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公務員マザー、うつになる。

私が最初にうつ病を発症したのは、娘と息子が小学4年と1年の時だった。
息子が小学生になり、今まで取得していた部分休業が取れなくなったため、フルタイムに復帰したタイミングだった。

この年、頼れるA先輩が異動になり、その代わりに配属されたのが新規採用職員だったため、A先輩の仕事を私が引き継ぐことになった。
そして、私の仕事をB先輩に引き継ぐことになった。
以前の担当業務をB先輩に引き継ぎながら、新しい業務をこなしていく。
それだけならともかく、他所の課の人間が細かい仕事を持ってくるため、それに対応していると、腰を据えて自分の仕事ができるのが、定時以降になっていた。

子どもの夕食の時間には到底帰宅できないため、敷地内同居(田舎によくある同じ敷地内に両親世帯と子世帯の家が2軒建っている状態)していた義母に子どもたちの夕食をお願いし、たまに休日出勤もしながらなんとか食らいついていこうとしていた矢先。

今度は義母が大けがをし、床に臥せてしまった。
ご飯を作るために早く帰宅したいのに、業務が片付かないからなかなか帰宅できない。
帰りたい!
帰れない!
そんなジレンマの中で働いていたのを覚えている。
家の方は、キッチンにほぼ立ったことのない義父と小学4年生の娘が、協力しながら夕食の支度をしていたそうで、今思えば、
「私は仕事なのだから仕方ないじゃん」
という感じなのだが、当時の私は、
「嫁としても母としても申し訳ない」
と自分を責めていた。

そんな日々がしばらく続くと、だんだん明日が来るのが怖くなってきた。
次から次へとわからない業務が降りかかってくる。
時間は足りない。
子どもと義母の面倒も見られていない。
明日が来たら、また戦わなければならない。
しんどい。
明日が怖い。
だから、眠るのが怖くなり、夜更かしをするようになった。

こうなると、もう悪循環。
睡眠不足だからパフォーマンスは当然落ちる。
仕事のメールを理解するのにすごく労力がいるようになり、字面を追うことはできてもなかなか理解できなくなった。
ますます、明日が怖くなる。
夜中、涙がぽろぽろと溢れた。
朝から不安で、胸が痛むようになった。

それでも仕事に行った。
この頃になると、人と話したくなくなり、そっとしておいてほしいと思うようになった。
また、自分の顔(表情)を人に見られるのがすごく嫌で、マスクで顔を隠して出勤していた。
コロナ禍のずっと前の話だ。
6月にマスクをしている人なんて、誰もいなかった。

それからまもなく。
私は自分の限界を感じ、精神科へ飛び込んだ。

飛び込みで精神科へ行ったため、長時間待ったが、診察してもらえた。
最初に、「うつ病チェック」のようなチェックシートを記入し、家族構成や現在の仕事のことなどを聞かれ、現在の状況を話したところ、
「あなたは今までよくがんばりました。お仕事、2か月休みましょう」
と医師に言われた。
「2か月も、ですか?」
と尋ねたのを覚えている。
正直、そんなにも休まなければならないなんて、思っていなかったからだ。
「早く良くなれば復帰できますから。とりあえず診断書は2か月で書きますね」
と半ば強引に告げられ、私は急きょ、2か月休むことになった。
そして実際は、3か月休むことになるのだ。



診断書を受け取った翌日。
おそるおそる職場へ電話した。
「うつ病と診断されたので、2か月休むようお医者さんに言われました。申し訳ありません」
とだけ告げると、上司は「えっ」と言葉を漏らし、私になにか声をかけてくださったのだが(忘れてしまった…)、
「これ以上、なにを話せばいいのですか」
とそっけなく返したことだけは覚えている。
おそらく、このそっけない返事に上司は異変を感じたと思う。
自分で言うのもなんだが、私は職場ではわりと穏やかで協調性があったので、そのようなことを言うタイプではなかったからだ。
ここから、私の1回目の病気休暇が始まった。



毎朝、子どもたちを送り出してすぐに自分も家を出る、というバタバタな生活を送っていたが、子どもたちにゆとりをもって「いってらっしゃい」と言える朝に変わった。
慌てなくていい朝は、精神的にとても楽だった。
子どもたちには、
「お母さん、がんばりすぎたから少し仕事を休むことになった」
と説明した。
まだふたりとも小学生だったので「そうなんだ~」という感じだった。
小学1年の息子は、
「毎日家にいてくれるの?やったー‼」
と喜んでいた。
なぜなら息子は常々、
「なんで友達のお父さんやお母さんはどちらかは家にいるのに、うちはどっちもいないの?」
と、とても不満そうにしていたからだ。
私の病気をまだ理解できず、容赦なく甘えてくる感じが、かえって救われた。



日々の家事は、お皿を洗うのも、洗濯物を干すのも、自分のペースでのんびりやった。
というか、のんびりとしかできなかった。
あの頃は、素早い動作ができなかったからだ。

医師には、「したいことをしていたらいいからね」と言われていた。
とはいえ。
本来大好きなテレビも、画面が明るく、画面の中の人々はきらびやかでにぎやかで早口で、しんどくて見る気にならない。
ラジオもなんだかやかましい。
活字は読む気にならない。
手芸をする気にもならない。
結局、最低限の家事をする以外は、そよ風にゆれる稲の葉の音をぼんやりと聞きながら、ただ横になっているだけだった。
今までは、したいことはたくさんあるのに時間がない生活だったのが、今は、時間はあるのにしたいことが特にない生活。
「したいことをする」が難しかった。



そんな感じで初診の日から1週間が過ぎた。
とりあえず、朝はきちんと起きていた。
というか、子どもを登校させないといけなかったので、起きざるを得なかった。
結果的に、これはとてもよかったと思う。
昼寝はするにしても、朝は起きるという規則正しい生活を子どものおかげで保てていた。
また、根はかなりめんどくさがりやなのに、なにもしなくてもいい生活に突入したとたん、だらだらしすぎるとダメになってしまいそう…という、もうすでにダメになっているにも関わらず妙な不安にかられ、朝から顔を洗い、そこそこ身なりを整えていた。
仕事をしていた時の休日などは、子どもの朝ごはんは夫にまかせ、死んだように寝て、頭ぼさぼさのまま昼過ぎまでいたのに、だ。

なんにせよ、時間や〆切に追われない生活というのは、とても平穏だった。
2回目の診察の時に、胸の痛みやイライラがずいぶん減ったと伝えたら、
「薬が効いたというより、診断書が効いたんだと思うよ」
と言われた。
私には休息が必要だったということだ。
「今までがんばってきたんだから、今はゆっくり休んで、したいことをしてくださいね」
と医師に言われ、穏やかに過ごそうと帰宅した矢先。

義母から電話がかかってきた。
どきっとした。
私は義母がとても苦手だったからだ。
義母は、愛情はある人で、なにを考えているのか手に取るようにわかるわかりやすい人なのだが、普段から声が大きく、また、瞬間湯沸かし器のごとく沸点の低い人で、すぐに怒りを(家族に限らず)ぶつける人なのだ。
大きい声や音に過敏になっていて、心も弱りきっていた当時の私にとって、義母は、メラゾーマ(ドラクエの攻撃系呪文)で攻撃してくるのではないかと思うくらいビビる存在だった。

おそるおそる受話器を取り、耳に当てたのは覚えているが、何を話したのかはほとんど覚えていない。
おそらく「しばらく仕事に行ってないみたいだけど、どういうことなの?」みたいなことだったと思う。
当時のメモに「お義母さんから詰問されて怖かった」と書いてあった。
ちなみに夫は「マリーは仕事を休んでいるからそっとしておいてほしい」と義父母に伝えてくれていた。
それでも、「どうして休んでいるのだろう?」という知りたい欲が勝つのが義母なので、受話器を置いたあとどっと疲れたのは、覚えていなくても想像に難くない。



避難所が欲しかったのと、普段から実家にちょくちょく連絡していた私がぱたりと連絡を絶ったのは不自然だったので、母に、
「実は1週間前からうつ病で仕事を休んでいる」
とメールで伝えた。
するとすぐに母から電話があったのだが、母の驚いた声にびっくりしてしまい、声が出ず、
「話したくない?」
と尋ねられたので、
「うん」
とだけ答えると、母は、
「わかった」
と言って電話を切った。
とりあえず、母に事実を伝えられたので、避難所は確保できたとほっとしたのを覚えている。

この日、仕事から帰宅した夫から、
「お母さんから電話があったよ」
と言われ、普段は取らない母の行動に少し驚きながら、なんて言っていたのかを尋ねると、
「すごくびっくりしてたけど、家事はできてるよ、と伝えたら少し安心してた」
と。
たしかに普段、母とぺらぺら話している私が黙り込んで話したくない、というのは異常事態だから心配して当然だな、と思った。

今思うと、病気休暇中、夫はいつもと変わらずとてもフラットに接してくれていたなぁと思う。
「休みが取れたから、のんびり海でも眺めに行こう」
と人が少ないところへデートに連れて行ってくれたり。
調子が悪く寝込んでいて夕食を準備できない日があっても、機嫌を損ねることなく、淡々と夕食の手配をしてくれたり(目と鼻の先にいる義母を頼るより、仕事帰りに夫に総菜を買ってきてもらう方が、精神的にラクだった)。
しかし、実は病気休暇中、夫は円形脱毛症になっていた。
夫も心労がたたっていたのだと思う。
申し訳なかった。
だけど、「心配してくれてたんだ」と思えて、ほんのほんの少しだけ嬉しかったのは、夫には内緒。


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