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「みんなちがってみんないい」はどう理解されている?

金子みすゞの再評価が行われた時、『私と小鳥と鈴と』の中の一節「みんなちがって、みんないい」が、個性・多様性尊重の文脈で世の中に広がった。

では、「一人一人が異なる特性をもった存在である。だから互いに尊重し合おう」「異なる者が共に生きているからこそ、この世界は豊かなのだ」といった解釈の成り立つこの言葉が、実際に社会や教育現場でどのように理解されているだろうか。
その受け止め方に危惧を感じているのは私だけだろうか。

学校現場にいた私は、この言葉が次のふたつの受け止め方をされている場面に出くわすことが何度かあった。

ひとつ目は、集団内において、「みんなと同じ」である多数派の人々(子供たち)に対する「ちょっと異質」な少数派を<取り出し>、<受容>し<擁護>しようとする場面である。
そうした場面では、「〇〇さんは、ちょっとみんなとは違うけれど、同じ<仲間>です。大切にしましょう」という、圧倒的に特権的な位置から特定の人(子供)を見下ろす言葉が語られる。
「みんなちがっている」と言いながら、「ちがう」ということを一部の人(子供)へのレッテルとしてのみ用いているのである。

この見方の端的な例が、<分離教育>である。
例えば不登校の子供を「受け皿」と称して専用の<特例校>に集めようとする施策がある。
文科省はしばしば「支援ニーズ」という言葉を用いるが、それは誰にとっての「ニーズ」なのであろうか。

ふたつ目は、「他の人(子供)とちがっていればいい/ちがっていることがいいことだ」という受け止め方をしていることである。
個性・多様性尊重とは、自己中心化の奨めでもなければ、生活や学習の孤独化を招くことではまったくないはずだ。ましてや教育格差を助長するものであっては決してならない。

しかし教育現場では、「子供が自ら考えて学ぶ」ことがそのまま個性化・多様化の推進につながるという表層的な理解に基づいた<学校改革>にしばしば出会う。

「学ぶ」ということの本質から考えて、まず異なる他者との共同性・協働性は不可欠である。「みんなちがう」からこそ、共に学ぶことでそれぞれの「異なる学び」が深まるとともに、「共通・共有の知」が創造できるのである。相対主義に価値はない。

また、教師の適切な支援も絶対的な必要条件である。
例えば、ベストセラー『学力喪失 認知科学による回復への道筋』(岩波新書2024)においても、今井むつみ氏が、子供が「将来自走できる学び手」に成長するためには、「子供を支援し足場架けをしてあげることが、教師、保護者、すべての大人の重要な役割であることを強調している。

「自由進度学習」と言えば一人一人を尊重しているかのように聞こえるが、<子供任せ>であっては、学びは成立しないのである。ましてや教師の負担軽減を目的に宿題を自由制にして子供に丸投げするといった方法は、筋違いも甚だしい。

以上のような「みんなちがってみんないい」の受け止め方は、先にも触れた不登校や教師の休職の数の増加とも関連しているのではないか。そのことは、次回「リフレク帳 196」で考えたい。