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子どもが学校に行きたくないと言ったので

休ませました。朝の支度が緩やかに進み、出勤と登校時間が迫る頃。その日珍しく寝起きが悪かった子どもはそのまま伏し目がちに朝ごはんを食べていたので、何となく予感はしてたんですよね。で、「今日ね、学校に行きたくない気持ちなの」と吐露してくれました。

で、休ませたわけです。

これ、結論はシンプルだし休ませてよかったんですけど、死ぬほど逡巡しました。1、2分くらいの間で。しかもそのあと、休ませた決断に対して明らかに苛立っている自分がいるんですよ。これは子どもへの怒りではなく戸惑いが原因なのはすぐわかりました。今の世の中、こうして子どもからの明確なサインを否定する理由は無いし、ロジックや社会性としてもそうなのだけど、なぜその決断が腑に落ちないのか、その自分の中の感情の出どころやロジックを解消するのに半日ほどかかりました。

私は「休んだことはあった」

まず、私自身は「けがや病気以外で学校を休んだこと」があるものの、それを親に許してもらった経験がなかったことが考えられました。要は「サボったことはある」けど「親公認」ではなかったってことですね。小学校の頃にけんかに負けて休みたいと言ったら「学校に行って見返してこい」と送り出され(第二ラウンドは相打ちになった)、中学高校では両親の家庭内不和の余波で夜はゲーセン、無事に朝帰りや寝坊、とかく寝不足なので登校するふりをして近くの公園で横になりながらゲームボーイをして2時間目とか3時間目に行くなんて日が定期的に来る人生だったんですよ。親から「うん、休んでいいよ」と言われたことや、それによる開放感とか実感みたいなのは正直なかった訳です。でも、休んで(サボって)よかったと思ってるんです。もちろんサボりはばれてたし、その度に先生には確か何か言われてるんですけど、残念ながら微塵も覚えてないんです。申し訳ございません。その代わり、そのときの公園の空気とか、静かな自分だけの時間を過ごしたことは身になっています。だから子どもがその時間を取りたいことはよくわかるし、取るべきだと思いました。

この経験と、今子どもから出されているサインへの返答をする自身の立ち位置との位相差というかパラドックスが、把握はできても瞬時に理解や納得ができなかったのだろうなと思います。なんせ、子どもに「今日はね、学校に行きたくないの」と言われたときに自身の当時の姿が一瞬で投影され、母親の「つべこべ言わないではやく学校行け!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」というつんざくような怒号がフラッシュバックして身がすくんだくらいですから。トラウマって怖いよね。やだやだ。

仕事は子育てに合っている?

一方で、単純にスケジュールの話がありました。子育てのためにフリーランスになったのに、この日に限ってあろうことか大口のセミナーのお仕事をいただいていました。なので、「休ませてやりたい」「先方になんと説明しよう」というのの板挟みになりました。もうDEATH-Tの本田君です。こういうのがめんどくさそうだからフリーになったのに、という自身の至らなさも同時に感じるわけです。こうして悩んでいること自体が子どもやパートナーに申し訳ないし、いまこうして悩んでいる顔ももしかしたら怒っているように見えてしまうかもしれません。すこやけくあるために、今一度仕事を考え直さなきゃなあとか思うわけです。

結局仕事の面ではどう考えても私の仕事は代わりが利かず、パートナーも今日は大事な会議があるんやという話になり、学校行きたくないという子どもを囲みながらもう朝7:40からの1,2分が大変ヤバい空気になるわけです。で、なんとか「私がセミナー後のヒアリングをリモートでやるふうに組み替えて午前で帰って来る」ことと、午前中のパートナーの会議もリモート化してもらって半日ごとに交代して子どもを見守る方針を半ば決定事項とし、お互いの職場や現場に詫びを入れつつもスケジュールをゴリおすというパワープレイにて事なきを得たのです。死ぬほど脳使ったよね…

子どもは休んじゃいけない?

で、セミナーして帰ってる最中にすごいモヤモヤしてることに気づいたんですよ。仕事をずらす判断は正しかったのか、そもそも休ませてよかったのか、周りの子はみんな頑張って勉強しているのに…という恐ろしいほどテンプレ思考に囚われていること、それ自体が何でだろうという気持ちでした。

でもパッと思ったんですよね。「今日、普通に子どもが風邪ひいてても、状況だけなら同じことになったよね?」って。

結局どんな子であれ多様な、かつ不可抗力的に学校を休むことはままあることですし、私自身皆勤賞とは無縁の存在だったものの義務教育程度の勉強がおろそかになったりとかはなかったので、1日2日休んだところで勉強への影響は軽微です。なので、「勉強が遅れてしまう」という理由で一日も休んでいけないのかと言えば失当なわけです。

で、おそらく喉につっかえたのは「けがも病気もしていないのに=一見健康そうなのに学校を休む事を親が認める事」への是非でしょう。これは前述の、私の体験が反映されていると考えられます。それに理屈の中でも、親には子どもに教育を受けさせる義務があります。それを自身の裁量で一時的に放棄させることへの逡巡が間違いなくありました。なんですけど、言うて一日じゃないですか。確かに、病気や親の仕事以外の理由で学校を休ませる家庭は統計として虐待や貧困との相関があることは指摘されており、サボることで我が家も学校や行政からそう見られる旗が立つことが避けられないよなあとかも思うわけなんですけど、それがクソデカリスクかといわれるとまあ大したことないんじゃないの?という理解と納得をしたわけです。だって、心の風邪みたいなもんじゃないですか今回。じゃあしょうがない。休むべきです。

もちろん、大手を振って学校を休んで旅行に行くとか、長期間家でくすぶっているとかだとまた違うと思うんですけど、せっかく「今日ね、学校に行きたくない気持ちなの」と教えてくれた子どもの気持ちはさすがに汲んでやりたいと思うのが親心なわけですよ。というわけで、半日でモヤモヤを咀嚼し、パートナーが見守っている我が家へ帰るわけです。

子どもの気持ち

帰路には子どもの気持ちも改めて考え直しました。なんでそうなったのかな?と思い、家庭内での要因を挙げるとするなら、就学後に子どもが一人寝を始めたことが考えられました。就学し、今まで川の字で寝ていたところから自分の部屋で寝るんだと息まき、割とすぐ順応して新品のベッドですやすやと眠る様をみていて、親としても誇らしいやらさみしいやらと思っていました。それでも週末になれば川の字で寝たいと言ってくるので、週末は家族そろって寝ていたのです。それが、そういえばその週は週末も一人で寝ていたなあなんて思い出したのです。本人もトライしてみたけれど、もしかしたら無理してたのかしらとか。

仕事するのはなんのため?

で、仕事です。繰り返しになりますが、そもそも子育てを楽にするためにフリーになったのでから、この忙しさはコンセプト・社是にそぐわないよね、と大いに反省しました。やはり子どもが就学しフリーの時間が増えた感覚になり、事業も3年目に入る中で付き合いも増え、事業を最大化したいなあと思うのもまたヒトなわけですよ。これはパートナーも同じです。その相克を今また目の当たりにし、早速方々で進めている企画をやんわり解体してフェードアウトを狙いに行き、かつ収益バランスをなんとかとるような新たなスキームを考えねばなあなんて思っています。子どもが大きくなって手を離れるまで、例えば寮生活を始めるとかそういう頃までは家でご飯作って待っててあげたいと思うし、次に学校行きたくないと言った日も話を聞いてあげられる環境にしておきたいなあとか思います。

帰って話を聞いてみて

で、なんで休みたいか聞いたところ、

「疲れちゃうの」

「何が疲れちゃうの?」

「5時間目がやなの」

「5時間目がやなんだ、5時間目のどんなとこがやなの?」

「手が疲れるの」

「そっかー、5時間目がおんがくとかなら疲れない?」

「うん」

「疲れないよねえ」

「ねー」

なんて話で終わりました。その日の晩はパパとママと一緒に寝ようか?って初めて親から誘ってみて、一緒に寝たいと言ってくれたのでそのまま川の字で寝て、翌日から元気に学校に行って秒で寝てしっかり起きてるのでまあいいでしょう。よく小1の壁とか言いますけど、世の中を壁だらけにしてしまうのは親の一言なので、子どもに見せてあげたい世界を考えるなら、こんなの壁じゃなくて小石くらいの表現でいいんじゃないかなと思い至った日でした。1日1日でいいと思うんですこういうの。私もそうだったし。


画像はAIが考える「確かにめっちゃ痛いんだけど壁ではない試練」です

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