2024/11/20 SNSが発達しネット上で際立った議論が交わされることが増えてきた。SNSが発展する前は、日本であまり議論をすることはなく、テレビ番組で議論する輩を見ては「やぁね、殺伐として」とコメントを入れていたように思う。 食事中は政治と野球の話はするなと言われていたくらいには、議論のもととなることは避けることが定石だったようにも思う。しかし、2chが登場し、Twitterが登場してから、議論をする場が増えてきた。 この現象は良いものなのか、悪いものなのか。そん
僕の癖だが、しるしを見出すことが好き。 昔から楽器をやっていて、特に弦楽器が得意。弦楽器は、どこがAの音なのかをまず探す。大抵の弦楽器は、基準となる音のあたりに点のようなものがついていたり、解放弦にAが存在したりする。 そこさえわかれば、後は反復練習で、だいたいできるようになる。 ピアノでも、見分けるための基準として、黒鍵盤のない部分が大きな目印となっている。黒鍵盤は二つの塊と三つの塊がある。二つの塊のあとにある白鍵盤二つはEとFの並び、三つの黒鍵盤のあとにある白鍵盤二
Xでよく起こる争いの火種は、日本語を読む能力と言われている。 例えば「女性が家事をやり、男性が仕事に行くのが一番いい」という投稿があるとする。それに対して「それって女性差別じゃないですか?」「今どき、男も家事をやるのは当然ですよ?」「女性は家事もやり、仕事もやり、男は仕事だけやって家では偉そうにふんぞりかえって」という返信がきたとする。 それに対して投稿主は、「男性が家事をすべきでないと言ってません」「女性が仕事をすることは私もいいと思います」「この場合、女性は家事だけ、
2024/11/14 作成 昨日、ついイライラしてしまった。 ANNのニュース番組で、「悪魔崇拝者の激増」という特集を見てのことだ。 こちら。 要約すると、チリではカトリック教徒が多く、最近信者数が半減、このキリスト教に反発してできた教団「悪魔の神殿」は悪魔を礼拝しているのではなく、「快楽、自由な生活を愛し、人間らしく生きること、人間性を肯定することをキリスト教が悪魔的と呼ぶ」ことから、これらの「悪魔的考え方」を肯定する宗教という意味で「悪魔の神殿」と名付けたそう。
2024/09/14 「あの人にこう言われて、私傷ついた」という表現がある。相手が故意にナイフで刺すように、ことばの暴力をされたときに使う言葉が「傷ついた」だ。 このようなパターンもある。彼女に振られて「傷ついた」と言うことがある。もし、彼女が自分に人格否定をしたり、悪意のある嫌味を言ったのなら「傷つけられた」わけだが、単に「別れましょう」と言われ、振られただけなら、それは傷つけられたのではなく、振られたことに「悲しくなった」だけだ。 「傷ついた」という表現をすると、ど
最近、安息日について導かれている。 働きが大好き今年の頭にコロナ後遺症になり、体が思うようにいかなくなり、仕事をやめた。神様にこれは一体どういう状況だろうと祈り始めた。 その中で「召し」を受け取った。召しとは「祈りとみことばの奉仕」。牧師としてではなかったが、フルタイムで、祈りのとりなし手として、また伝道者として働きたいと決めた。 それから僕は頭の中がこれからの働きのことで頭がいっぱいになった。 祈りと伝道のための仲間、資金などを考えると、いろんな人と会いたいと願い、
2024/08/09 言葉の乱れは国の滅亡につながる、歴史を忘れた国は滅びるなど言語、歴史、文化がどれだけ、国の存続に関わるかについて度々聞く。 言語が乱れると国が滅びるについて、本当にそうなのか少し考えてみたが、やはり、理にかなっているのではないかという結論に至った。 理由は簡単でコミュニケーションができなくなるから、だ。 最近、多様性という言葉がよく語られる。その派生で「感じ方は人それぞれ。その感性を尊重しよう」という風潮があり、さらに発展して「定義は人それぞれ」
マルコの福音書を通読した。この書は、いくつか大きなテーマが流れながら、話が進んでいく。「救い主」「王」「種」「富」「食卓」そして、「安息」。まだまだ色々あるが、僕にとって、これらのテーマが浮いて見えた。本記事は「安息」について書いていく。 なぜ、「安息」について書くのかといえば、今まさに僕自身が神様から安息を学ぶように命じられているからだ。 お金と病僕は、去年の年末に、コロナの後遺症で倒れていた。インフルエンザのような症状が続き、何ヶ月も仕事へ行けなかった。結局、仕事を辞
最近、ある人と話をしたときの言葉が離れない。 「前提から話さないといけないと、途中で気持ちが折れて、話すのを諦めてしまう。」 ※本記事は考えたことをつらつらと書く備忘録です。まとまった記事でもなく、何かの研究でもなく、メッセージ性もなければ、誰かに宛てたものでもありません。遠くの誰かを評価しているような語り口調になっており不快な気持ちにさせたら申し訳ありません。予め、お伝えしておきます。 彼は続けて言う。 「同じような状況にいる人なら、言わなくてもわかる“当たり前”があ
「私が間違ってる」 「あの人が悪い」 「私が正しい」 「あの人が正しい」 この真なのか偽なのか、のどちらかしか答えが出せない考え方のことを、僕は「ワンドット思考」と呼ぶことにした。 ※本記事は考えたことをつらつらと書く備忘録です。まとまった記事でもなく、何かの研究でもなく、メッセージ性もなければ、誰かに宛てたものでもありません。遠くの誰かを評価しているような語り口調になっており不快な気持ちにさせたら申し訳ありません。予め、お伝えしておきます。 ドットとは、一時期流行って
ムカつく人の不幸を喜ぶことを日常にしてしまうことがある。自分を否定した(と思えた)人、敵意を持ってくる(と思えた)人、意見が合わない人。そういう人が悪く言われてたり、罰せられてたり、不幸に陥っていたときに「ざあまみろ」と内心では思う。 だけど、それは心の中だけの話。表向きには「大丈夫?」「何かあったら相談してね」「祈ってるからね」と、まるで良い人を演じることさえある。 口と心が分かれている。これは、多分、一番重たい罪なんじゃないかと思う。 実は、そんな思いが心の奥底に隠
研究する際に、どんな方法で調べ、まとめていくかの方法がとても大切だと思います。 というのも、①『動機』でも書いたように、携挙神学(ディスペンセーション主義)の神学枠組みの根拠を示すための部分的な聖句引用ですと、その聖句が本当に患難前携挙のことを示しているかどうかがわからないからです。 なので、まず第一条件は「聖書が何を意図しているのか」です。文脈を必ず確認し、全体的に見て、その聖句が意図していることを読み取ります。 と、ここまではよほど問題なく納得できると思うのですが、
はじめに、僕がなぜ携挙を信じたのか、またなぜ研究をするのかをお伝えします。 なぜ携挙を信じるのか携挙を信じるに至った大きな流れをかきます。 ①青年時代(教会の教え)②つまずき時代(自分で考える)③現在(夢を見る) 青年時代(教会の教え) 僕の教会では携挙について語られてきました。いわゆるディスペンセーション主義に立ち、キリストは花嫁なる教会をある日、ある瞬間に、天に引き上げるというものです。それは瞬きよりも早く、突然やってくるもの。僕らに罪があったら、取り残されると教え
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