持ちになるときもある。
漢文には過去形とか未来形がないから、書かれていることをすでに成就した出来事として受け取って嬉しく反芻するようなときもあるし、「これからきっとそうなるよ」という未来の励ましや、まさに今そうなりつつあるという現在進行形の出来事として受け取れるときもあるのが面白い。なんでお経を日本語訳にせずに漢文のまま受け継いできたのかな?という疑問に対する自分なりの答えが一つ見つかった気がする。
お経を声に出して唱えるうちに、お経が大好きな歌のような存在になってきた。そして、お経は手元に開ける小さなお寺のような存在でもあるし、いつでも仏さまに会いに行けるドアのようなものでもあると感じるようになった。ドアを開くたびに、仏さまは違った姿で現れてくださる。まさにどこでもドア&四次元ポケットのような感じで、そのたびに違った道具が出てきて、自分や大切な人たちを必ず助けてくれるように感じている。お経は単に教えが書かれたテキストではなく、こんなにも自在に姿を変えるものなのか!と驚いている。