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他人を裁く罪と誘惑の問題

昨年の2023年は、阿呆のようにYouTubeの動画を眺めていた。

「視聴していた」でも「見ていた」でもなく「眺めていた」

特に好きだったのは、2ch(今は5ch)の家庭板を動画化したものをよく眺めていた。

家庭板のまとめは、善悪がわかりやすい。

  • 不倫の開き直り

  • 古い男尊女卑家庭を作ろうとする男

  • 低収入から来る経済DV

  • 小学生程度の学力もないひと

  • なまけもの

  • ドロボー

  • セクハラ、パワハラ、モラハラ、ロジハラ

悪い奴がわかりやすいから感想も単純明快で、ついついコメントを書き込んでしまう。

「こいつは悪い奴だ」
「さっさと離婚してやれ」
「今でも生きているのか」
「こいつは話にならない」
etc,etc,etc…

こういう動画を眺めて、感想を書くのは気持ちいい。
悪い奴を悪いと断じると、自分が正義の味方になったような気がする。
コメントにいいねが付くと、もっと気持ちいい。
自分の正義が他人に認められたように思える。

組織や国と違い家庭や恋愛、あるいは友人関係では、余程のことが無い限りは権力が掟や正義を振りかざして裁くことはない。
だから、個人がそれぞれ、自分の正義で判断し行動する。
だから、正義がぶれやすい。
第三者からみれば、まさに狂人のような醜態であっても、本人は大真面目なのかもしれない。

しかし、ふと思う。

これを「眺めて」いた自分は何なのか。

他人事だから、悪いものは悪いと判断できる。
しかし、そこに至る経緯で具体的に何があったのかなんて、何も知らないしわからない。
この悪人の事象に自分が陥った時、今の自分と同じように正義を貫けるのか。悪に染まらないか。

気軽にコメントを書いてしまった自分は何なのか。

書いた本人は、正義を振りかざして気持ちよかったかもしれない。
しかし、これを書かれた当人がこのコメントを読めば傷つくだろう。嫌な思いをするだろう。
自分は他人の感情を害させるほどの偉い立場だっただろうか。

インターネットやらSNSが普及して、誰もが発信できる時代になってしまった。

これまでは、力のある政府や宗教やマスコミが一方的に発信をしていた。
正義は彼らで決めていた。
発言力のない多くの庶民は、権力者が述べる正義や裁きに、服従するか賛同するか沈黙するかの選択肢しかなかった。
しかし、現代は変わってきている。
SNSが世論の潮流を作り、法とは別に人を裁いている。
これは、極々一部の権力者に正義の判断をゆだねないのだから、良いことなのかもしれない。

ただし!

ただし、である。
匿名、有名かかわらず、SNSで発信する人々は、なぜ発信しているのだろうか。
正義感に駆られて?
社会を良くしたくて?
みんなが楽しく暮らせる国にしたい?
そんな目的意識を持っている人などいたのだろうか。
わたしたちは何か目的があって他人を裁いているのだろうか。

自分が裁かれるのは辛いけど、他人を裁くのは気持ちいい。
正義を守るのはめんどくさいし我慢も必要だし損をすることもあるけど、正義を振りかざすのは気持ちいい。
悪い奴を悪いと言うのは、飯食ってクソしてセックスするのと一緒なのだ。
欲求があるから、気持ちいいからやっているだけなのだ。

この記事を書いている、2024年の1月。
日本ではある芸人の女性問題が世間を騒がしている。
その芸人は活動を停止するそうだ。

別にその芸人を庇うつもりは毛頭ない。
そこに犯罪があれば法で裁かれるべきだし、倫理的に問題があれば、やはり公に出るのは控えるべきだろう。

週刊誌は正義に飢えた民衆に餌を与えてくれる。
我々は、それを見て有象無象の言葉をネットに吐いて裁く。
それで何が変わるのだろうか。
何か良くなったのだろうか。
傷つくひとが減る社会になったのだろうか。
幸せになるひとが増える社会になったのだろうか。

とりとめのない話になってしまった。

旧約聖書では、アダムとイブが善悪の判断ができる知恵の実をサタンである蛇にそそのかされて食べた結果、神の怒りを買ってエデンを追放された。
神やらエデンやらの存在は嘘っぱちかもしれないが、悪事を働いたのではなく、欲望のまま動いたわけでもなく、善悪の判断を得たのが神の怒りを買ったというのは、このSNS時代を生きる人間として、はるか昔の人の教えであっても言い得て妙だと思えた。
神は善悪の判断がつかない人間に何を求めたのだろうか。
逆に言えば、善悪の判断がつく人間を何だと思ったのだろうか。
神なんて存在しないものを主語にすると話がおかしくなりそうなので、もっとはっきり言うと、この話を作った人は人間が善悪を判断することにどのような危機感を感じたのだろうか。

正義を振りかざすと争いが生まれる。
争いが生まれれば敗者がうまれる。傷つくひとがいる。

ウクライナ戦争が始まって2年が経ちそうである。
侵略したのは明らかにロシアで、善悪でいえばロシアが悪いのだろうが、ロシアにだって盗賊の方便みたいなものかもしれないが一分の正義を持っている。
ウクライナに防衛を諦めろとは言えない。
ウクライナが負けるべき戦争だとは思わない。
しかし、ウクライナから遠く離れた日本でも、日本国政府はウクライナを支持する姿勢を示しているが、ロシアを擁護している政治家や一般市民も少なからずいる。
遠い国でおきた戦争で、日本の中でも反目が発生している。
日本の中のこの争いに、何か生産的なものはあるのだろうか。
ロシアを擁護する政治家には、何かしらの利権が絡んでいるのかもしれないが、損得なしでロシアを擁護する一般市民はどうだろうか。
逆に、そういう人たちを説き伏せようとウクライナを過剰の擁護するのもどうだろうか。

結論を決めないまま記事を書いてしまったので、どうにもまとまりがない。

もう20年以上も前に亡くなった祖母は、毎日毎日、テレビのサスペンスドラマを見て、毎日同じ時間に犯人がわかるのに、毎日同じように「やっぱりこいつが犯人だったのねー」といって、ひとり満足していた。
ドラマの犯人など所詮は架空のものだから、いくら悪口を言っても害はないが、自分の裁きの対象が作りものだと気付いた時の虚しさはいかほどだろうか。
祖母は幸せのまま亡くなったのだろう。

インターネットやSNSが悪いのではない。
人間はいつでもだれでも正義を求めている。
正義の味方でいたいと思っている。安直に。簡便に。
これは、毎日飯を食うように、男がいい女を求めるように、当たり前の人間の業なのだろう。

とはいえ、もう止めません?
人を裁くの。
悪い奴を悪いと言うの。

自分が敵と相対したときは闘うために武器を取ればよいし、自分が助けなければならない時には手を差し伸べればよい。
人間らしく生きていくのに本当に必要だったのは、それだけなんだと思う。

でも、私はこれからも、悪い奴に悪いと言うのだろうな。
それは、食いたい飯を食うように。


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