こだわりが”継続”への執着になりかけ、”書かない”ことが怖くなった話(159/365)
昨日の深夜も若干の眠気はあるものの「さぁ今日は何を書こうか」とパソコンを開いた時に、ふと思ったことがある。
・正直眠い日もありながらも今こうやって毎日書いているけど、もし書かない日があったら自分でどう感じるのかな?毎日投稿の呪縛から解き放たれて気楽になる?やっぱり書きたくなる?
・今年一年は毎日投稿にこだわりたいけど、「呪縛」「気楽」なんてキーワードが出てくるということは、こだわりが執着になってしまっていないか?
・あるていど継続してきたことで、noteを書く目的が”書く”という本質的な部分から”継続を途切れさせたくない”になっていないか?
こんな事を思ったので、”書かない”ことにした。
正直書かないことは怖くもあったが、自分でも実際どうなのかを確かめたかった。
とはいえ、ここまで毎日続けてきて途切れてしまうはもったいない気もしたので、呟き機能を使った。
これは最初自分で決めた「呟き機能はOKだが連続2回はなし」のルールに救われた。
そして久しぶりに書かなかった次の日を過ごしてみた。
まず、ソワソワする。
別に書かないことが悪いわけでもないし僕が書かないことで誰かに迷惑がかかるわけではないのに、どこか落ち着かなかった。
書かなかった分気楽ではあったが、それより書かないことに対する気持ち悪さの方が勝った。
ちょっとやってしまった感もある。(歯磨きせずに寝てしまった時の感じ)
「もう書かないでいいよ」と言われても「はい、わかりました」とはならないというか、そうなれない気がする。
これは”書く”が日常の一部として習慣になってきたからだとポジティブに捉えている。
仮説の2つ目と3つ目に関しては、その通りの部分もあるなと感じた。
毎日投稿を始めた当初はあくまで”継続”が目的だったが、だんだん”書く”楽しさや豊かさなどの魅力に気付いてから、書きたいから”書く”ようになり、その副産物として”継続”があるかたちとなった。
しかし、ここまで”継続”してきたことにより、「途切れさせたくない」と”継続”することに執着してしまっていた部分もある。
”書く”ことのハードルは下がってきているので、”継続”すること自体はそう難しくはない。
適当に日記をつけていれば継続はできる。
だが、そうなってしまっては、本末転倒である。
”継続”する為だけに、”書く”を疎かにしたくないし、”書く”をやるべきことにしたくない。
自分なりのこだわりを持つことは大事だが、それが執着になってしまうと盲目的になり、本来大切にしていた部分を見失いかねない。
一度距離をとってみることで気付くこともある。
それと、もしここで今日も書かないなんてことになったら、日常の一部になるつつある”書く”ということが頑張らないと出来ないことになってしまう気がする。
せっかく見つけた自己表現を頑張ることにはしたくない。
”書く”が遠く離れていってしまう怖さがある。
それこそ執着になってしまっているなら離れるという選択肢も必要だろうが、”書く”ことに豊かさを感じているのだから続けたい。
書かなかったことで、改めて”書く”ことが本質だと感じることができた。
そして、”書く”を大切にし執着になってしまわない為にも、これからのnoteの使い方などを色々と考えるきっかけにもなったので、”書かない”という選択肢は結果的には良かった。
やっぱり”書く”は好きだな。
まずは一年。