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生きがいについて考えていない時に読みたいけれど、考えてないから偶然に身を委ねて読むしかない、『生きがいについて』

 大学2年の頃に初めて読んで、上京するまでに何度も読んだ、神谷美恵子の『生きがいについて』。
 何冊かは人に貸し返ってこなくなった。何冊かはあげた。累計5冊は買っている。あの頃はもう5冊くらいは買うんだろうと思っていた。結局、妻にあげた『生きがいについて』が最後に買った一冊になった。もう20年近く前。それからしばらく読んでいなかった。
 幸せだったから、っていう理由だけじゃない。そんなずば抜けたハッピー野郎じゃないしね。なんなら、人より妬みも嫉みも強いんじゃないかな。

 数年前のこと。いつも不思議に思っていた。こんなに恵まれた社会で、便利な世の中なのにどうして幸せを感じることができないのだろう。
 目が覚めると、ああ今日も一日を生きていかねばならないのだ、と思うのだ。手の中のコンピュータは憂鬱さの象徴だった。SNSを開けば、どこの誰かたちは、はしゃいで夕陽をバックに砂浜でジャンプしてるか、トロピカルな飲み物で乾杯をしている。
 刻一刻と、便利さと幸せを強要する情報科学にうんざりしても、そこから逃れる術はない。仕事というしがらみもあるし。常に誰かよりも優れてなければならない。ああ、ここもあれだ、妬みと嫉みでいっぱいだ。

 『ウェルビーイングの設計論』という本が数年前に出た。コンピューターは(テクノロジー)本当に人を幸せにするのか?と表紙にコピーが書かれてある。するわけがないじゃないか、と思いながらも気になるのだ。

 別にコンピューターのせいじゃないしね。SNSが遠い誰かの交わることのないキラキラした生活を見せてくるから、妬んでみたり。楽しそうに飲み明かす知り合いの生活に嫉ってみたり。
 コンピューターが悪い、そんな気がしたから、コンピューターが悪ってことにして読んでみた。そんな軽い動機で、免罪符みたいに読む本じゃなかった。
 小難しくて、気楽に読む本じゃない。こないだ芥川賞とった芸人の本読んだ?うん読んだよー、なんてノリでSNSにアップできるもんじゃない。アップしても良いけど、誰もいいね、なんて言わないんじゃないかな。

 ただね、大きな変換点になった。利便性や経済性だけでは幸せになれない。当たり前だね。知ってる。知ってるくせに、当たり前のくせして、今、利便性と経済性で幸せを得ようと必死なのはどこのどいつだ?ここのこいつか?テレビもインターネットもみんな利便性と経済性の幸せを強要してくるし、世界に一つだけの花なんか言っても、1番の花しか誰も見ないし、その花こそがまさに素晴らしい、ということしか言わない。仕方ない。世界は広いから。もっと狭けりゃなんとかなるのにね。
 この本はある種、情報科学者たちの懺悔に近い。やりやがったな、GAFAと呼ばれる巨人たちめ!と思って読んでみたりする。

 『生きがいについて』に戻らないと。
話は脱線ばかり。いつだって真っ直ぐ進めない。能無し呼ばわりされても致し方ない。すぐに聞いて欲しいことがどこかに行ってしまう。そうだけど、いつもなんとか戻ってくる。戻ってきた時には周りにあんまり人はいなくなってて、キョロキョロしたりする。でも、残っててくれる人もいたりする。
そう、その人たちを愛せばいい。結果、とてもシンプル。
 そしてまた脱線。いや、『生きがいについて』のその周辺。

 『生きがいについて』は、どんな困難な状況(本書ではらい病患者を通じて)に置かれても、生きがいを持ち、きらきらとした人生を送れる人がいる一方で、絶望感包まれ、生きる意味を持てずに生活をする者もいるのはなぜか、という問いからはじまる。
 家族の恥とまで言われたらい病患者。愛するものと別れ、隔離され、生きる意味を失っても、絶望感から希望を見出せたのはどういう変化だったのか。

 改めて読むと、目次だけでも素晴らしかった。

生きがいということば
生きがいを感じる心
生きがいの対象
生きがいをうばい去るもの
生きがい喪失者の心の世界
新しい生きがいを求めて
新しい生きがいの発見
精神的な生きがい
心の世界の変革
現世への戻り方

 
 絶望?そんなものは若いうちに捨ててしまった。その代わりに、虚無っていうあの厄介な奴がやってきていた。問題なのはそのことに気がつかなかったことだ。
 虚無ってやつはほんと厄介だ。苦しむ代わりに無関心へと引き込む。無関心、無感覚。日が昇ったついでに日が暮れる。何事も起きない。何にもならない。
 幸せ?まあ、きっと幸せなんだと思う。と返答して、妬みと嫉みを押さえ込む。
 いいね、なんて思ったことがない。全部、いいな、だ。ハートマークもグッドマークも全部、妬みでしかない。でも、大丈夫、無関心だから。そう、全部、いいね、に変換すればいい。それでオールハッピーさ。

 次男が生まれる少し前、虚無が完全に覆い尽くしてしまう前に、『生きがいについて』を
再び開いた。なんでだろうか、たまたま開いた。まるで、遠い昔に偶然訪れたことのある桃源郷にたどり着いてしまったみたいに。
 ページを開くとすぐに、こころのどこかに、もう「生きがい」なんて知ってるさ、と思っていたのかも知れない。知ったかぶり男。かつて、あんなに言葉が五感に染み込んでいったのに、ページを開いても言葉が入ってこない。なんかうわっ滑り。
 そうか、もう「生きがい」なんて感じてなかったのか。「生きがい」を捨てようとしてたのかもしれない。

 もう一度だけ、最初のページを開き、ゆっくりと文字を追う。たぶん、最後のチャンスだ。「平穏無事なくらしに恵まれているものにとって」と一行目がはじまり、震える。平穏無事だからこそ、見失う「生きがい」。

 ここ最近、目覚めがいい。
仕事を生きがいにしよう、なんて考えてたからよくなかった。生きがいは生まれ出るもの。しよう、なんてことでできるものじゃない。お金は必要。家族も大好き。そして、何物も犠牲にしてはならない。
 走って、登って、家族と一緒にいれば、仕事はそれなりに充実してくる。やりがいはあるし、はりあいもある。でも、「生きがい」は別にある。それでいいでしょ?

 結局、素直に生きるしかないのに、周りの目を気にして、仕事のために、社会のために生きようとして、苦しんじゃったりする。
 素晴らしい人は素晴らしいから素晴らしい。そうじゃない人はそうじゃなくても、案外素晴らしい。

 「生きがい」を犠牲にして、社会のために生きてたりする人が、鬱陶しかったりするのってそういうことでしょ?「社会のため」が、「生きがい」の人をちょっとだけ手伝えればそれでいい。全ての人が聖人君子じゃなくても、結構良い世界になると思う。

生きがいについて