2022年新年の決意
今年は書こうと思う。
ちょっと回り道になるが、これまであまり文章を書かなかった理由から、その影響、そして今年は書こうと思うに至った理由まで、つらつら述べてみたい。
仕事を辞めて以来、今まであまり長い文章を書いていなかったのだが、実は文章を書くのも結構好きだ。
なのにどうして長い文章を書いていなかったかというと、思考に偏り、左脳優位だった過去の在り方から、感覚を呼び覚まし、右脳をのびのびと活動させる自由な在り方にシフトしたかったからだ。
文章を書くには左脳の働きが重要だから、という短絡的な理由で、そっちはお休みさせた。
だから、書くとしてもごく短文。
詩的な表現、短歌や俳句のような凝縮された表現に興味があったし、写真による表現の可能性を知り、そちらに流れる気持ちに身を委ねた。
説明とか説得とか議論とか、そういう論理性を求められる文章は極力書かないようにしていた。
そのおかげで、というわけでもないだろうが、数年経ってだいぶ感覚的な人間になった。
思考人間から感覚人間になると、実にいいことだらけだった。
一言で言えば、めちゃくちゃハッピーなのだ。
どうしてハッピーなのかは、一言では言えないので、主な要因を思いつくままいくつか挙げてみよう。
一つ目は、感覚からくる喜びや味わいを、以前よりずっと鮮明に感じられるようになったということ。
もう少し具体的に言うと、考え事をしながら、空腹を満たし栄養を補給するだけのために食べるご飯より、味覚を研ぎ澄まし、ただ食べることを楽しみながら味わって食べるご飯の方が、ずっとずっと美味しくて、ありがたくて、喜びに満ちている、例えばそういうことだ。
同じことが、視覚、聴覚、嗅覚、触覚にも当てはまるから(一つ一つ例を出すと長くなりすぎるので、ここは想像してみていただきたい)、「結局生きているだけで幸せいっぱい!」という、頭の中お花畑状態になるのだ。
二つ目は、それまでに比べて、人間関係が楽チンで、豊かになったということ。
それまではちょっと自分に厳しすぎたというか、ネガティヴな気持ちになりやすくて、心を開くのが苦手だった。
それが、あれこれ考えないようになると、「こうあるべき」みたいな発想でのジャッジがなくなり、自分にも人にも寛容になった。
変な緊張感が解け、より素直で開放的に人と接するようになった。
そうしたら、自然と同じような感覚を持つ人たちと接するようになり、そういう人たちとの間で、心が通じ合う感覚を何度も味わうようになった。
「相手の気持ちを慮り、TPOをわきまえて、その場にふさわしい態度を取らなければ」、などと気を遣うことが苦手だったから、そんな気遣いをしない状態は本当に楽だ。
そして、心の深いところでコミュニケーションが取れる喜びは何ものにも替え難い。
そこに人間関係の豊かさ、さらに言えば人生の豊かさを実感するようになったと言っても言い過ぎではないと思う。
三つ目は、不安や恐怖の嵐に無自覚に翻弄されなくなったということ。
これはちょっとややこしいかもしれないが、次のようなプロセスを経るような気がする。
すなわち、人間は無意識のうちに本能や感覚に大きく影響されている。
だから、思考的に理性的に生きているつもりでも、実は感覚に支配されている部分が大きくて、特に生存本能に根ざした感覚、中でも危険回避のために不可欠な不安や恐怖の感覚が無意識レベルで作用する影響力はとても大きい。
それが、思考の鎧を脱ぎ捨て、感覚を研ぎ澄ますにつれ、無意識レベルに作用していた不安や恐怖の感覚を意識的に自覚できるようになるようだ。
無自覚だと翻弄されるしかないものも、自覚してしまえば、それにどう向き合うかは自分次第ということになる。
それと同時に、一つ目と二つ目で述べたとおり、生きている喜びと人生の豊かさで心が満たされてくると、ただ生きているだけで十分幸せになり、そうなると、「幸せになるための条件」みたいなものは不要、「自分を社会に適合させるためのルール」みたいなものも不要、要するに「こうでなければならない」というこだわりが不要になるので、逆に「こうなったらどうしよう」という不安や恐怖がどんどん薄れていくのだ。
こんなふうに、無自覚だった不安や恐怖に自覚的になることと、不安や恐怖自体が弱まってくることの両方向の作用によって、不安や恐怖の嵐に無自覚に翻弄されることが少なくなる。
この状態は、実に心おだやかで、喜びと感謝に溢れている。
というわけで、感覚を育むために思考を捨て、思考が必要な長文を書くことからも遠ざかり、ハッピーな日々を送っていた。
しかし、ここ数日、朝起きがけに、「書きたい」という想いが、まるでお告げのように降ってくるようになった。
本当にお告げなのかどうかはわからないが、書くことを考えるとワクワクしてきたので、とにかくなんでもいいから、今年は書いてみよう、という気になった。
つまり、書こうと思った理由と言っても、大したことはないのだ。
「決意」というほどの大袈裟なものでもない。
ただ、翻って考えると、この数年間の自由人暮らしで、それまで貧弱だった感覚がだいぶん育ってきたことは確かなので、今度は、そこにちょっとだけ思考を加味した新しいことを始める、ちょうどいいタイミングかもしれない。
思考だ感覚だと言っても、要はバランスの問題なのだ(それが苦手なのだが)。
例によって三日坊主に終わる可能性も大いにあるが、それならそれで良い。
とにかく今は、この衝動に素直に従うことにした。
こういった日々の独り言のようなもの、誰の役に立つわけでもなく、ただ書きたいから書くというものを長々と書いて、「誰にも読まれなくたっていいさ」と思いながらも、「誰かが読んでなにがしかの感情(人生を豊かにするもの)を抱いてくれたらいいな」というほのかな期待も持たせてくれるのが、noteのありがたいところだ。
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