寝落ち寸前、ついに阿弥陀さまがご来迎
なんだか最近とにかくダメだった。ここ2週間ほど心身共に乱れ切っていて、ここ数年あまりなかった自己否定が頻繁に出てきてしまうようになっていた。仕事も遅いし料理も全然できていないし、貯金も足りないしいつも部屋が散らかっている。こんな親で息子がかわいそうだ。
またダメになるのかもしれない。このまま一生ダメなのかもしれない。夏のせいとかじゃない、自分がとにかくダメなんだ。猛暑の中で必死に働いてくれている夫よすまない。やることを大量に残したまま、床に就いた。
ところが、息子が寝た気配を感じながら、ふと
「あ、今こそ南無阿弥陀仏なのかも……」
という気持ちがどこからともなく湧いてきて、眠りに落ちた。そして、ここ数日ひどい悪夢続きだったのだが、なにか懐かしい電車に乗るような夢を見た。
起きたら、「あれ、なんか大丈夫だ……」という気持ちになっていた。おぼろげだが、でも確かにわかる。昨日までとは何かが違っていた。
ダメなりに朝の準備をして、息子を保育園に送る。息子は楽しそうだ。小さなひまわりが沿道に咲いていた。
そのとき、ふと「あみださま……」という思いがあふれてきて、ウッと涙が出てしまった。
阿弥陀さま(阿弥陀如来)が死後に迎えに来てくださる、という話を信じることはまったくできていないが、どんな自分でもとにかく大丈夫なんだ、という気持ちを与えてくれる存在として、そういう世界があるのだと気づかせてくれるスイッチというか世界そのものというか、よくわからないがなにかとても優しい存在として、阿弥陀さまはここ数年自分の中に眠っている。
保育園から自宅に戻る帰り道、ふと
「誰だお前」
という言葉が湧いてきた。自分の心の中で自分をずっと責め続けている正体不明の何かにやられっぱなしになるのではなく、初めて闘おうとした瞬間が訪れたんじゃないか、と思った。自分をいつも攻撃してくるひとり言は、自分と不可分なものではなく、いつの間にか過剰に植え付けられたものとして引っ張り出し、対峙することができるようになってきたのかもしれない。
阿弥陀さまは、「そのままでいいよ」「何も変わらなくても大丈夫だよ」と単に甘やかす存在ではなくて、もっと根っこのところ、自分では意識できないような深いところから安心を与えてくれる存在なのではないかと思った。その光に触れることができたとき、人は自然と立ち上がり、本当に大事なものに導かれて歩き始めるのかもしれない。