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【短編小説】春もどき


「相談したいことがある」
 友人から呼ばれ私は喫茶店を訪れていた。この喫茶店は私と友人が学生時代よく通い他愛もない話 に耽った場所である。

 彼とわたしは大学生の頃に知り合った。入学直後の4月ではなく、正月もとっくに過ぎてしまった2月のころであった。彼は地面に這いつくばって何かをスケッチしていた。私は草を描いているのかと思ったが手元を覗くとソレ はサナギだった、蝶の蛹だった。私が不思議そうに見下していると、彼は 視線を蛹に向けたまま「何が出てくるか楽しみですね」と勝手に同意を求めてきた。 きづけば1時間以上観察をしていたが蛹から何も出て来なかった。すっかり体が冷え切ってしまったので近くの喫茶店へ 二人で入り、コーヒーをすすった。それから十数年経ったが彼は相変わらず蝶や自然を描き続け、それなりの収入を得ているらしい。


「おかしな夢を毎日見るんだ。俺が寝ている布団の上から女が覆いかぶさって来るんだ。ソレは柔らかくて俺は、ついつ い気持ちが良くてソレの口のあたりに俺の口を重ねるんだ。とても気持ちがいいんだ」

なんだ、そんなコトか芸術家の見るメンタルなんちゃら的な深層心理がどうとかいう夢に違いない。わかり易く気持ち悪い。

「アンタは昔から虫やら何やら、絵ばっかり描いてるから変な夢の一つや二つは見るのよ。新しい作品へのインスピレーションかもしれんぞ」

わたしは他人事だと思って、そう言ってやった。

「そうか、そうかなぁ」

「そうだよ、考え過ぎだよ」

彼は不安そうにコーヒーを飲み終えると席を立った。コーヒー代は奢ってもらった。少なくともわたしよりは儲けているのだそ れくらいバチはあたらんだろう。帰り際、彼はほとんど首だけで振り返り口を開いた。
「多分ね、その女、両腕が無いんだ」

数ヶ月後、また友人から喫茶店に 呼び出された。先に座っていた友人はどこか色白で顔は痩せて骨張っていた。私 は鋭利に尖った骨が飛び出た肩甲骨や背骨を想像した。

「やぁ」力なく手を上げる友人。

「どしたの、そんなに痩せて。ちゃんと食べてるの……絵が売れなくて金が無いとか」

彼は静かに首を振る。

「いや、絵はそれなりに売れているよ。この前の夢の話を覚えてるか、あれからもずっとなんだ毎日俺に乗って来るんだ。でも、気持ちいいのは変わらない」
「…………」初めこそ少し呆れていたわたしだが、どこか冷たく生気のない友人を目の当たりにすると言葉が出なかった。
「それで、お前に頼みがあるんだ。今日、俺の家に泊まってくれないか。見張っていて欲しいんだ、日給も出すさ」

「わかったわ。日給は期待してないけど、ウマい飯くらい食わせなさいよ」
将来的にもっと有名になるかもしれない画家へ恩を売るという下心が無いかと言えば嘘になるだろう。とりあえず私は簡単に身支度をすませ友人宅を訪れた。

彼が注文してくれた寿司を心ゆくまで食べた。 そして学生時代の思い出話に花が咲き、ついつい酒を飲みすぎてしまった。ついに友人は睡魔に襲われベッドへ横になった。わたしも多少の眠気があったが日給に寿司まで食わせてもらって、役目を果たさないわけにはいかないので、LEDランプの光を限りなく小さく絞り、壁に背をつけて彼と彼の家を観察した。家は中古の一軒家で白い壁紙は黄ばんでいた。2階が寝室だった。少し肌寒いので座ったまま毛布を羽織った。程なくして彼はモゾモゾと掛け布団の中に潜りこんでしまった。それを見届けるとすぐ に瞼が重くなってきた。
寒い。寒さで目が覚めた。少し眠ってしまったようだ。部屋が冬のように寒い。確か、壁紙は黄ばんでいたはずだが雪のように白い。大げさに息を吐いてみると白く変わった。

ねっちゃぁ、ねっちゃぁ。
沼を歩くような音が聞こえる。

んんん、ふっう、んん。
彼の吐息も聞こえる。


目だけ上げ、友人の寝ているほうを見やる。緑 だった。柔らかく光沢の無い緑色の肉がうねっているソレがうねる、うねる。その下で白い掛け布団とシーツに包まれた友人が、うねりに答えるように動く。 私の身体は動くことができず、ただただ友人がしゃぶられるのを見つめ続ける。今まで感じたことのない恐怖を感じながら、わたしは鼻息荒くコレの先がもっと見てみたいと思いだしている。呼吸が荒くなる。

「……い!おぉい!」
目を開けると友人が笑顔で此方を覗きこんでいた。 「流石に寝ちゃうよな、酒も入ってたし。まぁ、朝飯くらいは食っていけよ。パンとコーヒーくらいはあるからさ」
私は昨夜の夢か現実かわからない出来事を、少しの後ろめたさもあり友人に伝えることはできなかった。


それから2年後の冬、友人から電話があった。
あれ以来、彼とは不定期に連絡は取り合っていたが直接会うことはなかった。

「もう会えなくなるんだ。翔ばなきゃならないから」 と訳の分からない電話があった。わたしはその日のうちに彼の家に向かった。インターホンを押したが力ない音だけが響いただけで、誰の応答も無かった。家の外壁にはあの頃は無かった蔦植物が這い回っていた。

ドアノブに手をかけとあっけなく扉が開いた。彼の名を呼びながら2階へ上がり、あの日の記憶を頼りに寝室に辿り着きドアを開けた。中はまるで春のように温かい空気と僅かに甘い香りが漂っていた。 ベッドにはあの日とそっくりの膨らんだ掛け布団が乗っていた。それを恐る恐るめくると友人が、まるで胎児のように丸まっていた、背中はパックリと開いていた。まるで蝶が羽化した後に残された蛹のように。中は暗く見えない。触れるだけで人間の軽さでないことが分かった。 部屋を見渡すと、親指ほどの大きさの黄色い蝶の蛹が壁中についていた。彼と同じようにパックリ割れて中身は無く、すでに羽化していた。
春の暖かい風がわたしの身体を満たしている。少しここで眠りたくなった。彼の傍らに横になる。左右対称になるように向かい合い、わたしも胎児のように身体を屈めた。それはちょうど、羽を広げた蝶の左右の羽のように見えるだろう。


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