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Lucky to be me 

なんて日だ、というまでひどくはないけれど。いつもこうだ。大切な日には雨が降る。

いつものお店に行くだけなのだが、今日は荷物がある。できれば濡らしたくない。それに片手に傘を差すことになれば両手が塞がる。小さなバッグでも肩掛けできるのを選ぶぐらい、できれば両手をあけていたいタイプの僕にはそれだけでけっこうな苦痛なのだ。

昼までは晴れていたのに。それが外に出るタイミングでこの雨。

しょうがない。僕は左手に荷物、右手に傘を持った。



「いらっしゃいませ」

「どうも」

いつもの僕の特等席、カウンターの一番奥の席に腰をかける。持ってきた紙袋は彼女からも見えているだろうが、ひとまず足元に置いた。

「何にする?」

「とりあえずビールで」

Cafe SARI は駅前通りから一本入った小さな路地裏にあるお店で、僕は月に1度か2度くらい顔を出すいわゆる常連だ。

今年もたくさんのお店に行ったけれど、結局ここに帰ってくる。

「はい、どうぞ」

「ありがとう」

早い時間だからか他にお客はいない。

「来ると思ってた」

「雨だから?」

「そう。我らの最強の雨男」

「雨の日を狙ってここに来てるわけでもないんだけどね」

「そう? 私は雨の日の売上に貢献してくれる優しさかな、なんて思ってるんだけど」

「沙璃さんが喜んでくれてるなら、そういうことにしておこうか」

沙璃さんはこの店のオーナーだ。年齢は前に聞いたことがあったかもしれないが忘れた。30代か40代か、僕にとってはどうでもいい。

ここにくれば静かに楽しくお酒が飲める。雨の日も、晴れた日も、健やかなるときも、病めるときも、どんな時でもここに来れば大丈夫。ここは僕のお守りみたいなお店だ。

僕にとって沙璃さんは、そういう場所を与えてくれる人。そういう場所を作り出してくれる人。


スピーカーからはいつも通り、ビル・エヴァンスの曲が静かに流れている。

今年はワインをたくさん飲んで、ピアノをたくさん聴いた年だった。

その一年も、もうすぐ終わる。



「二杯目はハイボールにする?」

「いや、一番安いのでいいからスパークリングワインを飲もうかな。せっかくのクリスマスシーズンだしね。よかったら沙璃さんも一緒に飲まない?」

「あらうれしい。ありがとう」

「あと、これ」

他のお客が来る前にと思い、僕は床に置いていた細長い紙袋をカウンターの上にドンと出した。

「なにこれ? ワイン? 」

「そう。ちょっと早いけど。クリスマスプレゼント。ちょっと袋が雨で濡れちゃったから、持って帰るときには破れないように気を付けてね」

「えー、ありがとう」

「いつもお世話になってるから。今年も一年ありがとうと、来年もよろしくの気持ちを込めて」

袋からワインを取り出した沙璃さんはエチケット(ラベル)を見ながら言った。

「え、これ。ちょっと高そうだけど…」

「そうだね。いつも1,000円くらいのワインばかり飲んでる僕にとっては高級ワインだよ。でも5,000円くらいのワインでこんなこと言ってたら、ワイン好きには笑われちゃうね」

「フランス?」

「そう。『シャトー・シャス・スプリーン』。三級シャトーにも匹敵すると言われてるらしいよ」

「へぇー、どんな味なんだろ。楽しみ。でも、こんないいワイン、いつ飲もうかしら」

「いや、これね。飲まないで欲しいんだ」

「え? 飲んじゃダメなの?」

「そうじゃなくて。このワインは取っておいて欲しい」

「飲まずに? 」

「うん。ちょっと理由があってね。この名前『シャトー・シャス・スプリーン』は、1821年にこのシャトーに滞在した英国の詩人が命名したらしんだ。憂いを払う、つまり『哀しみよ、さようなら』っていう意味なんだって」

「1821年って。200年も前のことなのね」

「さすがフランス、歴史を感じるよね。どんな悲しみも吹き飛ばしてくれる、それくらい素晴らしい味がする、そういうことらしい」

シャトー・シャス・スプリーン 2018

「そんなこと聞いたら余計に飲みたくなっちゃうけど。なんで飲んじゃダメなの?」

「飲んじゃダメってことじゃないんだけど。このワインをね、お守りにして欲しいと思ってて」

「ワインがお守りになるの?」

「僕くらいの年になるとね、毎日平和に生きられてるだけでラッキーなんだって、実感としてわかってくる。遠くの国では、善良に生きていただけの人が、突然隣の国からやってきた兵士に家族の目の前で殺されている。過去の話じゃなくて、今この時にもね。この世の現実は残念ながらとても残酷だ」

「そうね」

「だからね、何もなかった日って、何もなかったわけじゃなくて、とてもラッキーなことが起きた日だと思うんだ。まあ仕事で大変な日もあるけれど、それでもそれくらいでなんとか日常生活が送れてるって、ラッキーなことだと思う」

「うん」

「ところがだ。僕くらいの年になるとね、いつかどこかで悪いことが起きることもわかってくる。とても悲しいことが、いつか起きる。サンタさんに『素敵な日をたくさんちょうだい』とお気楽に願うことができたらいいのだけれど。そんな幻想を見れる年でもなくなった。どれだけ正しく生きていようと、たぶんいつかどこかで、とてもつらく悲しい日がやって来る」

「そうね。これまでもいろいろあったけど、これからもいろいろあるんでしょうね」

「たぶん。でね、その時にこのワインを飲んで欲しいんだ」

「悲しい日に?」

「そう。そしたらこのワインが悲しみを吹き飛ばしてくれるから」

「哀しみよさようなら、か」

「この先、つらいことがあったとしても、どんな悲しみがやってきたとしても、このワインが救ってくれる。そう思ってたら安心できるでしょ?  だからこのワインはお守り」

「なるほどね」

「ちょっと安心できたり、ちょっと楽しくなれたり、ちょっと勇気を持てたり、お守りってそういうものかなって思ってる」

「そうね。うん、わかった。ありがとう。でもさ、もし悲しいことが起きなかったら?」

「これから一年間悲しいことが起きなかったのならそれが一番。その時は来年のクリスマスに飲んじゃおう。でもさ、開けずにさらに次の年に回すのもいいかもよ」

「いいわね、ずっと悪いことが起きなかったら20年くらい熟成できちゃうかも」

「そうなったら最高だね。長期熟成、狙っていこう。将来いい値段で売れるかもよ。ひとまずは来年のクリスマスに答え合わせだね」

「そうね、来年のクリスマスに」

「とりあえず、今年はお店の一番安いスパークリングワインで」

「あら、これも十分おいしいわよ。メリークリスマス」

「そうだね。うん、うまい。今日もとてもラッキーな日だよ。メリークリスマス」


外の雨はまだやみそうにもない。




--Tony Bennett & Bill Evans『Lucky to be me』--

Oh, what a day
なんて日だろう
Fortune smiled and came my way
幸運の女神が微笑み僕のところに来たのさ
Bringing love I never thought I'd see
思ってもいなかった愛をつれて来てくれた
I'm so lucky to be me
僕は僕に生まれてきて、本当にラッキーだよ


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