黙想③「安息日の主」

最近、安息日について導かれている。

働きが大好き

今年の頭にコロナ後遺症になり、体が思うようにいかなくなり、仕事をやめた。神様にこれは一体どういう状況だろうと祈り始めた。

その中で「召し」を受け取った。召しとは「祈りとみことばの奉仕」。牧師としてではなかったが、フルタイムで、祈りのとりなし手として、また伝道者として働きたいと決めた。

それから僕は頭の中がこれからの働きのことで頭がいっぱいになった。

祈りと伝道のための仲間、資金などを考えると、いろんな人と会いたいと願い、誘われた場所には体調の許す限り顔を出し、資金のためにビジネス書を読んだり、事業主と話に行くなど、忙しくなっていった。

恵みによって生きる

夏に教団のキャンプの青年集会を任せられた。二回の集会でメッセージを考えていく中で「恵みによって生きる」というテーマに導かれた。

導かれたというか、それが教団のテーマだった。

数ヶ月前から恵みによって生きることについて祈り考え始めた。しかし、いまいちパッとしない。

なんとなく、十字架の話をして、次に献身しようみたいなベタな内容をはじめ考えていた。

しかし、頭で考えた話を若い子たちに響くだろうか。そう考えた時に、僕は「神様、まず僕があなたの恵みを味わえますように」と祈った。

その数ヶ月の間に色々トラブルがあり、とても困っていたのだが、祈る中で見事に解決していった。自分の力ではま全く歯が立たなかった用件ばかりだった。

そんなトラブルに見舞われ、気づけば明日がキャンプになってしまった。

前日の夜に神様の前に出て祈っている中で、今までの恵みを思い出して心が震えた。そこで、メッセージが浮かんだ。

簡単に説明すると「恵みとは呼吸のようだ。吸わなければ死ぬし、吐かなくても死ぬ。生きるとは、息であり、吸って吐くことを繰り返すこと。恵みを十分に受け取り、恵みを十分に与えていく。でなければ、恵みによって生きることはできない」

自分のさまざまな証を踏まえて話ができた。フィードバックは全くなかったので良かったのか悪かったのかわからなかったが、自分自身だけは恵まれた。

安息日の主

9月に入り、ある安息日礼拝の集会に参加した。

実はこの集会に何度も参加しようとして、コロナになったり、後遺症の調子が悪くなったり、どうしても入れなければならない予定によって潰れたりと、なかなかいけなかった。

そして、9月も直前になって、途端に金欠になってしまった。予定外の病院の検査、お礼の品、他にもいろんなどうしても支払わなければならないことが相継ぎ、見事に出発前日にお金がゼロになった。

次のお金が入ってくるのももう数週間先。明日行くための交通費が一切ない。

しかし、これは悪いものたちがこの集会に参加させまいと攻めてきたもの、そして、神様があえて置かれた状況だと確信し、恵みを求めて待ち望むことにした。

実はこのように「恵みを待ち望む」ことをしたのには理由があった。こうなる数日前に祈りの中で「あなたの力によらず、あなたの働きによらず、わたしの恵みによって」と示されていた。エペソ書を読んでいた時だ。

ふと「母にお金を借りようか」と浮かんだが、母を目の前にしてその思いを捨てた。「神の恵みを待ち望むんだ」と。

すると、前日のお昼に通帳に三万円入っていた。なんだったか忘れたが、国からの給付金が入るか何かの申請をしたアレがその日に入った。

余裕を持って行くことができた。

その日の礼拝の中で、分かち合いがあった。お互いの悩みを打ち明ける中で、ある人の祈りの課題を聞き、僕が祈ることになった。

祈りの中で「疲れたものはわたしのもとにきなさい、わたしが休ませてあげよう。わたしのくびきは負いやすい」とのみことばが示された。

他の人の祈りの中でも出てきて、またメインの牧師の分かち合いの中でも、そのみことばが分かち合われた。

これは何かのメッセージか?とふと思った。

その日の礼拝の終わりの分かち合いがあり、その日のテーマが「安息日」だった。

安息日

十戒のなかでも大きな項目として「安息日を守りなさい」とある。しかし、今日まで考えたこともなかった。

「俺、異邦人だし」と。

神の前で休むということの大切さ。7日目に働きから解放されるのが「当たり前に」セットされていることの恵み、などの分かち合いがあった。

ふと、考えた。
「最近、何もせず一日中休んだ日はあったか?」

病気でありながら、何かしてないと落ち着かない僕は、約束があれば喜び勇んで出ていき、何もなければ家事をし、勉強をする。

祈ること、みことばの前でいこうことをほとんどしない時期もあった。忙しすぎて。

体はボロボロになり、「病気によって」一日中、一週間中何もできないことはあったが、これは休んでいるのではなく、倒れているだけだった。

その時気づいた。
「俺は働きにばかり目を止めていた。安息を一切求めていなかった」

僕は働きが大好きだと気づいた。誰かと働き、成果を目にして、ドーパミンが出ることのあの快感が堪らないからなのかもしれない。

ビジョンを抱き、前進し、その進捗を眺めるのが好きなのかもしれない。

今までできなかったことが少しずつやれるようになり、達成できた時の成長感もたまらないのかもしれない。

しかし、それは肉だと気づいた。神は「安息日を聖なるもの」と定めたからだ。

恵みと平安

パウロはほぼすべての手紙で「あなたがたに恵みと平安がありますように」と書いている。アロンの祝祷も「主があなた方を恵まれますように。主があなた方に平安を与えられますように」ともある。

この祈りと願いはここ数年、頭の中から離れなかった。そして、最近マルコの福音書を読み「人の子は安息日の主」というフレーズがあり、それが頭から離れなかった。

この日から「安息」について頭がぐるぐるした。

まとめ

恵みと安息。
この二つが実はクリスチャン生活の「土台」であることに気づいた。

努力、力、能力、働き。僕の大好きなことばだ。しかし、キリストは私たちに安息を与えるために十字架にかかり死なれた。この神が一方的に与えられた恵みによって、僕たちは救われた。

僕たちは何一つやってない。それは僕たちが誇らないためだと聖書に書いてある。

僕は「働き」が大好き。しかし、神は「わたしのところに来て休め」と言われる。マルタに対してイエス様が諭されたときと同じように。

僕は「努力」が大好き。しかし、神は「わたしの恵みによって強くされなさい」と言われる。テモテに対してパウロが諭したときと同じように。

働きは大切だと。努力も大切だ。
しかし、それが「自分から出た働き」「自分から出た努力」であるなら大きく間違う。

神の恵みによって働き、神の安息によって力を受けること。それは呼吸のようなもの。吸って吐く、吸って吐く。受け取って与える。受け取って与える。

僕は受け取ることをしてこなかった。そこに大きな問題があった。

安息日を僕が守るべきか否かはまだわからない。しかし、神の前で休む聖なる日は必ず必要だ。

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