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年度末評価で子供の表れをどう捉えるか

年度末を迎え、どの教師・学校もこの一年間の教育活動や子供の学習・生活の表れの評価を進めていることと思います。

今回は教師が子供を評価する際の、子供の表れを捉える方法やその考え方について、考えたいと思います。

多様なものさしを用意する

子供の表れを捉えて評価につなげる上で何よりも大切にしたいことは、多様なものさしを用意することではないでしょうか。

年度末の評価の目的とは、子供に達成感や自己有能感、自己効力感を感じ取らせ、次年度に向けての意欲を高めたり目標をもたせたりすることでしょう。また、そうしたねらいによる評価を子供に示すことで、子供の自己評価能力の向上も期待できます。

そのためには、多様な評価、すなわち子供を捉えるものさしを多様に用意することが不可欠です。それにより、どの子供に対しても具体的できめ細やかな評価をする可能性が高まるからです。

通信表や指導要録のための評価をするというのであれば、数や内容を絞った評価の観点で子供を見取っていくことでコスパは高まります。
しかしその方法では、上記の目的に迫ることは難しいでしょう。
ましてや、一人一人の子供に寄り添った評価は無理ではないでしょうか。

多様なものさしを用意する方法

では、どのようにしたら多様なものさしが用意できるでしょうか。
学級にいる35人の子供に対して、一人に一つずつ異なった「ものさし」を用意するだけでも、35通りの「評価の観点」が必要になります。
そんなことは不可能だと言う声が聞こえてきそうです。

でも、できます。

一つの「ものさし」を他の場面や他の教科等に<ずらし>ていくのです。

例えば国語の物語文の読解で、「人物の気持ちを読み取ることができた」と捉えることができる子供Aさんがいたならば、Bさんには「人物の気持ちを場面による変化で読み取ること」ができていなかったかという観点でみてみましょう。Cさんには、「他の人物の気持ちと比較して読むこと」ができていなかっただろうか、Dさんには、「読み取った人物の気持ちを音読で表現すること」ができていたのではないかと見ていけばよいのです。

このように、一人の子供の「よい表れ」を起点に、少しずつ観点をずらして他の子供を捉えるものさしにしていくことで、観点が次々と広がっていきます。

また、一人の子供を捉える際にも、見方を多面的・多角的にずらしていくことで、新たなその子の評価が可能になります。
例えばEさんは、「算数の筆算で位を揃え丁寧に書くことで正確な計算をすること」ができました。では、そのEさんは、漢字の繰り返し練習ではどうだったでしょうか。同じような傾向が見られたでしょうか。逆に、漢字では間違いや雑さが目立ったのなら、それはなぜでしょうか。また、書写ではどうだったでしょうか。あるいは社会科や理科で調査・実験したことのまとめ方はどうだったか…と、広がり、そして場合によっては深まりの期待もできる子供を捉えるものさしが形成できます。

さらに、子供を「個」としてだけ見ずに、「個と集団」として見ることで、別の側面が見えてきます。
つまり、個の成長を集団との関わりで捉えるということです。
Fさんは、学級や学校集団に対してどのように考え、どんな行動を取っていたでしょうか。逆に、学級や学校集団としての取り組みや変化はFさんにどんな影響を与えていたでしょうか。
そうした表れは、具体的に「個と個のかかわり」として見えてくる場面もあることでしょう。

さて、このように「多様なものさし」という方法で評価を考えてくることで、まず次の二点が明らかになったのではないでしょうか。
一点目が、こうした多様なものさしの用意は、年度末評価に限ったことではなく、日々の授業で行うことであるということです。
二点目は、その日々の授業において教師がどれだけ多様なものさしを用意してきたかが、年度末評価では問われるということです。

子供の評価とは、教師・学校が自らを評価することにつながるとしばしば言われます。
子供を評価するとは、教師・学校にとって極めて省察的な取組みだと考えられるでしょう。

多様なものさしの用意とはものの考え方の変革?

「多様なものさし」という方法で評価を考えることは、さらに教師・学校のものの考え方に変革をもたらすということが、次に見えてきます。

上では、多様なものさしの用意する方法を述べましたが、もともと方法とは単なる技術ではなく、何らかのものの考え方に基づいているはずです。

教師が多様な視点を用意することで子供の表れの見え方が変わってくるということや、個を集団との関わりで捉えようとするということは、「評価」を関係概念で捉えようとしていることの現れのはずです。
子供の学習や生活場面での表れを、その子供の独立した表れと見るのではなく、他の子供、教師や学校、また家庭や地域、さらに教育制度などとの関係で見るということです。
つまり、子供の表れを社会・文化・歴史的な網目の中で捉えるという考え方が、その根本にあると考えます。

もともと教育の場では、「教師が変われば子供が変わる」と言われてきたように、授業や学習を教師と子供との関係性で見ようとしてきました。
しかし、「ああすればこうなる」という、教室を実験室になぞらえた近代科学の目で見ようとしてきた面も多かったのではないでしょうか。
もちろん、そうした実践知につながる方法は現場において不可欠です。
しかしながら、「ああしてもこうならない」「ああするとそうなってしまう」という場面が生起するのが実際の授業・学習場面です。
ゆえに必要なのは、学習・授業やそこに生起する子供の表れを、社会・文化・歴史的な網目の中で捉えようとする自覚だと考えます。

私もこの「ヒント帳」ではいくつもの「ああすればこうなる」を提示してきましたが、それは、必ずしも「ああするとこうなる」わけではないことを前提にしてきたつもりです。
教師を独立変数、子供を従属変数として見て実践・評価をしているだけでは、その評価は「顔」のない子供をつくることにつながるでしょう。

ところで、子供の学習や生活場面での表れを関係性で捉えるということは、例えばある子供が今日、自ら進んで内容を工夫した家庭学習に取り組んだことを、教師の宿題の出し方や、学校全体での家庭学習への取り組ませ方、さらに保護者への呼び掛けが影響していると捉えるということだけではありません。
そうした宿題を出す行為自体に、「子供は学習者として家庭でも机に向かう習慣を育むべきだ」「子供が内容を工夫して宿題に取り組むような能力は、今求められているものだ」といった教育観や時代の要請の受け止めが、教師、学校、保護者、場合によっては子供にもあることを省察的に捉えるということです。
また、「だから、その子供は『◯』である」と評価したならば、その子供の捉え方は実は先のような一定の枠組みで見たものに過ぎないと、評価した者が自覚をすることが、関係性の網の目で捉えるということです。

ガーゲン(2004)は、社会構成主義の立場から、例えば学校教育で「上手な文章を書く」ことを教師が指導する背景には、上手な文章を書くことが「普遍的な正しい推論」を個人の心の中で行っている証拠であるという人の心を実態概念で捉える信念があることや、そうした「標準的な書き方」は上司に対して明瞭かつ効率的に報告する従属的な立場の人間を育てることにつながるという見方もできることを指摘しています(東村知子訳 『あなたへの社会構成主義』ナカニシヤ出版)。

「両行」概念で子供を「評価」する

このように、教師(など)が、子供の表れを捉える自らの見方を自覚し、省察的であろうとすることの一環として、子供のネガティブな表れをポジティブなものとして捉える見方があると考えます。

子供の自己評価能力を高めたり、それ以降の学習や生活に繋げさせたりするための評価にするためには、子供のマイナス面についての評価も必要でしょう。

子供がネガティブな感情を抱いている出来事を「なかったことにする」実践を見掛けることもありますが、私は「向き合わせる」べきだと考えています。

ただしその時に、、ネガティブな出来事としてだけ向き合わせるのでなく、ポジティブなものへと置き換えさせることに、大きな意味があると考えます。

それが、「両行」概念です。
日本の質的心理学の第一人者であるやまだようこ氏は、価値の見方を多面的に捉え、ある面から捉えればプラスでも別の面から評価すればマイナスにもなる見方を「両行」として提案しています。
これは、中国の荘子からとった用語で、「二つながら行われていくこと」「矛盾の同時存在」「対立物の共存と併行」「両価値の共存」を意味するとのことです(やまだようこ 2001/2021 『やまだようこ著作集第7巻 人生心理学 生涯発達のモデル 新曜社』)。

この「両行」概念を用いることで、例えば友だちにした意地悪を「相手の気持ちを大切にできなかった<悪い行い>」と捉えつつも、時間軸の中ではそのことを通して「相手の気持ちを大切にすることとは何か」について考える契機になったことと受け止めさせることが可能になります。

これは、嘘や言い訳で子供の「失敗」をごまかすこととは異なります。

この「両行」概念で子供を評価することによって、教師は一層子供に「寄り添う」評価を行う可能性が開かれるように思います。
そして、子供が、「できた-できなかった」という一方向への直線的な時間の中において二項対立的な見方で評価される存在から逃れることを可能にすることに繋がると思うのです。