子供の絵 画面構成を支援する学習課題と工夫
描画の指導で、子供に描かせる絵の種類を、「観察画」「デザイン画」「構想画」「想像画」などと類別して呼ぶことがある(もちろん、小学校の図工の指導要領では、こうした言葉は用いられていない)。
私は、どのような種類の絵であれ、どれも「構想画」であると、ずっと考えてきた。
観察して描く絵であっても、小学生に再現性を求めるわけではない(これは、ほぼ同じことが図工の指導要領の解説に書かれている)。
つまり、どんな絵でも、子供は絵に表すものを「構想」して描く(版画なら版表現する)のだという捉え方をずっと私はしてきた。
思い切り言葉を砕くなら、子供の描く絵は、どれも「お話の絵」である。
だから、子供が、「お話」、つまり、絵に表したいこと、主題が決まったら、それが表現できるように画面構成の支援をすることが必要だ。
しかし、指導要領の解説には画面構成に関する記述が見当たらない。
子供のアドリブ重視ということか。
時折、予め別の紙に一度「下描き」をさせてから「本番」へ、という指導をしている人を見掛ける。
工作でのアイデアスケッチならまだしも、絵に表す活動で「下描き」をすることには、私も反対である。実際の作品製作が感動の薄いものなってしまうからだ。
また、製作活動の途中で、構想を豊かに膨らめ、当初の計画を変更していくことも有意義だと考えている。アドリブ賛成である。
だが、「自由に描きなさい」では、十分な表現活動にならないことは自明だ。
そこで、以下、私が行っていた画面構成についての支援方法を紹介する。
学習課題の基本型
「何を、どこに、どれぐらいの大きさで描いたらいいか」
これが、私の用いた学習課題の基本型であった。
学年によって投げ掛け方に多少の違いはあったが、全学年に共通する課題内容である。
「何を描いたらいいか」
「どこに描いたらいいか」
「どれぐらいの大きさで描いたらいいか」
この三つが事前にはっきりしていないと、子供は表したいことを具体化できない。
行き当たりばったりの絵になってしまう。
もちろん、この「事前の計画」には、学年段階で程度の差がある。
低学年の場合は、ある程度「何」「どこ」「大きさ」が決まったらそのまま描き始める。描き進めることで、構想が膨らみ、具体的になっていくはずである。
逆に4年生以上ぐらいになると、「事前の計画」がかなり明確になっていなければ、描き始められないだろうと思う。
そこで、次の手立てを打つ。
紙を切り抜いて画面を組み立てる
絵に描きたいと考えているもの、つまり、「『中心』になるもの」と「『周り』になるもの」という造形要素を、「わら半紙」と呼ばれる印刷用紙などを使って、楕円形などに切り取って、画面に置かせてみる。
様々に試させ、その大きさや配置によって表したいことが表せているかどうかを考えさせるのである。
しばしば、一斉学習でも検討の場を設定した。
「主題(例えば、「寂しさ」「楽しそうに話している様子」「動物を大切に思う気持ち」「勢いのある動き」「遠近感」などなど)がより強く感じられるのは、どれだろうか」
と問い、いくつかの「お試し」を比較させた。
互いの絵に対する感じ方を参考にさせるためである。
版画の下絵ならコピー機を
「本番」の紙に描き進める段階で、思った通りの大きさにならない子供もいる。
それは、「悪いこと」ではなく、「新たなよさ」をもった絵になっていく好機にもなるのだが、大きさを変えたいと言う子もいる。
そんな時、もし、それが版画の下絵であれば、コピー機で拡大や縮小をすればよい。いちいち描き直さずに済んで便利である。
絵の具などを使った描画ではコピー後の着彩ができないのでこの方法が取れないが、版画なら板に転写をするので、コピーした絵を下絵の紙に貼り付ければ、そのまま下絵として使える。
位置がずれた絵をどうするか
以上が、画面構成の際の子供への支援方法だが、番外として、観察することにウエイトを置いた指導で、子供が「失敗」した場合の支援を紹介する。
「よく見て描く」ことについて特に取り組ませたい場合は、前もって描くものの大きさや配置を決めさせることは、あまりしない。
そのため、紙の端の方から描き始めたり、大きく描きすぎて紙の中に収まりきらなくなったりすることがある。
そんな時こそ、「絵に失敗はない!」ということを教えるチャンスである。
もし、紙の右端に描いてしまったなら、紙の左側を切りとってしまえばよい。
まだまだ右側に絵が「広がって」いくようなら、切り取った紙を右側に繋げればよい。
紙の中に収まりきれないほど大きく描いたなら、別の紙を繋げればよい。
以前指導した「友達の絵」では、できあがった絵のほとんどが、何枚も紙を継ぎ足してモザイク状になっていた。
「学校の先生は、図工で絵を描かせる紙も、校庭の花壇も、何でも四角いのが好きだ」というのは、かつてよく聞いた教師を揶揄する言葉である。