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「思考停止」は「悪」か?高校野球脱丸刈りから考える

甲子園での慶応高校の快進撃が話題になっている。

この記事を投稿している8月22日の時点でいうと、明日は仙台育英高校との決勝戦を迎えるとのこと。
どちらの学校も全力を出し切れることを心から願う。

ところで、慶応高校野球部が話題になっている理由の一つに、「脱丸刈り」があるようだ。

「野球部なら丸刈り」という伝統的に考え方に縛られない自由さに共感を覚える人が多いようであり、その「伝統だから」という旧来の考え方が「思考停止」状態であるという言説に、今求められている「新しい学力観・能力観」を重ねているようにも見える。

では、本当に、「思考停止」とは、人間にとって「悪いこと」なのか。

このことについては、佐伯胖氏の論考が興味深い。

佐伯胖(2013)で、氏が紹介するキラリーらの実験では、円盤のパネルをおでこで押して点灯させる装置に対して、生後14か月の赤ちゃんが「偶然目にするように」実験者がおでこで演示した場合は赤ちゃんはとまどうことなく手を使って円盤を押したのだが、実験者が「見てね」、「やるよ」と、「やってみせた」場合は、赤ちゃんは見せられたとおりに、おでこで点灯させたのだという。

それは、一四ヶ月の赤ちゃんでも、大人が「よく見てね」という素振りで示されると、「この人は自分になにかを教えようとしている」とみなし、「その通りに従うべきもの」として受け止め、「そもそもその箱はどういう装置なのか」を自分で考えることを停止させている、ということである。

(佐伯胖「新装版あとがき」,佐伯胖 他『新装版 心理学と教育学の間で』,東京大学出版会,2013)

同様の状況は、教育の実践場面でも多く存在するはずである。
教師が「教える」ことへの熱意を高め、「よく聞いてよ」「よく見ていてよ」と、子供に声を掛け、子供の顔を見つめながら、説明、演示などを行うことがよくある。
だが、その時子供は、実は、思考停止状態になっているというのである。

佐伯氏は、以下のように続ける。

先生が子どもたちの前で、「いいですか、よく見てね」とか「よく聞いてね」というとき、暗黙のうちに、子供たちに、「自分で勝手に考えてはダメですよ」、「先生が示す通りに従いなさいね」と伝えているのだ。「いや、自分はそんなつもりで授業をしているわけではない。子どもたちにはできるかぎり、自由に考えさせているつもりだ」と言っても、子どもたちは、そうは受け取っていないということを明確に示しているのだ。

(佐伯,2013,前掲書)


思考停止を子供にとって「悪いこと」と考えていながら、実は教育において「大人」が子供にその思考停止をさせている場合のあることが分かる。

そしてそれは、学校教育の場面だけに限ったことではないようだ。

佐伯氏は、「学びほぐし(アンラーン)のすすめ」(狩宿俊文 他編,『まなびを学ぶ』,東京大学出版会,2012)において、先のキラリーらとともに実験を行っているジャージリらの考えを以下のように伝えている。

 ジャージリらは、人間文化のなかで、親から子へ、先生から生徒へ、先輩から後輩へというように、文化が「伝承」されるとき、その多くの場合、「意味がよくわからないまま」、いわゆる「盲目的模倣」によって伝承されるのは、きわめて「よくある」ことであり、それは私たちが「ペタゴジー」(「子供を導く」という意味のギリシャ語に由来する広い意味での「教育」だという―引用者)という人間固有の伝達方式への適応性を進化的に獲得しているからであるとしている。

どうやら、一概に「思考停止は悪」としてしまう見方は成り立たないようである。
むしろ、思考停止によって身に付くものもあるのである。

 わたしたちの身の回りには、特定の「型」の習得を強いている「世界」が多様に存在している。むしろ、人は生まれ落ちた瞬間から、なんらかの「世界」に投げ込まれており、そこでその「世界」特有の「型」を身に付けさせられている。その世界で巧みに生きていく「わざ」(暗黙知をふくむ)を習得しているのだが、そこではなんらかの「思考停止」もまた身に付けているのである。
(中略)
人が新しい「型」を習得していくとき、…もうれつに「思考」を活動させることが生じると同時に、他方では、これまで習慣的に行っていた「頭のはたらかせ方」を「停止」する、いわば「思考停止」もまた同時に伴っている。むしり、そのような「思考停止」によってこそ、多くの暗黙知(身体技法)を身に付け、その文化のハビトスを身に付け、「考えないでもからだが動く」わざを見に付けているのである。/つまり、「思考発見」と「思考停止」は表裏一体であり、「一方だけ」ということはあり得ない。私たちは、多くのことを「まなぶ」とき、同時に多くの「思考停止」も身に付けているのである。

(佐伯,2012,前掲書)

佐伯氏の論に導かれながらこのように考えてくると、「思考停止」を即座に「悪いこと」としてしまうことこそ、逆に<思考停止>状態なのだと思えてくる。

むしろ、私たちに求められているのは、子供が「思考発見」すなわち「わかる」ときに「思考停止」も行っているということを意識することなのではないか。

そして、それを踏まえた上で、子供の「わかる」ことを援助することではないのか。

学習場面での「思考ツール」の使用は、このことに類似した例として挙げられよう。

「思考ツール」を用いることで、教師は子供たちの考え方に一定の「制約」をかける。
だがそれにより、子供の思考が逆に活性化することは、よく知られている。これが、思考ツールの効用の一つになっている。
さらに子供は、自由に「視覚化した図形」を自ら考える楽しさは「奪われ」たかもしれないが、「与えられた図形」を思考スキルとして身に付ける可能性を得たともいえるのである。

先の学習場面での熱心な教師の説明、演示においても、実は多くの教師は、子供が「思考停止」状態になることを逆手に取って、「型」を教え込みたいとき、すなわち、「問題の解決方法」を教え込みたいときに、「思考停止」を「技法」として用いているのではないか。

そう考えると、「丸刈り」も、ある「ねらい」があって意図的に生徒に「思考停止」させているという見方もできる。

ならば議論すべきは、「丸刈り・思考停止」ではなく、その「思考停止させたいねらい」についてであろう。

長くなったが、最後に、もう一度、佐伯(2012,前掲書)から引用して締めくくりたい。

 つまり、私たちは、「ほんとうのこと」というのは、すぐにわかるとはかぎらないということを、どこかで受け入れていなければならないはずである。/このことは、意味理解を安易に放棄して、「わからないことはわからないままでいい」ということではないだろう。「わかっていく」ということは、簡単なことではないということを受け入れた上で、もっと深い意味、もっと多様な意味を、「よくわからないまま」探求し続けるということも、重要なことであろう。あるいは、私たちが安易に、「わかっている」と思っていることを、もういちど、「ほんとうは、わかっていないのかもしれない」という疑いの目で見つめて、「わかりなおそう」とすることも、必要なことであろう。

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