「学テ」の結果をどう活かすか?
文科省が令和6年4月に実施した全国学力・学習状況調査(以下、「学テ」)の結果が、7月29日に公表された。
この学テに対して、働き方改革の推進を背景に、悉皆方式ではなく抽出校方式への変更や中止そのものを求める政治的言説を目にすることがあるが、それでは教育そのものについての議論が深まるとは思えない。
それでは、学校現場の教師は、「よりよい教育の実現」という視点から、学テにどのように向き合ったらいいのだろうか。
ダニエル・カーネマン(2012)は、『ファスト&スローあなたの意思はどのように決まるか?(上・下)』(村井章子訳 早川書房)において、私達が統計結果を適切に扱うことに対して大変苦手であることを様々な認知的錯覚の例を挙げて説いている。
その一つとして、たとえ説得力の高い原因を暗示するような統計結果があっても、人は長年の信念や個人的経験に根ざした信念によって「事実」を判断するという(同書「第16章」)。
つまり、統計は「無視」される。
確かに学テの統計結果は、「私の学級」の結果ではない。
学習や学力は文脈を抜きにして考えることができるものではなく、テスト結果という限定的な「事実」であっても、個別的・具体的な考察が必要である。
だが、だからといって学テの結果は「役に立たない」ものとして無視していいのだろうか。
学テの結果を無視することは、合理性の排除であろう。
その一方で、学テという取組に追従し、調査でありながら目的化して得点を高めるための「練習」に注力したり、統計結果をそのまま「私の学級」に当てはめることをしたりしたならば、それは、子供、教師の主体性を損なうものになると言わなければならない。
そして、それ以上の問題を子供に引き起こしかねない。
文科省が今回の学テの結果として挙げていることの中に、以下のものがある。
●国語では、自分の考えなどを記述していても、必要な情報を取り出すことや表現の効果を考えることに課題が見られた。算数・数学では、複数の集団のデータの分布の傾向を比較して捉え、判断の理由を数学的な表現を用いて説明することに課題が見られた。
●「主体的・対話的で深い学び」に取り組んだと考えている児童生徒ほど、各教科の正答率が高く、自分で学び方を考え工夫している。
●授業の中で「主体的・対話的で深い学び」に取り組んだ児童生徒は、家庭の社会経済的背景(SES)が低い状況にあっても、 各教科の正答率が高い傾向が見られる(低いSESでも主体的・対話的で深い学びに取り組んだ児童生徒は、高いSESで取り組めていない者よりも各教科の正答率が高い)。
(国研ホームページより)
もし、あなたが教師であるとして、この結果を実直に受け止めたならば、どうなるだろう。今回のテスト問題を真似た授業を実施し、子供の学力の「改善」に励むに違いない。(現に過去において、学テの調査結果を受けて放課後に一部の子供を残して「補習」を実施することが、「学力調査活用アクションプラン」と称して教育委員会主導で堂々と行われた。)
だが、例えばそのような「複数の情報やデータを活用して自分の考えを表現する力」が、「今」、あなたの「目の前」の子供たちにとって本当に必要な学力なのだろうか。その学習活動は、「今」、あなたの「目の前」の子供たちにとって必然性があるのだろうか。
また、あなたが、日頃から「主体的・対話的で深い学び」を具現化しているという自覚があるならば、「そうか、これをこのまま続ければいいのだ」と、安心感を得るだろう。
しかし、あなたの行っている「主体的・対話的で深い学び」は、「今」、「目の前」の子供たちの確かな学力を本当に育むものになっていると言えるだろうか。「主体的・対話的な学び」とは、決して一つの型に収斂されない。多種・多様な学びの姿の総称であるのだ。
したがって、その学習活動が、あなたの学級の中の「家庭の経済的な問題によって学力が伸び悩んでいる子供」を実際は援助してはいないのかもしれないのである。
統計結果というものが、具体的個別的な「目の前」の子供たちを取りこぼしていることは、大方において間違いない。統計処理においては、具体的個別的な子供の姿や教師の学習支援活動は「誤差」として切り捨てられる。
文科省の示した結果が、あなたの学級の姿をそのまま表しているわけではない。
学テに実際に取り組んだ学級ならば、その結果を見れば、「正しい」姿が得られるはずだと考えるかもしれない。
だが、調査結果を開く教師がいたならば、彼は即座にこう思うだろう。
「この問題で、わたしの学級の子供たちの、「複数の情報やデータを活用して自分の考えを表現する力」が本当にわかったのだろうか」
「私の学級の子供たちは、『主体的・対話的で深い学び』の意味をどのように理解して答えたのだろうか。そもそも質問項目の『課題の解決に向けて、自分で考え、自分から取り組む』は『主体的・対話的で深い学び』と同じ意味だろうか」
では、教師は、「今」、「目の前」の子供たちのために、学テの結果をどのように活かしたらいいのだろうか。
私は、教師が<主体として>、学力と学び方について考えるための視点の一つにすることを提案する。
学テの結果とは、教師が従うべき勧告の性格をもつものなどではまったくなく、そこに示されている「学習場面」や「学力」は確定されたものなどではない。
「そもそも資質・能力を育てるという考え方が、子供の本来的な学びを疎外している」という見方もある。
したがって、学テによって示された「学習場面」や「学力」を視点として用いることによって、教師は、「学力とは何か」や「自分の学級の子供たちにとって必要な学力は何か」、「そのための学び方はどんな姿か」といったことについて検討をすればよいのである。
そうすることで、例えば、「『事実』と『意見』を明確に分けて捉えることは、実はそれほど容易なことではないのではないか」とか、「複数の情報を用いる必然性がある状況ならば、自分の学級の子供は実践することができる。ただ、苦手なのはその選択の方法のようだ」といったことに気が付くことができるのである。
また、「私の学級のA児には、もっと保護者と協力して手厚い支援をしなくては、他の子供との学力差がますます開いてしまう」と、指導への思いを新たにすることが可能になるだろう。
<参考:鯨岡峻2005『エピソード記述入門 実践と質的研究のために』東京大学出版会>