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消費考

失われていく、駆逐されていくコモンズに対して、社会的異議申し立てと  して、モノ(物)の美を説いた人に、民芸の名付け親である柳宗悦らが      います。柳が言う民芸の美から、消費の在り様を考えてみたいと思います。台頭する資本主義に対して、柳同様、ウイリアム・モリスの運動やグロピ  ウスらのバウハウス設立も大きく捉えれば、暮らしの美を、モノからアプ  ローチした社会的異議申し立てであり、この3者には時代的連続性が見られます。

下手物(ゲテモノ)

民芸と言う言葉、つまりは民芸と言う概念が未だ無い時代(大正期)に、  民芸と言う言葉を使い始めたのが、柳宗悦、浜田庄司、河井寛次郎達(以前の章を参照)です。当初、彼らは民芸の美を下手物の美と言語化していました。「民芸とは、一般民衆の使っている日常生活の用品であるが、正しい質と懇切な仕事と健康な美しさを具有するものを指して言う」と、柳は言っています。また、民芸品だから美しいのではなく、民芸品でないから醜いのでもなく、美しいものは、何ものにあれ、美しいとも言っています。                    民芸や美について、間違った解釈をしている人々が今日多いように感じますが、民芸の美しさとは、作り手(工人、職人や作家)の自我や我執から離れ、つまり利己的な作為から自由になった所から、自然(じねん)に、おのずからしかり生まれるもの、みずからから離れた所から生まれると解釈しています。                              柳が晩年愛した陶工達の古丹波の灰かづきに自然(じねん)の美の有り様だと心打たれたことからも伺えます。下手物・民芸=民衆・庶民=安価に対して、工芸=権力者・支配層=高価の概念を用いたいために、作為丸出しの下手物を手仕事の美と称し、高価な価格、値頃感の無い物々が売られている今の状況を柳らはどう思うでしょう?

美のロストワールド

柳が刊行した(1939年・昭和14年)「琉球の富」は、墳墓、首里、赤瓦、 球語と章が続き、墳墓が冒頭にくることに注目すべきとの指摘(松井健著 民芸の機微)があります。沖縄の墳墓こそ沖縄の至宝、精霊への信仰こそは沖縄の人々の凡ての生活を支配している原理なのです。この事への理解無くして沖縄の美を解することは出来なきと柳は述べている、とあります。人は私(禾は穀物を意味し、ㇺは囲う、つまり独占するを意味する)である以上エゴを持つ、等価な関係にある自然・人・神から自然(しぜん)を祈る感覚が、自然(じねん)と真の美、善の美を見出す、そして、モノや暮らしを作り出す(以前の章を参照)ことと重なると私は解釈します。
1920年に、バーナード・リーチと共に渡英した浜田庄司はイギリスの田舎町で自分が正しいと思う生活を子供達への教育と共に、適切な品物を用い、衣食住の日常の暮らしを整える家庭の様相に、自らの送るべき暮らし方を感化されたと語っている所からも伺えます。(ワーズワース没後訳50年)

一方、琉球の富を刊行するきっかけとなった沖縄の織である芭蕉布。これは、富んだ人だけの手に渡るのではなく、庶民の夏衣として誰もが着ているのを見かけ、7、8月頃になれば首里や那覇は、この風俗の町に変わると柳は述べています。しかし芭蕉布は意味が記号化し、格差(経済、文化共)の表象となり、消費社会下の高額商品となり、もはや民芸とは言えなくなりました。民衆の日常からは離れてしまいました。同様なことは、モリスしかり、バウハウスしかりです。この事を柳らはどう思うでしょう。

民芸から民具へ

民芸とは、日々の暮らしに登場する物々を指しています。古い物、高価な物を指している訳ではありません。平常使いの物々の中から、正しい質と懇切な仕事と健康な美しさを持つ故、作り手の利己的作為から解放、自由となった自然自在(じねんじざい)な物々を指しています。手仕事な物々ですが、今の言葉にすれば、良質な機械製も含む民具と置き換えた方がイメージ出来るように思われます。ここで言う、民芸→民具を選ぶことは、暮らしの豊かさ→身体の豊かさ→仕事の豊かさにも繋がっていく故、日々の民具を買う事は、選ぶ事として、とても重要なことだと思ってきました。
祈らない祈り 仕事は祈り 暮らしが仕事 仕事が暮らし。        物買って来る 自分買って来る。
これは河井寛次郎の詩作の一部ですが、暮らしの豊かさ、ライフスタイル、消費社会を突いた言葉のように思えます。消費社会でのモノやコトの意味付けは記号となり、買う人の経済的、文化的相対的な優位性を表せているか否かを競う。やがて記号は乱造され、その情報は拡散され死んでいく。記号論はマーケティングの中で死んだともなる。これに、知ったかぶりとなるのではなく、だからケシカランとなるのでもなく、河井の詩を民芸運動の核心、本意の一つとして消費(買い物)は暮らしの豊かさの一面であり、その仕方がとても大切だ、何故なら仕事にも生活の総体にも関わってくることだから、と読んで欲しいと思います。ワーズワースの詩作であるPlain living High thinkingとも重なり合うようです。(以前の章参照)


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