いま、もう一度聴きたい吹奏楽
代わり映えのない毎日を過ごしていると、非日常を求める気持ちが体の奥から湧いてくるのを感じます。
そしてその気持ちは、職場からの帰り道、昼食後にぼーっとしている時間に突然、理想の光景を描きます。楽器に反射して煌めくステージライト。横断幕が擦れる音。その光景はブラスバンドの演奏でした。
いま僕が求めている非日常は、母校である高校の吹奏楽部の演奏を聴くことです。
高校の入学式のとき。新入生を迎えてくれた吹奏楽部の演奏に、僕は度肝を抜かれました。「度肝を抜かれた」なんて言葉を使うことは人生の中でもなかなかありません。そのキラキラした光景に、講堂の床から髪の毛の先までを震わせるサウンドに、当時の僕はただただ圧倒されて、大きく目を見開いていました。
入学式では、校長や来賓からの祝辞、新入生代表の挨拶など、一通りの内容が終わったあとに吹奏楽部が演奏の準備に入りました。明るくハキハキした声の女子生徒がステージの最前面に立ち、新入生に向かって呼びかけました。
「それでは新入生のみなさん!その場で立ってください!」
中学生を卒業するまでに聞いてきた吹奏楽の演奏ではずっと座ったままだったため、起立を促されたときにはとても不思議に思いました。まさか歌えとか手拍子をしろと言うんじゃないだろうな、と緊張が走ります。
壇上の吹奏楽部員は、ステージライトに負けないくらいの笑顔で言葉を続けました。
「それでは、いまから私がやる動きを真似してみてください!」
歌や手拍子どころか、促されたのはダンス。
「高校デビュー」という、ともすれば今後の自分の方向性を決定づけかねないこの日に踊れと言ってくるとは、これは応じ難いぞと思いました。
「左手を腰に、右の手のひらをななめ上に突き出して!」
朗らかな笑顔で、壇上の部員はレクチャーを始めました。
このとき、数名のトランペッターが部員のダンスに合わせて、曲の一部を小さな音で演奏し始めました。あれ、この曲なんか聴いたことがあるような。
「できましたね~!では行きますよ!」
レクチャーが終わったと思ったら、ドラムスとパーカッションがリズミカルに始まりました。
カンカンコンコ カンカンカコンコ
カンカンコンコ カンカンカコンコ… サンバ調です。
壇上の部員はニッコリと笑いながら手拍子を求めてきました。
なんだっけこの曲、と心のなかで繰り返しながら、思いもよらぬサンバ調のリズムに呆気にとられ、僕はぽかんとした表情で手拍子をつくりました。
そして ダダダダダダダッ とリズムがまとまり
大きな帆を立てて あなたの手を引いて 荒れ狂う波にもまれ 今すぐ風になりたい
ドラムとパーカッションだけが鳴り響くなか、吹奏楽部全員が声を合わせて歌い始めました。THE BOOMの「風になりたい」が前のステージから、そして自分の頭の奥底からも流れてきて、混ざりはじめました。
それはとても綺羅びやかな光景でした。楽器がステージのライトを反射してしきりに煌めき、それ以上に、壇上で踊り、演奏する先輩たちの笑顔がとても眩しかったのです。式典のための、パフォーマンスのためのつくり笑いにはとても見えず、まるで「よく来たね!」「ようこそこの高校へ!」「こっちにおいで!」と言葉を発しているかのような、エネルギッシュで、惹き込まれる笑顔でした。演奏も音圧がとても大きくて、きょうが入学式であることを忘れて僕は興奮状態になっていました。あまりにも素晴らしかったので、このまま壇上に上がって一緒に踊れたらどんなに楽しいだろうとさえ思えました。
僕の中学時代はかなりつらいもので、クラスも家庭もいわゆる普通の状態ではありませんでした。そんな暗い暗い時代を抜け、実力でたどり着いたこの高校で、胸を強く打たれた光景がこの吹奏楽の演奏でした。もちろん、きっと高校でもつらいことはたくさん待っている。でも、それでも―――
天国じゃなくても 楽園じゃなくても
あなたに会えた幸せ 感じて風になりたい
風に 風になりたい
この高校では、前に前に進んでみよう。ここはきっと、それができる場所だ。
そう強く実感しました。
あれから何年も経ち、高校も大学もとっくに卒業した今。
ふいに、あの演奏をもう一度聴きたいと思っているのはなぜでしょう。
今の生活を投げ出したいわけじゃない。だけど、新しいステージに進みたいという気持ちも、たしかに膨らんできています。
もし今、あの演奏をもう一度聴けたら・・・。また前に進むことができるのでしょうか。
いまの私の小さな夢。それは 母校の吹奏楽部の演奏を聴くこと です。