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不登校・教員精神疾患に対する急務は何か
2024年末、文科省から2023年度の不登校児童生徒数の調査結果が公表された。
それによると、全国の小中学校で30日以上の欠席をした児童生徒数は過去最多の34万人超えであった。
また同時期に2023年度に精神疾患で休職した全国の公立小中高校、特別支援学校などの教員数も公表された。
前年度比580人増の7119人でこちらも過去最多を更新したとのことである。
登校したくてもできない子供たちや保護者の方々の気持ち、また休職を余儀なくされた教師の心情を察すると、胸が締め付けられる思いでいたたまれなくなる。
悪化の一途をたどるこの結果を前にすると、やはり文科省の教育改革への取組に首をひねらざるを得ない。特に近年は教育問題といえばその原因を「コロナ禍」に求める傾向にある文科省の分析は、的外れではないのか。
著名な精神科医である中井久夫氏は、『治療文化論』(岩波書店 1990)の中で次のように言う。
何でも話せる友人が一人いるかいないかが、実際上、精神病発病時においてその人の予後を決定するといってよいくらいだと、私はかねがね思っている。(p.129)
休職へと追い詰められてしまった教師には、その苦しさを相談できる相手が校内にただの一人も存在しなかったのではあるまいか。
その状態のとき、教師の仕事は苦役でしかなくなる。
新自由主義の考えが教育現場にも導入されて以来、結果主義/成果主義によって教師の仕事を評価する傾向が、著しく進んだ。
恐らく、彼/彼女らは多忙だから誰かに相談できなかったのではない。
求められる「生産性」や「効率性」と「子供に教える/子どもと学ぶ」という営みがコンフリクトを起こしていることに困惑し、耐えられなかったのではあるまいか。
あるいはそうしたことを誰かに話すと「仕事ができない教師」と見られてしまいそうで、行き場を失っていったのではあるまいか。
不登校の子供に対して「精神病」についての言説を用いることにお怒りの方もいらっしゃるかもしれないが、子供の足が学校に向かない、向けることができないのも、同様の背景があるのではないだろうか。
学校/教室の中に、誰か一人子供でも、それが教師であってもよいから、その子供が「かかわる」ことのできる人間がいたら、状況は変わっていたのではないだろうか。
文科省は働き方改革を一層進め、教員の「心の病」に対処するのだという。
不登校の子供の「受け皿」として「学びの多様化学校」を指定するのだという。
だが、こうした施策が前提としているものが「生産性」や「効率性」のさらなる向上である限り、事態は改善しないのではないか。
仮に「学びの多様化学校」によって不登校児童生徒数が減少したとしても、それは子供を非対称的に分離しただけである。
学校を教師と教師を<つなぐ>場所へと、また多様な子供と子供を<つなぐ>場所へと再生/変革を同時に行うことこそ解決策のひとつではないのだろうか。
「変わる」べきは学校そのものなのである。
とはいえその学校について、経済産業省がいかに「好きなことに夢中になれる教育への転換」を示そうとも、やはり経済発展という目標が透けて見える「個別最適化」である限り、前回の「リフレク帳 195」で述べたように「みんなちがって、みんないい」を曲解した学校教育は、子供をばらばらにするだけだろう。