都会のイマージュ

 雨音が静かだった。
 古い友人にあった。言葉遣い、価値観、趣味嗜好、昔と全く同じ。変わっていなかった。
 そいつの世界を司る時計は、あるとき落下したようだった。時を刻むのを辞め、深い海底で同じ時間を指し続けていたのだ。
 そいつと会ってぼくは時の流れを実感した。ゆがんで軋み、サビつき後退りしながらも、ぼくの時計は確かに物語を前に進めていた。

 「都会だな」
 駅前にあるオフィス街の建造物を見上げ、友が言った。陽が沈みかけた薄夜を人工的な巨像が劈(つんざ)いていた。無法に散り果てた絵画にどす黒い影を伸ばし全体の調和を虚飾する、そんな浅はかな画家の下心を連想し、同情した。

 都会、と評する友の心理は、世俗から離れた景色が持つ、ある種の絢爛性を、畏敬する想いを秘めていた。
 ぼくは全く共感しなかった。この景色は相も変わらない日常が紡ぐ、無機質なワンシーンに過ぎなかった。
 都会、を日常的に経験しているわけではない。この景色がぼくの体内にあるimage (イマージュ)を超えていない、それだけのことだった。あらゆる経験を経て、感動の閾値がインフレートしていたのだ。

 「確かに、都会だな」
 いつからかぼくは他人(ひと)に期待するのを辞めた。他意によって何者かにイマージュを接ぎ木したところでピュアな共感は生じえない。存在の立脚点が全て。道中は論点ではなく、スタート地点に立つその時の心構えが存在を規定する。

 ぼくらの中には都会がある。それは世の当たり前の断片であり、しかし僕らなりの物語だ。極彩色ではない、ただ少しだけ、光を帯びている。

 雨音が止む。陽が沈み、夜が完成された。
 三次元空間で数学的に立ち並ぶ、淡い光が目に染みた。
 雫(しずく)が頬を伝い、冷えたアスファルトに落下した。

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