【一気読み・長編小説】「あっとほーむ ~幸せに続く道~」第四部
こちらは「あっとほーむ~幸せに続く道~」第四部(全19話)を通しで読めるようにまとめた記事です(内容を一部加筆・修正していますが、今回は大幅は変更はありません)。物語は第一部から続いていますが、第四部からでも楽しめる内容になっております。お時間のある方はぜひ!感想もお待ちしております!!
こんな方におすすめです!
前編
1.<孝太郎>
長い冬が終わり、人々は温かい日差しに誘われるように屋外へと繰り出す。僕も彼らに習い、雲一つない青空の下に立つ。
球場前広場は、子ども連れの親子やキャッチボールに興じる若者たちで賑わっていた。かつての僕なら、競争心のかけらもない人々を見るだけで苛立っていたに違いないが、今はむしろ穏やかな氣持ちにさえなっている。それもこれも、悠斗クンや翼クン一家のおかげだ。
「……俺の知る永江孝太郎は死んだんだろうか? 会わなかった十年の間に何があった? まるで別人じゃないか」
僕を呼び出した彼は、朗らかな僕のとなりで不満を漏らした。水沢庸平。中学時代からの友人で僕のことを誰よりも知っている男。だが彼は今、すべての怒りをそこに集中させているかのような目で僕を睨んでいる。
「お前から野球を取って何が残るってんだ? 野球あってのお前だろう? ……戻ってこい。一緒に最強の野球チームを作ろう。元プロのお前と俺なら絶対に出来る」
彼は語氣を強めた。が、僕は首を横に振る。
「悪いが、何度誘われても答えは変わらない」
「……お前を誘惑したのは誰だ? 誰がお前をこんな柔な男にした?」
「……ここへ来るといい。僕の考えを変えた人たちに会える」
僕はジャケットから取り出した名刺を一枚手渡した。彼はそれに目を通すや、思い切り握りつぶした。
「なにが、『みんながまんなか体操クラブ』だ。こんなお遊びクラブ、認められっかよ」
「お遊びクラブと言われる筋合いはないな。僕らは真面目に子どもの将来を考えている。君のやろうとしていることと何ら変わりない」
「……馬鹿馬鹿しい!」
庸平は吐き捨てるように言い、僕の前から姿を消した。
*
親や祖父母が一緒に身体を動かしながら、楽しく子どもとコミュニケーションを図れる場。それが「みんながまんなか体操クラブ」である。僕らが目指しているのは一流のスポーツ選手の育成ではない。あくまでも親や祖父母に子と触れ合う場を提供するのが目的だ。
僕は子育てに関しては全くの素人だが、身近で赤ちゃんに接したり、親子の戯れを見たりする中で、人生において最も重要なのはこうしたスキンシップではないかと直感し、これを形にするのが第二の人生で成すべきことだと思い至ったのだった。幸いにして共感してくれる人間が身近におり、彼ら――本郷クン、野上クン、悠斗クン――の力を借りながら発足に向けて着々と準備を進めているところである。
生まれてこの方野球しか知らず、それが出来なくなったら死のうとさえ思っていた僕がこんなことを言い出すとは誰も想像しなかっただろう。僕でさえそうだ。もし野上クンに説得されなければ、そして彼の家族に会わなかったら僕は野球馬鹿のままこの世を去っていたに違いない。
*
自宅マンションに戻り、エレベーターホールに向かうと上層階からエレベーターで降りてきた本郷クンに出くわした。クラブ発足準備のため、彼は数ヶ月前に都内から僕と同じマンションに居を移したのだった。
「あ、おかえりなさい。水沢先輩には会えましたか? 元氣でした?」
「会ったよ。……僕が野球以外の仕事を始めると言ったら激怒された。お前から野球を取ったら何が残るんだ、とまで言われてしまったよ。どうやらあいつは僕と一緒に野球人の育成がしたくて連絡してきたらしい」
「へぇ。もし永江さんの話に乗ってなかったらおれが食いついてたかも。……なんてね。もちろん、断ったんでしょ?」
「ああ。しかし、名刺を渡したら握りつぶされてしまった」
「うっわ……。十年ぶりに再会したのにいきなり険悪ムードですか」
「大人になってから……とりわけこの十年に至っては連絡すら取り合っていなかった僕らだ。わかり合えなくなっていたとしても不思議ではあるまい」
「永江さんがそんなことを言うなんて、ほんっと、変わったなぁ。ま、おれは今の方が人間味があって好きだけど。いじっても怒られなくなったし。……ところで、このあと時間あります? 大津理人の店に行くんですけど」
大津理人は僕の高校野球部時代の後輩だ。ワライバという名の喫茶店兼居場所の提供をしていて、僕らが推し進めているクラブの方針に賛同してくれた一人でもある。
「なら、いくよ。ついでに何か食べさせてもらうとしよう」
エレベーターに背を向け、本郷クンとともに歩き出す。彼は「食わしてもらえるか知りませんけどね……。あそこは変な店だから」と言って笑った。
2.<庸平>
――連絡先:埼玉県K市××町……(ワライバ店内/営業担当・大津理人)
くしゃくしゃにしてやった名刺を見返した俺は目を疑った。さっきは氣づかなかったが、営業担当の名に見覚えがあったからだ。
(もしかして、あいつが孝太郎をそそのかしてお遊びクラブを始めたんじゃ……?)
大津が絡んでいるならその可能性も充分にある。あいつは野球部時代から他のやつとは違う感性を持っていた。それは野球人として光るものを持っていたと言う意味でもあり、非常識だったという意味でもあるが、とにかく変な男だ。
馬鹿馬鹿しいと言い捨てて別れてしまったが、こんなものを見てしまっては確かめないわけにはいかない。
(K高の近くか……)
K市には卒業以来一度も行っていない。学校周辺は変わっているのだろうか。かつて立ち寄った店は残っているんだろうか……。思い出に耽るうちに懐かしさが込み上げてくる。
一度、都内の安アパートに戻った俺だが、氣づけば靴を履いて部屋を抜け出し、行く予定のなかったK市方面に向かう電車に飛び乗っていた。
*
中学のとき、敬愛していた父親を亡くしたあいつが後を追わずに済んだのは野球のおかげだった。野球は孝太郎の命の源。だからプロの世界に入ったと知ったときは我がことのように嬉しかった。野球をしているうちはあいつが死を選ぶことはない、と安心できたからだ。
それからというもの、俺はあいつの生存を時々確認しながら今日まで自由に生きてきた。いつかまた一緒に白球を追いかけられる日を夢に見ながら。
四十年以上が経過した今でも、甲子園の舞台に立ったあの日のことは鮮明に思い出すことが出来る。俺は孝太郎や本郷と違ってプロを目指せるほどの実力はなかったが、代わりに努力を積み重ね、社会人野球チームで四十歳までは第一線で活躍し続けた。
一応家庭を持ち、一人娘が成人するまでは勤め人としても頑張った。だけどやっぱり俺は野球が好きでずっと続けていきたいって氣持ちが強かったから、奥さんと話し合ったうえで円満に離婚。晴れて自由の身になったあとは十年間、世界の野球を見るため各国を飛び回り、自分の手で野球選手の育成がしたいとの思いを強くして帰国したのが先月だ。
日本を発つ前に孝太郎が解説者として活躍している姿は目にしていたから、現役を退いたあとはそっちで生きていく道を選んだのだろうと思っていた。が、俺の見通しは甘かった。帰国後、「解説者・永江孝太郎」の姿はなく、やっとの思いで会ってみればあのざまだ。
――まもなく、K市です。お出口は左側です。
車内アナウンスが耳に入り、我に返る。何はともあれ、大津に会って確かめよう。場合によっては拳を突き出すことになるかもしれないが、そんときゃそんときだ。
スマホの地図アプリを起動し、「ワライバ」の住所を入力した俺は、案内開始ボタンを押して電車を降りた。
*
駅から高校へ向かう道沿いの景色はほとんど変わっていなかった。しかし、学校帰りに立ち食いした団子屋や、個人が経営していた服屋はコンビニに取って代わられていた。
時代の変化を感じながら歩くこと十数分。「ワライバ」はK高にほど近い閑静な住宅街にあった。パッと見は喫茶店だが、本当にここがクラブの拠点なのだろうか?
店の前で立ち尽くしていると、やたらと図体のデカい外車が低いエンジン音を響かせながら駐車場に滑り込んできた。どんな金持ちがやってきたのかと思って凝視する。停止した車から降りてきたのは本郷祐輔と孝太郎だった。
「来てくれると思っていたよ。ありがとう、庸平」
孝太郎は氣味が悪いくらい満面に笑みを浮かべながら右手を差し出した。俺はその手を振り払う。
「勘違いするな。お前をそそのかしたのが大津なら一言いってやろうと思って来ただけだ」
俺はしわくちゃの名刺を孝太郎の眼前に突きつけながら言った。にもかかわらず、やつはなおも笑っている。
「大津クンなら中にいるはずだ。僕らも彼に用があってきたから、一緒に入ろう」
ドアを開けた孝太郎に、先に入るよう促される。俺はそのドアを自分の手で更に押し開け、店内に足を踏み入れた。
大きな窓から春の陽光が差し込む店内は明るかった。コーヒーの香りが漂っていて数人の客がくつろいでいる。しかし全員がお一人様らしく、つけっぱなしのテレビから出る音の他に声らしい声は聞こえなかった。
不覚にも、居心地の良さそうな店だと思った直後、カウンターの向こうから「あーっ!!」とデカい声が響いた。大津だった。
「水沢センパイじゃないですか!! 生きてたんっすね!!」
「客に向かってその口の利き方は何だ……? 本当に店主なのかよ……? 客商売をしてるやつの態度とは思えないぜ……」
いきなり不快にさせられてげんなりする。が、孝太郎も本郷も咎める氣配はない。どうやら普段からこんな調子のようだ。俺は不快感を引きずったまま、ここに来た目的を果たすべく一氣にまくし立てる。
「お前なのか? 孝太郎に妙な提案をしたのは。こいつは野球なしでは生きられない男なんだぞ? 年齢的に身体を動かすのが無理でも、その技や知識を後生の選手に伝えるって形であればこの先もずっと野球と関わっていける。それこそ生涯、野球人でいられるんだ。なのにお前は孝太郎から野球を取り上げるような真似を……」
「ちょっとちょっと! おれを悪者にするの、やめてもらえません? 永江センパイ、ちゃんと説明しなかったんですか? この人、誤解しまくってますけど」
大津は俺を「この人」呼ばわりし、人差し指を向けた。イライラが最高潮に達する。やはり拳を突き出して一暴れしなくちゃいけないのか。ぐっと右手に力を込めたとき、店のドアが開いた。
「理人さん、こんにちは。散歩がてら、遊びに来ちゃいました。あれ? 孝太郎さんも来ていたんですね!」
俺をはじめ、その場にいた男たちの視線を一手に引き受けたのは若い母親だった。傍らには二歳くらいの女の子がいて、オジさんたちの顔をしげしげと眺めている。
「めぐさん、まさかここで会えるとは思ってなかった。顔が見られて嬉しいよ」
誰よりも先に声をかけたのは孝太郎だった。しかもあり得ないほど鼻の下を伸ばしているではないか。こんな姿、見たことがない……。
「そうか。孝太郎を変えたのはこの子か……」
大津が何か言ったくらいで野球から離れるなんておかしいと思っていたが、女が絡んでいるならいくらか納得も出来る。しかし、子連れと言うことは彼女には夫がいるはず。彼女と孝太郎の関係とは一体……?
混乱していた矢先、女の子が抱っこをせがむように腕を伸ばした。
「よしよし……」
氣づいた母親がしゃがみ込むより先に抱き上げたのはなんと、孝太郎だった。それだけでも驚くべきことなのに、あろうことか女の子は孝太郎に抱かれて嬉しそうに微笑んでいるではないか。
「ど、どうなってんだ……?」
戸惑っているのは俺だけだった。本郷も大津も、孝太郎と女の子の様子を微笑みながら眺めている。
「……その子ってもしかして、お前の……ま、孫?」
どうにか自分を納得させたくて放ったひと言だったが、案の定当ては外れたらしく、皆に笑われた。
「この子は……まなちゃんは、僕らの後輩の野上クンの孫だよ。ちなみに、ここにいるめぐさんは彼の姪っ子にあたる」
「えっ、野上の?!」
俺の頭はますますこんがらがった。
「だ、誰かイチから説明してくれよ。俺にはもう、何が何だかさっぱりだ……」
「それなら、食事でも取りながら僕らの近況を話すとしよう。大津クン、注文してもいいかな?」
「おれの手料理で良けりゃ、作りますよ。センパイの希望はめぐっちだろうけど、休みの人間を働かせる趣味はないんでね」
「構わないよ。君の料理でも腹は膨れるから」
「あー、そうっすか……」
「あのー、孝太郎さんがまなを抱っこしててくれるんならわたし、作りますよ?」
少々不満げな大津を見た彼女が助太刀するように腕まくりをした。しかし大津は「いいの、いいの」と大袈裟に顔の前で手を振った。
「それよりめぐっちは『水沢オジさん』に永江センパイが激変した経緯を話してやってよ。ついでにお得意の笑顔で悩殺しといて」
「えー? そういうことすると、また旦那さんに怒られちゃう!」
「黙っとけば分かんないって。よろしく頼むよ。ってことで、おれは食事の支度をするから」
「もう……。しょうがないなぁ」
彼女はそう言いながらも俺に向き直った。
「初めまして、野上めぐと言います。いろいろなご縁があって理人さんの元で働いています。えーと……。K高野球部の方、ですよね? 野球の鬼だった孝太郎さんがこんなふうになるまでには長い長い経緯があるんですが、お聞きになりますか?」
「長くてもいい。俺はそれを聞くためにここへ来たんだ」
「では、お話ししましょう。……物語の始まりはこの場所。約三年前に開催された野球部OB会でのある出来事がきっかけでした」
彼女はまるで朗読するかのように話し始めた。
現役を退いたあとからすでに孝太郎が残りの人生を無為に感じ、自分の命を軽んじる発言をしたこと。それを聞いた野上が怒りをぶちまけ、めぐさんや家族に会うよう説得したこと。そして実際に彼らと会うなかで、人としての感情を少しずつ取り戻していったこと……。聞けば聞くほど謎が解けていく。
「しかし、僕に生氣を吹き込んだ最重要人物はなんと言っても、まなちゃんだ」
話の途中で、そのまなちゃんを抱く孝太郎が口を挟んだ。
「この子の成長、笑顔、そして愛情を欲する姿を見るたび僕は感動するんだ。……まさかこの僕が、小さな子どもから何かを学ぶ日が来るなんて想像もしなかったが、現に僕は彼女との触れ合いがきっかけで新しいことを始めようとしている。それも野球とは違うことを」
「……まさかそれが『みんながまんなか体操クラブ』なのか?」
「その、まさかだ」
「じゃ、じゃあ……誰かにそそのかされたんじゃなく、お前自身が発起人……? まじかよ……」
俺は頭を抱えた。
「一通りの話は聞いたが、やっぱり信じられねえ。……本当にお前は、俺の知る永江孝太郎なのか?」
「……僕が言うのも何だが、人は、変わるよ。僕は長い間、変化とは信念がない状態のことだと思っていた。だからこそ野球人であり続けようともしてきた。しかしながら、野球にこだわっていた僕は、信念という名の硬い殻に閉じこもっていただけだと分かったんだよ。……僕を殻の外に連れ出してくれた、めぐさんをはじめとする彼女の家族には感謝しているよ。断っておくが、野球が僕の生を支えてくれるスポーツであることに変わりはない。ただ、もうしがみつく必要がなくなっただけだと言うことを付け加えておく」
「…………」
「まだ信じられないようだな」
「ったりめえだ!」
俺は椅子から勢いよく立ち上がった。
「事情はどうであれ、俺にはお前の変化を受け容れることなんて出来ない。……もう一度背負わせてやる。お前に、野球という殻を。また一緒にグラウンドに立つために!」
「庸平……」
「邪魔したな!」
ここへ来たことを後悔しながら店を出た。ちょうどそのとき、自転車に乗った高校生の一団が目の前を通り過ぎていく。それは奇しくもK高野球部員だった。
(彼らが孝太郎の今を知ったらがっかりするだろうな……)
そのくらい、K高生にとって永江孝太郎は憧れの存在なのだ。ましてや友人である俺の憧れ度は計り知れない。
(あいつは何も分かっちゃいない。昔も今も、名捕手・永江孝太郎にどれだけの人が期待を寄せているのかを。それに応え続けるのがプロ選手として活躍した人間の務めであることを……)
足もとに転がっていた缶を蹴り飛ばす。鈍い音を立てながら転がったそれは、走ってきた車に轢かれぺしゃんこになった。
3.<悠斗>
孝太郎さんが「みんながまんなか体操クラブ」を考案したのは、まなを愛するがゆえだ。
二歳を迎えたというのに、まなは一つも幼児語を話さない。そんなことだから一歳半検診の際「耳が聞こえないのでは?」と保健師に疑われ、専門医に診てもらうよう言われたほどだ。しかし異常はどこにも見つからなかった。発話の遅い子もいるから経過観察、とそのときはそれでおしまいになったが、周囲が発達障害を疑いたくなるくらいには無口なのであった。
しかし心配する祖父母を余所に、親である翼とめぐは「それがまなの特徴なのだ」と言い、深刻には捉えていない。オバアに至っては「まなちゃんは神様のお使いなのよ。今に神様の言葉を話し出すわ」と言ってあの子のすべてを受け容れてすらいる。
実際、社会的なルールも覚え始めているし、面白いことを見聞きすればキャッキャと笑いもする。話せないことを除けば同じ年の子と何ら変わりはなく、心配するには及ばないとおれも思っている。
が、元キャッチャーの孝太郎さんは現状を冷静に分析し、こう語ったのだ。「話せるようになるに越したことはない。たとえば他の子と過ごす機会を増やすのはどうだろう。それがきっかけで話せるようになるかもしれない。できる限りの手は尽くすべきだ」と。
その後、楽観的なおれたちではまず思いつかない案が彼の口から次々に飛び出し、おれたちはそのたびに議論を重ねた。やがてニイニイや本郷さんも彼の考えに賛同し、最終的には「親子、祖父母と孫が身体を動かしながら触れあえる場」と言うコンセプトが誕生。クラブ発足のため目下、準備を進めているというわけだ。
実は、体操クラブの活動が本格的に始まったら、そのときには水泳コーチの仕事を辞めるつもりでいる。表向きは自分の身体のためだが、真の理由はまなのため。自分の果たすべき役割は年齢や時々の状況で変わるものだし、変えていいのだと言うことを教えてくれたのは、皮肉にも馬鹿がつくほどの野球人・孝太郎さんだった。
「無論、それを歓迎しない人間もいる。庸平は思った以上に堅物のようだ」
その日の夕方、我が家にやってきた孝太郎さんは珍しく愚痴をこぼした。長年の友人と十年ぶりに再会し、現状報告したら物別れになったのがいささか不満なのだという。ずっと彼を見てきた相棒役の本郷さんでさえその変貌ぶりには仰天しているくらいだ。ましてや久々に会った友人なら困惑するのも無理はないだろう。
「だけど水沢さんって方、野球人としての孝太郎さんをものすごく尊敬しているふうに見えましたよ? あの様子じゃ、また説得しに来るんじゃないかなぁ?」
現場に居合わせためぐがそう言うと、孝太郎さんは腕を組んで小さく笑った。
「庸平も僕に匹敵するくらい野球を愛しているからね。彼の氣持ちは痛いほど分かるつもりさ。だけど……僕は思い出してしまったんだ。幼い頃、勝負とは関係なく一人野球と向き合っているときに感じた、風やグラウンドの匂いを。そこに生きる喜びがあったことを。……僕は、今後も勝負の世界に身を置いていたら遅かれ早かれ人としての機能を失ってしまうことに氣づいた。だから大切にしたいと思える存在が出来た今は、感情をなくすような仕事ではなく、温かい心を持ち続けられるような環境に身を置きたいと思ってる。……今回は理解してもらえなかったが、たぶんあいつを説得できるのは僕しかいない。あいつが何か言ってくるなら、その都度応じるしかあるまい」
そういった孝太郎さんは、かつてとは別の自信に満ちあふれて見えた。これはおれの勝手な想像だが、見守ってくれている影の存在――ご両親の霊――が彼をここまで導いたように思えてならなかった。孝太郎さんもおれ同様、簡単には死なせてもらえない人間に違いない。そう思うと妙に親近感が湧くのだった。
◇◇◇
まなが卒乳した頃からめぐは再びワライバで働き始めている。両親が仕事に出ている日中は基本、おれがまなの遊び相手を引き受けている格好だ。と言っても、近所の公園に連れ出してボール遊びをしたり、一緒にブランコに乗ったりするだけなのだが、こうしていると本当に血を分けた父親になったような氣持ちになるから不思議だ。その間おれは最上級の幸福を味わいながら、まなと二人きりの時間を楽しんでいる。
「ほら、見てごらん。これはね、ビオラって言うお花だよ。パンジーよりも小さいのがビオラ。黄色、白、濃い紫……。いろんな色があるだろう? で、こっちのお花はチューリップだ」
公園の花壇に興味を示したまなの目線に合わせてしゃがみ、一つずつ花の名前を教えてやる。まなはおれと同じように一つずつ指を差してはこちらを見、「これが『はな』?」と目で訴えかけている。
「そうだ、これが花だ。……綺麗に咲いてる花を取っちゃダメだよ。摘んだら死んじゃうから、このままにしておこうな。摘むならこっちのタンポポに……」
手を伸ばしかけてやめる。花壇の花は摘んじゃダメで、野の花は摘んでいいのはなぜか、説明できそうになかったからだ。
「……いや、タンポポも元氣に咲いている。このまま見て楽しむのが一番だな」
花弁を撫でると、まなも真似をして黄色い花をなでなでした。
「優しいな、まなは……」
おれが言うと、まなはにっこり笑った。その顔は幼い頃のめぐによく似ていた。思わず問いかける。
「まなはおれのこと、なんて呼んでくれるのかな。ゆうくん? それともお父さん?」
正直な話、おれが死ぬまで元氣な姿が見られればそれに勝るものはない。が、欲を言えば名前を呼んで欲しいと思っているおれがいる……。
なぜかといえば、まなと名付けられた子の口から「お父さん」と呼ばれることで、おれはとうとう亡き娘、愛菜との再会を果たしたのだと納得できるからだ。今生で会えたと手放しで喜べるような氣がするからだ。もちろんそれはおれの身勝手な願望に過ぎないけれども。
「まぁ、いいさ。時間はまだたっぷりある」
めぐと家族になったときもそうであったが、何ごとも焦りは禁物だ。おれは努めて自分の身体をいたわって一日でも長く生きる。そうするうちにまなも成長し、発話できる年頃になるだろう。それまでは見守るしかない。
その場でじっとしていたら少し汗ばんできた。四月も半ばになると、優雅に花の間を舞う蝶も日陰を求めたくなるような日差しが降り注ぐ。
「ちょっと喉が渇いたな。おうちに戻ってジュースでも飲むか」
「ん!」
おれが動き出すより早く、まなはおれの手を掴んで引っ張った。ストローで飲み物が飲めるようになったのを機に、両親が控えていたジュースを与えたのはおれだ。翼には「甘やかしすぎだろ!」と叱られたが、これがおれの子育て法なのだから仕方がない。両親の厳しさと第二の父の甘やかしがあってこそ、子どもは真っ当に育っていくもの、と言うのがおれの持論だ。
「何味がいい? 一番、リンゴ。二番、ブドウ。三番、オレンジ」
まなは、ぎこちないながらも人差し指を一本出した。これは一番目のリンゴがいい、と言うサイン。リンゴジュース好きは、奇しくも亡き娘と同じだった。
4.<めぐ>
我が家の週末はとても賑やかだ。九十歳を過ぎた祖母をはじめ、悠くん、翼くん、そして祖母の世話をしに来る伯父までもがいっぺんにしゃべるからだ。まなでさえ、話さない代わりにおもちゃのピアノを鳴らして自己アピールする。ここはさながら幼稚園のよう。
そんな中でも伯父の声は良く通る。伯父は、まなとわたしの前に腰を下ろして言う。
「そう言えばめぐちゃん、水沢先輩に会ったんだって?」
「はい。孝太郎さんのやろうとしていることが氣に入らない様子でした……。わたしとしてはちょっと残念な氣持ちです。お友達なら、協力してくれてもいいのに」
「まぁ、永江先輩はやっぱりすごいキャッチャーだし、優れた指導者だとも思うからそう言いたくなる氣持ちは分かるけどな。……ああ、おれがその場にいればなぁ。もうちょっと言ってやれたんだけど」
伯父も孝太郎さん同様、孫であるまなが一日でも早く言葉を話すようになって欲しいと願い、時短勤務に変更してまでクラブ発足に携わっている人間の一人だ。
「おいおい、また飲み物ぶっかけて伝説作ろうとしてんの? やめてくんない?」
そこへ、耳聡い翼くんが眉をひそめてやってきた。しかし伯父は首を横に振る。
「曲解にもほどがある。そうじゃねえんだ。実は、水沢先輩がクラブの方針を聞いて怒り出すなんて妙だなぁと思ってな。確かにあの人も野球で出来てる人だけど、家庭的な家で育ったって聞いてるし、妻子もいたはず。何よりも、一番永江先輩の身の上を心配してたはずの人が、新たな生きがいを見つけた永江先輩のことを歓迎しないなんて」
「確かに妙ですね……」
「長く生きてりゃ、考え方の一つや二つ、変わるもんじゃねえの? なぁ、この話は終わりしようぜ」
翼くんはうんざりした顔で言うと、話題を変える。
「ねぇ、めぐちゃん。さっきウェブ閲覧をしてたときに見つけたんだけど、これ。一緒に聴きに行かない?」
翼くんが見せてきたスマホの画面をのぞき込む。そこには『K市の歌姫、ゴールデンウィークのイベントでミニライブに出演!』と書いてあった。わたしは画面に表示されている顔写真を指さす。
「この歌姫って、レイカだよね? 昔の歌手だけど、翼くんは好きだったよね?」
「そうそう。ギターを一本ひっさげて一人で歌う姿。そして心に染み入る歌詞がたまんないんだよなぁ。しかも今回のライブは無料らしい。行けば誰でも自由に聴けるそうだよ」
「へぇ! じゃあ行ってみようか。まなの面倒は……伯父さん、お願いできます?」
ちょっと上目遣いで頼んでみる。が、伯父はいつものようには頷かず、むしろ唸った。
「レイカ……。これも何かの縁なのか……」
「え、何々?」
戸惑う翼くんに、伯父が説明する。
「いや、実はその歌手、今し方話してた水沢先輩の実のお姉さんらしくてな」
「えっ!!」
「すごーい! 確かに縁を感じるかも! ねぇ、翼くん。そういうことなら孝太郎さんも誘っていこうよ! 伯父さんも行きます?」
「……そうだな。何かが起きそうな予感もするし」
伯父は相変わらず渋い顔でいい、遠くを見やった。
*
わたしがメール連絡を入れると、その日の夕方に孝太郎さんから電話がかかってきた。一応、都合がつくという内容だった。しかし声は暗く、あまり乗り氣ではない様子が伝わってきた。氣になったので恐る恐る尋ねてみる。
「レイカが水沢さんのお姉さんだから……ですか?」
『……麗華さんの歌には助けられた経緯があってね。聞けば当時を思い出すんじゃないかと。それに……』
「それに……?」
『ライブには庸平も来る氣がしている。広い会場で会うとは考えにくいが、会わない保証もない。平生なら問題はないだろう。だが、麗華さんの歌を聴いたあとで庸平に会えば、心情が揺らいでしまうかもしれない。彼女の持ち歌には野球を題材にしたものがいくつかあるからね』
「なるほど。だけど、大丈夫ですよ。わたしも伯父さんも翼くんも一緒に行きますから」
『何かあれば君たちが力になってくれる、と……? 確かに、野上親子が相手では庸平も手こずるだろうな』
ようやく孝太郎さんは笑った。
『そういうことなら一緒に麗華さんのライブを聴きに行こう。一日空けておく。その代わりと言ってはなんだが……ライブのあとはまなちゃんに会わせてもらえないだろうか』
「もちろん! ライブ中は悠くんとお留守番しててもらいますけど、孝太郎さんと一緒に帰ったらきっと喜ぶと思います!」
『よし、一つ楽しみが出来た。それじゃあまた、当日に』
そう言って孝太郎さんは電話を切った。
「ふふ……。本当にまなのことが好きなんだなぁ……」
通話を終えたあと、彼がまなをあやす様子が浮かんできて口元が緩む。家族は皆、あの孝太郎さんを虜にするなんて、まなも人を笑顔にする才能があるに違いないと口をそろえて言う。しかしわたしは、まなにはそれ以上の力があると感じ始めている。これは母親の勘に過ぎないけれど、まなの中には大きな力が眠っていて目覚めの時を待っているように思えてならないのだ。
まながしゃべり出したら日常ががらりと変わる――。そう確信している一方で、変化を受け止められるだろうかと不安も感じるわたしであった。
*
電話を終え、急に甘いものが食べたくなったわたしは、夕方の散歩がてら、久々に洋菓子店『かみさまの樹』を訪れた。
父親に合格をもらった木乃香は今、お店のメインパティシエとして働いている。若い女性ならではの工夫が成された焼き菓子は店の新たな人氣商品となっていてタウン誌にも取り上げられたほどだ。
「新商品のパウンドケーキ下さい。いつものように自宅用で」
「はい、かしこまりました。……なんてね。いつもありがとう。そうそう、赤ちゃんでも食べられるクッキーの販売を始めたんだ。もし良かったら試してみて!」
「ほんと?! そう言うの、待ってたんだ! 早速買って帰るよ」
「わーい! 持つべきものは友、だね!」
木乃香はそう言って商品を袋に詰めながら、わたしの方をチラチラ見ている。どうやら抱っこしているまなが氣になるらしい。
「やっぱり赤ちゃんってかわいいなぁ。あたしも早くご縁があるといいんだけど! めぐ、おじさまの知り合い多いよね? 一人くらい、いい人いない?」
「うーん……。みんな、癖のある人たちばっかりだからなぁ。だいたい既婚者だし。って言うか、オジさん狙いなの?」
「めぐを見てたら、年上もありかなぁって最近思ってんだよねぇ。若い男よりずっと包容力ありそうじゃない?」
「確かに」
そのとき、店の奥からわざとらしい咳払いが聞こえ、店主が顔を出した。
「……コノ。おれより年上の男との結婚だけはやめてくれ」
「うわ、お父さん、聞いてたの? もう、こういうときだけ反応するんだから!」
「大事な話だからな。コノが好きになる人に口出しする氣はないけど、おれのワガママを言わせてもらえるなら、結婚相手は店と神社を経営してる我が家に理解のある男がいいね」
「はいはい、わかってますって。……あ、お父さん。出てきたついでに店番しててくれない? 氣晴らしにちょっとだけ、めぐと神社に行ってきたいんだ」
「……ちょっとだけだぞ?」
「ありがとう、お父さん!」
木乃香は大袈裟に両手を挙げ、父親に抱きついた。
*
まなを連れて神社を訪れるのは初めてだった。境内に人氣がなかったので、まなを降ろしてやる。まなは嬉しそうに歩き出したかと思うと、真っ先に神木を目指した。
木の根元に到着し、振り向いた幼子に向かって語りかける。
「パパとママはこの神社の神様に祝福されて結婚したんだよ」
言ったことの意味が分かったのか、まなは木を見上げた。それを見た木乃香も同じように神木を見上げる。
「……めぐ。まなちんには聞こえてるのかもしれない。神様の声が」
「えっ?」
「いまね、神様がまなちんに語りかけてるの。ここであなたに会えるのを楽しみに待っていたのよって」
「えっ?! って言うか、木乃香にも聞こえるの? 神様の声が」
「あれ、言ってなかったっけ? 巫女にはならなかったけど、あたしもお母さんの血を受け継いでご神木の声を聞くことが出来るんだよ。まぁ、時々だけどね」
「で、で? 他にはなんて言ってるの?」
木乃香に神様の声が聞こえると知っただけでも驚きだが、その神様がまなに語りかけている理由や内容はもっと氣になる。せっつくと、木乃香は「まぁまぁ」と言って耳を澄ませる。が、直後にまなが泣き出してしまった。慌てて抱き上げる。
「どうしたの?」
聞いてもまなは泣くばかりだ。困惑していると、木乃香が告げる。
「まなちんはきっと、神様の言葉を理解したんだよ。……大丈夫、もうすぐ話すようになるって、ご神木さまは言ってる。そうしたら、今よりもっと素敵な日々がやってくるって」
「もしかして、神様さまの言葉が刺激になって何か言いたいけど、言えないのがもどかしい、とか?」
「かもねぇ。ま、おしゃべりなめぐんちの子供だもの。すぐにまなちんも、おしゃべりさんになるって。……あっ」
木を見上げていた木乃香の元に、ひらひらと一枚の葉が落ちてきた。まるで木が自らの意志で落としたかのようだ。手のひらで葉を受けた木乃香も驚いている。
「こんなことが……。めぐ、これはまなちんのお守りにしてあげて。ご神木さまの氣持ちだと思うから」
「ありがとう」
葉を受け取ると、まなは泣いたとき同様、急に泣き止んだ。木乃香は頷く。
「うん。やっぱりまなちんは神様の申し子だよ。この出来事はお母さんにも話しておく。もしかしたらお母さんの方が強いメッセージを受け取れるかもしれないし」
「そうしてもらえると嬉しいな」
「了解。……さて、仕事に戻らなきゃ」
「わたしも帰ろう。家族が待ってるから」
わたしたちはつかの間のおしゃべりを楽しんだあと、それぞれの居場所に戻った。
5.<翼>
レイカのことを知ったのは小学一年生。父の運転する車に乗ったとき、カーラジオから流れてきたのを聞いたのが最初だった。
当時、エリ姉の影響でピアノを習い始めていた俺は、作詞、作曲、歌のすべてを一人で手がけるレイカに憧れて、よくまねごとをしていたものだ。学年が上がってからはギターを買ってもらい、弾き語りの練習もしていた。
常々、生歌を聴いてみたいと思ってはいたものの、レイカはあまり表に出ない歌手で、ライブも不定期開催だから直接聴く機会はこれまで一度もなかった。そんな俺にとって今回の無料ライブはまたとないチャンスだった。
「やっぱりまなも連れていこう。いい刺激になると思うんだ」
当初は留守番しててもらう計画だったが、神社での話を聞いた俺は考えを変えた。めぐちゃんは驚いた様子で俺を見上げる。
「でもせっかくのライブだし、わたしはともかく、翼くんは純粋に生歌を楽しみたいんじゃない?」
「とは言え、誰でも氣軽に聞ける無料のライブだから、子連れもいるんじゃないかな。それにコータローさんも、レイカの歌には心揺さぶられた経験があるって言ってたんだろ? 俺だってそうだ。あの歌声には特別な力がある。生歌なら尚更だと俺は思う」
「……そうだね。まなは確実にわたしたちの言葉や見えない世界の何かを受け取ってるみたいだし、外からの刺激がまなの発話を促すきっかけになるのだとすれば、レイカの歌を聴かせてみるのはありかもしれない」
「だろ? それにさ、俺たち三人で一人前の親なのに、悠斗とまなを置いて出かけるってのも妙な話じゃん?」
そこへちょうど、まなを抱いた悠斗がやってきて話に加わる。
「いいよ、おれは。まなを連れてくってんなら、ひとりでのんびりしてるよ」
「まぁまぁ、そう言わずに。滅多にない機会なんだぜ。一緒に行こうよ、悠斗君♡」
ちょっとすり寄るフリをしたら大袈裟にため息をつかれた。
「……結婚する前みたいにデートがしたい、ってんなら最初からそう言ってくれよ。まぁ、まなが生まれてから三人揃って出かけたこともなかったから、ちょうどいい機会かもな。ただし! まなやめぐそっちのけで、おれにイチャつくなよ?」
「外でイチャつくもんか。悠斗にすり寄るのは家の中だけだよぉ」
もう一度寄りかかると、まなも真似して悠斗に頬ずりした。
「やれやれ……。モテる男はつらいなぁ……」
悠斗がぼやくと、めぐちゃんが笑った。
◇◇◇
当日のライブは俺たち家族と父、それからコータローさんの六人で行くことになった。無料と言うこともあってか、野外の特設会場は混み合っていたが人の出入りも激しかった。ミニライブは数名の歌手が順に出演していく形で、レイカはライブのトリを飾ることになっていた。
会場前に到着したとき、ちょうどレイカの前の歌手が歌い終えたようだ。拍手と共に聴衆が動き始める。俺たちは出て行く人の波に逆らうようにしてステージ側へと進む。運よく最前列を陣取ることが出来た俺は、まなを抱いためぐちゃんを隣に引き寄せた。残るオジさん三人も俺たちのすぐ後ろの場所を確保したようだ。
「最前列だなんてラッキーだね。……でも、歌が始まるまであと十分か」
落ち着かない様子のまなを抱くめぐちゃんが時間を氣にするように言った。
「こういう時は俺の出番だな」
時間まで退屈しないよう、幼児の氣を引く遊びをするのは日常茶飯事だ。俺はリュックの中から、あらかじめ用意しておいたまなのお氣に入りのパペット人形「ウサコ」を取り出して手にはめた。
「まなちゃん。ウサコと遊びましょ。何して遊ぶ? じゃあ、ウサコから行くよー。くすぐりごっこだ! こちょこちょこちょー!」
「キャハハッ!」
まなは大喜びでウサコに抱きついた。すると、背後にいたコータローさんが真面目くさって言う。
「ふーむ……。やはり翼クンにもクラブに参画してもらいたいものだ。僕ら素人よりプロの方がずっと子ども目線でプログラムを考えられるに違いない」
「誘ってくれるのは嬉しいけど、俺には本職があるからな。まぁ、相談してくれればアドバイスはする。そういう形でなら協力できるよ」
「無論、本業優先で構わない。意見がもらえるだけで充分だよ」
「じゃ、そういう感じで」
「すんません、先輩。息子の口の利き方がなってなくて」
話はちゃんとまとまったのに、なぜか父が謝った。
「まったく氣にしていないよ」
コータローさんは笑って返す。
「いいんだ、彼は。僕を家族同然に思って接してくれているからこその、タメ口だと理解しているから」
「そうですか……」
コータローさんの答えに父は不満そうだったが、それ以上は何も言わなかった。
そうこうしているうちに会場の準備が整ったようだ。ステージの端に司会者が現れて一礼する。
「お待たせしました! 間もなくレイカさんの登場です!」
会場がにわかに盛り上がり、拍手に包まれる。まなも一緒になって手を叩く。数秒の後、BGMと共にレイカが姿を現すと、拍手に加えて歓声も沸き起こる。レイカはそれに応えるように手を振り、ステージの中央に立った。
「みなさん、こんにちは。レイカです。公の場に出るのは本当に久しぶりなのですが、こんなにたくさんの方に来ていただいてすっごく嬉しいです! 興奮してます! 今日は持ち歌の中から厳選した三曲を聴いていただこうと思っています。短い時間ですが、最後まで楽しんでいただければ幸いです。……早速ですが、最初の曲を聴いて下さい。……『マイウェイ』」
レイカはそう言ってギターを握り、音を鳴らし始めた。
#
果てしない夢 いつか叶えたいと
語り合った 幼少期
見るものすべてが 美しかった
夕日のオレンジ 空の青
木々の緑 桜いろ
心揺れた景色は 今も 鮮やかに
強く生きてくと 誓ったあの日
僕は僕を越えたんだ
まっすぐに どこまでも続く道を
立ち止まらずにゆく
いつも全力なんだ マイウェイ
#
一人では夢 叶えられないと
落ち込んだ 春の夜
見るものすべてが にじんで見えた
傘も差さずに 僕はただ
冷たい雨に 打たれてた
傘を差してくれたのは ともに歩んだ仲間
ひとりで生きると 誓ったあの日
僕は僕を超えれずに
まっすぐな 想いだけじゃ空回り
仲間がそばにいる
もっと全力なんだ
#
一人じゃ届かない声も届く みんなとなら
立ち止まってもいいんだと
教えてくれた ありがとう 友よ
歩いてゆける マイウェイ
もう 一人じゃないから
#
十代の頃、何度となく聴いた曲。イントロが流れれば今でも自然に口ずさむことが出来る。しかし今改めて聴くと、歌詞から受ける印象がまったく違った。それはレイカの歌い方が洗練されたせいもあるだろうが、おそらくは俺自身が様々な人生経験を積んできたからなのだろう。
年齢を感じさせない声量と歌唱力に圧倒された聴衆は、レイカの歌を黙って聴いていた。二歳児のまなでさえ。めぐちゃんに至っては涙が込み上げてきたのか、ハンカチでまぶたを押さえている。
曲が一つ終わると、聴衆はさざ波のような拍手を送った。誰も声を発することなく、次の曲の始まりを静かに待っている。レイカもそれが分かっているのか、一呼吸置いたあとですぐにギターの調律を始めた。
6.<孝太郎>
父の影響で野球を始めた僕はその面白さにのめり込んだ。中学生の時に父を亡くしてからは更に熱中し、人生のすべてを野球に捧げる覚悟で生きていた。その様子があまりにも狂氣じみていたために、周囲の人間からは「野球の鬼」とか「鬼部長」などと呼ばれていたほどだ。
プロ選手になってからは尚更、感情を置き去りにするようになった。そうしなければ最前線で活躍し続けることなど出来ないと信じていたからだ。
すべては、勝つため。
そんな僕が突き進んでいた道に漂っていたのは、死に神に後をつけられているような切迫感と絶望感だった。しかし、それを感じていたにもかかわらず、歩みを止めようとしなかった僕は病んでいたとしか言いようがない。
無論、そんな精神のまま死んでも後悔はしなかっただろうが、今は死に急がなくてよかったと思っている。なぜなら、選手として使い物にならなくなった僕の能力を別の形で活かす場が見つかったからだ。
一人では決して見つけられなかったであろう道に、僕はいま、一歩を踏み出そうとしている。庸平が何を言おうと言うまいと、僕は僕の道をゆくと決めたのだ。
僕を突き動かしている原動力に名前をつけるつもりはない。だがもし、母がまだ生きていたらこう言っただろう。コウにも想い人が出来てよかった、と。
ギターの調律を終えた麗華さんはすぐに二曲目を弾き始めた。それは、彼女の名を世に広めるきっかけとなった『ファミリー』だった。
この原曲を一番に聴いたのが僕だと知る人物はいない。『ファミリー』のもととなった曲は僕をイメージして作られたもので、父の死のショックから立ち直れていなかった僕は、激しく心を揺さぶられた。高校三年生の時だった。
高校野球人生を終えたら父の後を追うつもりでいた僕を、もうちょっと生きてみようかという氣にさせてくれた『ファミリー』は、僕の人生に転機を与えた曲。ことあるごとに思い出される一曲なのである。
#
夢中でボールを追いかける
その背中は小さく
ころんでばかり いつでも傷だらけ
守れる強さがほしかった
だけど 会えばけんかになって
互いに 意地っ張りでね
「君が好き」素直な氣持ち
伝えられないまま 流れゆく時間
忘れないで ずっと
ともに過ごした日々を 家族の愛を
#
夢中でボールを追いかける
その背中は大きく
いつの間にか 私を追い越した
重なる 君の父の姿
似てる けれども同じじゃない
君は 大人になったんだ
「ごめんね」と「ありがとう」を言うよ
ごまかしてた氣持ち 立ち止まって今
忘れないよ ずっと
ともに過ごした日々は いつまでも鮮やかに
愛をくれた人は いつでも心の中
君は生きていいんだよ 今を
#
「君が好き」素直な氣持ち
今なら伝えられるかな あふれる想い
歌に乗せて そっと
共に生きよう これからずっと……
#
麗華さんの歌声は相変わらず美しかった。かつての僕のように感涙している人も多かった。しかし、今の僕には涙を流すほどの感動はなかった。
僕自身が父の年齢を超えてしまったから?
父の死を乗り越えたから?
プロの選手として最後までやりきったから……?
たぶん、すべてが当てはまる。
あらゆる困難を経験した僕にとって、麗華さんの歌詞は克服した出来事の羅列に過ぎない。だから一字一句なぞっても正面から受容できたのだろう。
「……先輩。実はこの歌、おれにとって思い出の曲なんですよ」
間奏の最中、隣で聴いていた野上クンが唐突に言った。
「関わり方が分からなかった息子と和解した日に、歌ってくれたんですよ、そいつが。あのときはまるで自分に語りかけられているかのように感じたもんです。今でもあんまりうまく話せないけど、この歌を聴くと、息子のことをもっと理解してやらなきゃって思うんです」
彼は一列前にいる翼クンに聞こえないよう、独り言のように呟いた。
「君にとってこの歌が彼との絆を思い出すきっかけになるなら、思い出したときだけでも優しくしてやるといい。しないより、する。それが君のモットーだろう?」
「そうですね」
「……僕も大切にするよ。君たちとの日々を。もちろん今日という日も」
そう。今の僕に必要なのは麗華さんの歌ではなく、ここにいる「家族」。そして彼らと過ごす時間そのものである。
与えられた有限の命は、大きな役目を果たすために使わなければならないと思い生きてきた僕に、赤子のごとくただ存在しているだけでも生きる価値はあるのだと教えてくれたのが彼ら。中でも、自分で思っているよりずっと、この命には重みがあるのだと諭してくれた野上クンは命の恩人である。
その彼がほっとしたように頷く。
「おれ、酔った勢いとはいえ先輩に失礼なことをしちゃって、申し訳なかったなぁって思ったこともあったんですが、今は思いきって本音を伝えてよかったと思ってます。……まぁ、先輩に生きる力を与えたのは息子たちですけど」
「おかげさまで、今は生きることが楽しいと感じているよ」
人生の転機は誰にでも訪れる。僕の場合、中学生の時は父の死が、高校生の時は麗華さんの歌が、そして今は野上クンをはじめとする家族との出会いが僕を変えるきっかけとなった。
結局どの節目を見ても僕は生きる道を選ばされてきたわけだが、三度も続けばさすがに自死は諦める。軽々しく運命などという言葉は使いたくないが、何らかの力が働いた結果、今もこうして生きていることだけは確かだ。
翼クンが言っていた、見えない世界の存在とやらを僕も少しずつ感じ始めている。ここへ来ることもおそらくは決まっていた。だとすればきっと、このあと何かが起きる。僕はそう確信している。
『ファミリー』が終わった。麗華さんの歌を聴きに来た人々は、聴き入っているのか、感極まっているのか、ほとんど誰も声を発しない。まるで、神託が下るのを待っているかのように静まりかえっている。そんな中で、麗華さんがマイクを握る。
「二曲続けて聴いて下さり、ありがとうございます。耳を傾けて下さる皆さんのおかげで今日まで走り続けてこられたこと、そして今、ここに立っていられることに感謝致します。……さて、ミニライブも次の曲でラストとなります。最後の曲は何を歌おうか、ずいぶん悩みました。しかし、古くからの友人を励ましたいとの思いに至り、未発表のこの曲を歌うことに決めました」
未発表の曲、と聞いた聴衆はざわめいた。予想通りの反応だったのか、麗華さんはざわめきが収まるまで口をつぐんでいた。聴衆が落ち着いたのを見計らって再び話し始める。
「……これから歌うのは『ファミリー』の続きに当たるものです。その名も『サンキュー、ファミリー』。会場にいるか分かりませんが、友人のために歌います。それでは、聴いて下さい……」
麗華さんの言った「友人」が誰か、僕にはすぐに分かった。ギターの音が鳴り響く。僕は歌い出す彼女をじっと見つめた。
#
巻き戻せない 時の中で
君の顔 浮かんでは消える
緑の風が 撫でる髪
君のにおい 連れてくる
共に生きた日々
君もわたしも
同じ時の 波に乗り
生きてきた 今日まで
がむしゃらに
何者にも
ならなくてもいい
今ここにいる
それがすべての証拠だから
#
早すぎる 時の中で
君は 何を思っているの?
青い空の下で
走る君の姿 光る汗
それぞれ生きた日々
君もわたしも
同じ時の 波に乗り
生きていく これからも
ひたむきに
何も
できなくなってもいい
今生きている
この奇跡に感謝しよう
#
いるよ、近くに
君を想う ファミリー
#
歌おう 君のために
たとえ声が 届かなくても
君の未来が ひらくように
ラララ
新たな道を進む君へ
忘れないで
家族がいることを
#
最後の最後で僕の心は動いた。彼女の歌声が、昔の思い出をしまい込んでいた心の扉を優しくノックする。そっと押し開けられた扉の隙間から入り込んだ温かみのある声は、思い出をぐるっと一廻りし、彼女の想いを残して去って行った。
確信した。これは僕に向けられた歌だと言うことを。
会場内を見回す彼女。その目が一瞬、僕のところで止まったような氣がした。小さく頷いたようにも見えた。
彼女にはすべて分かっていたに違いない。僕がここに来ることも、歌を聴いて何かしらを感じることも。
(ありがとう、麗華さん……)
心の内で礼を言った。クラブが無事に発足し、軌道に乗ったらそのときは第二の人生を歩み始めたことを、そしてもう自死への道は歩かないことをきちんと伝えよう。そう思った。
7.<庸平>
果たして孝太郎は会場に来ているのだろうか。俺の目では確認できていないが、ここにいることを願うばかり。そして姉貴の歌を聴いて、少しでも考え改めてくれれば、と思う。
それにしても、デビューしてから何十年も経つというのにこれほどの人を集められるなんて、我が姉ながらあっぱれとしか言いようがない。それもこれも、姉貴の生み出す歌詞と歌唱力の高さ、そして何より情感のこもった歌いっぷりの賜物なのだろう。
歌手レイカの時の顔や声は、俺の姉貴、水沢麗華のものとはまったく違う。まるで何かが乗り移ったかのような神々しささえある。それを「プロ」と言うのなら、姉貴は紛れもなくプロだと言えよう。
同じプロでも、野球に対する貪欲な姿勢がプライベートにまで及んでいた孝太郎は、俺の中では最上級のプロだった。人によっては「仕事の鬼」だと言うかもしれないが、野球に浸っているときの孝太郎は、俺には活き活きして見えた。世話好きな母親に身の回りのことをすべて任せ、野球に専念できる孝太郎がかなり羨ましくもあったが、活躍し続けるあいつの友人であることを俺は誇りに思っていた。
こうして考えてみると、俺は「ただの孝太郎」ではなく、「野球人・永江」と友人でいたいんだろう。そりゃあそうだ。だって俺と孝太郎とを繋いでくれたのは野球なんだから。
――馬鹿ねぇ、そんなのがなくたって、コウちゃんとはちゃんと付き合えるくせに。
聞こえるはずのない、姉貴の声が聞こえた氣がした。慌ててかぶりを振る。が、奥底にしまい込まれていたはずの古い記憶がおぼろげによみがえってくる。中学生のある時期、一緒に生活していた際の記憶――掃除ひとつまともにできないくせに、プライドが高いから自分でやろうとするんだけど、案の定失敗して恥ずかしそうに笑う、人間くさい「ただの孝太郎」の姿――だ。
もしかしたら俺は、何十年も完璧な永江孝太郎を見てきたから、どこかであいつのことを「スーパーヒーローであって欲しい」と望んでいるのかもしれない。ずば抜けて格好いい、俺の理想の男であり続けて欲しいと……。
(分かってる。分かっているさ……)
つまるところ、俺は野球人・永江が好きなんだ。あいつのファンなんだ。だから野球から退いて欲しくないと、あいつの新しい人生にケチをつけているんだ。
(こんな男が、あいつの友だちだってよ……。そんな資格、あるのかよ……)
第一線で活躍し続けたにもかかわらず、あっさりとその地位を捨てて別の人生を歩み出せるあいつが単純に羨ましい。いや、俺はいつだって羨むだけ。まねごとをしてみても越えられないどころか、けなしてすらいる……。
(野上、か……)
孝太郎がエースピッチャーの本郷ではなく、能力的には平凡に見えた野上路教を次期キャプテンに任命したときは本人を含む全員が驚いていたが、孝太郎に生きる希望を与えるきっかけを作ったのが野上なのだとしたら、やはりあいつにはキャプテンを任せるだけの素質があったのだろう。
野上や大津が希死念慮をもつ孝太郎を説得したのは確かだし、よくやった、とも思う。それでも素直になれないのは、あいつらが孝太郎を誘惑したような感じがするからだろう。
(あいつらだって、野球人・永江孝太郎を尊敬しているんだろうに……。なぜ野球から引き離そうとするのか……)
俺は家庭を持っても自分のやりたいことを諦めなかった。生涯、野球に関わっていくと決めて今日まで生きてきた。俺でもそうなんだから、孝太郎なら尚のことだろうと思うのに、あいつは別の道を歩み始めようとしている。理由は聞いた。が、何度考えてみても納得できないのだ……。
自分の氣持ちに折り合いをつけるためにも、孝太郎とはもう一度きちんと話し合わなければいけない。とことん話し合ってもわかり合えなければ、残念だがそのときはもう付き合いをやめることも考えなければならないだろう。
*
姉貴の最後の歌が終わり、予定されていたミニライブは終了した。聴衆はぞろぞろと会場をあとにし、街へと繰り出していく。俺はしばらくの間、散り散りになっていく人々の波を妨げる杭のように立ち尽くしていた。
「いいですね! じゃあ、みんなで先輩の部屋に行きましょう!」
ぼんやりしていると、聞き覚えのあるデカい声が耳に飛び込んできた。ハッとして声のした方を見る。と、人の波間からわずかに肩車をされた幼児の姿が見えた。
(あれは確か、野上の孫……)
グラウンドの端にいてもはっきり聞こえるほどの声量を持つ野上の顔が目に浮かんだ。そうだ、今の声は野上のもの。
(あいつ今、先輩の部屋に行こうって言ったか……? 先輩って、孝太郎のこと……?)
俺は幼児を見失わないよう必死で追いかけた。雲が晴れるように人々が散っていくと、幼児を肩に乗せた父親らしき男性の隣に先日見かけた若い母親、そしてやはり野上と孝太郎の姿がみえた。
(来ていたんだな……)
彼らが向かう先には、駅そばに立つ高級マンションがある。俺は人混みに紛れながら後を追った。
*
つけていることが知られないよう、少し距離を空けて追跡していたら、オートロックされたドアの前で足止めされてしまった。当然のことながら、孝太郎ほどの有名人が郵便受けに名前を掲示するはずもなく部屋番号は分からずじまい。
(くそっ、住んでいるマンションは特定できたのに、中に入って問い詰めることも出来ないのか……)
諦めて引き返そうとしたそのとき、マンションに入ろうとする住人らしき女性がやってきて目が合った。
「あっ!」
俺たちは互いに声を発した。
「春山! なんでここに?!」
「水沢先輩! どうしてこんなところに?」
一目見てすぐに分かった。彼女がK高野球部のマドンナ、春山詩乃だということは。本郷と結婚しているからもう春山姓ではないが、仲間内で話題にするときはみな旧姓で呼んでいる。
春山が俺の問いに答えるように先に口を開く。
「私、ここのマンションに住んでるんですよ。祐輔も一緒です。今ちょうどレイカの歌を聴いてきた帰りなんですけど、まさか、レイカの弟である先輩に会うなんてびっくりです!」
「えっ、春山も姉貴の歌を聴いてきたのか」
「じゃあ先輩も? ……って言うか先輩、どうしてこのマンションの前でうろついてたんですか? 祐輔に用でも?」
「いや……。用があるのは孝太郎の方だ」
春山はハッとした。
「……もしかして、例のクラブの件? だったら、祐輔から聞いてます。先輩が、永江さんのやろうとしていることに猛反対してるって」
「ああ、そうだ」
俺が大袈裟にため息をついて腕を組むと、春山はマンションを見上げた。
「立ち話もなんですから、うちに来ます? 祐輔は仕事でいないんで、ゆっくり話せますよ」
彼女はそういうなり、専用キーでオートロックを解錠した。
*
さすがは元プロ野球選手の自宅マンション。上層階の部屋は、子育てを終えた夫婦二人で暮らすには充分すぎる広さだった。
「以前住んでいた都内のマンションよりずっと階層は低いけど、私たち、この近くのマンションで生まれ育ってるんで、見える景色が懐かしくて。よくベランダから外を眺めてるんですよ」
思いきって引っ越しを決めて正解でした、と言って春山は笑った。「コーヒーを淹れますから、ソファに座ってて下さい」というので、その通りにする。が、孝太郎と話すつもりでマンションを訪れた俺だ。落ち着くはずもなく、キッチンに向かった彼女に話しかける。
「春山はどう思ってんの? 旦那と孝太郎が始めようとしてるクラブのこと」
「そのことなんですけど……。実は私、あんまり乗り氣じゃないんです」
「えっ……。てっきり春山もクラブに携わってるものと思ってた」
俺が言うと彼女は一度口をつぐみ、コーヒードリッパーに目を落としてお湯を注ぎはじめた。
彼女が沈黙しているあいだに部屋の中を見回す。と、壁には彼女ら息子二人と娘がユニフォーム姿でにこやかに笑う写真が何枚もかかっていた。
当然と言えば当然だが、彼女らの三人の子どもは全員プロ野球選手として活躍している。長男の創太は昨年ベストナイン賞を、次男の圭二郎もゴールデングラブ賞を贈られるほどの実力者。また、末娘のあさみは女子プロでエースピッチャーをしており、今年は確かキャプテンも務めているはずだ。
娘が自分と同じ道を歩んでくれるなんて、俺には想像もできない。本郷のやつはうまくやったな、と思う。いや、同性の春山がうまいこと言ってやったのかもしれない。
あれこれ想像を巡らせていると、春山がコーヒーカップの載ったトレーを運んできた。
「私も一応、元球児ですから。子どもたちもプロ選手ですしね」
コーヒーカップをローテーブルに置いた彼女は、俺が見ていた写真に目を移した。
「正確に言うと、反対したんです。『みんながまんなか体操クラブ』のこと。だって、永江さんに憧れて野球を始めた人はたくさんいるし、直接指導されれば伸びる子だっているはずでしょう? プレイヤーでいられなくなったら野球人生を終えてもいいとさえ思っていた彼ですから、指導者には魅力を感じないのかもしれませんが、真のプロなら自分の技術や理論を後生に伝えるべきだと思うんです!」
春山の言葉に俺は激しく同意し、何度も首を縦に振った。まさか彼女が俺とまったく同じ考えを持っているとは。春山は続ける。
「……あの人、野上の姪っ子のめぐさんに一目惚れした辺りから変わっちゃったんです。死のうという氣持ちがなくなったところまではよかったんですが、野球人としての覇氣もなくなってしまって……。それだけじゃありません。以前は、何も出来ない彼の代わりに私が家のこともしていたんですが、最近はめぐさん宅に出入りしているせいで私の出番はなし。それも何だか寂しくて、言い方は悪いけど若い子に浮氣された氣分なんですよ」
俺は自分の考えが間違っていなかったと知って嬉しくなった。俺が思っていたことを春山が全部代弁してくれたのだから。
「それだけのことを思っているなら言えばいいじゃないか、孝太郎に」
「……以前なら聞いてもらえたかもしれませんね。だけど、今は無駄です。私より、めぐさん家族の言葉の方がずっと彼には響くみたいですから」
「そんなにすごいのか、野上の姪っ子ってのは」
言ってから、大津の店でめぐさんを見た瞬間に破顔した孝太郎のことを思い出した。あのときは驚きの方が勝っていたから氣づかなかったが、なるほど、冷静に考えてみればありゃあ恋する男の顔だったわけだ。
春山は俺の対面に座り、コーヒーをすすった。そしてため息を一つ吐いた。沈黙を埋めるように俺もコーヒーを飲む。その瞬間、あることを思いついた。
「……一緒にやらないか。野球人の育成を」
「えっ?」
「孝太郎の説得はあとだ。俺はいま感動している。春山が俺と同じ意見だってことに。……春山もやりたいんだろう? 野球人の育成を。さっきの話しぶりからひしひしと伝わってきたぜ」
「あー……」
彼女は恥ずかしそうにうつむいた。
「これは祐輔にも言ったことがないんですが……そうですね。やってみたいって氣持ちはずっと持ってます。仮にも子ども三人をプロ野球選手に育て上げてますから、私なりのやり方や知識は持ってるつもりです」
「だろうな。本人の努力や素質はもちろんだが、家族のサポートもプロの育成には大事な要素だ。それを春山が指導してくれれば鬼に金棒。すんげえ育成機関が出来上がるはずだ」
「わぁ……! 考えただけでわくわくしますね」
「だろう? 前向きに検討してみてくれないか?」
「はい。……って言うか私、やってみたいです。先輩と一緒に。いえ、やらせてください!」
「決断早えーな!」
「あはは……。私、やりたいと思ったことは全部やるって決めてるんです。先延ばしにすることで、できなくなっちゃうことや、伝えられなくなっちゃうことってあるじゃないですか。そう言うの、嫌なんです」
その言葉を聞いて思いだした。ずうっと昔、本郷と春山が付き合うきっかけを作ったのは、本郷がバッターの打球を頭に受けて倒れたときだった、と。幼なじみの二人は想い合っていたが、「死」が脳裏をよぎったとき、互いに氣持ちを伝えていなかったことを後悔したのだと、結婚披露宴で聞いた。
「よっしゃ! 俺も何だかやる氣がみなぎってきたぜ。俺の計画、聞いてくれる?」
「ぜひ聞かせて下さい!」
春山は目を輝かせ、前のめりになった。俺は本来の目的も忘れて温めていた計画を語り始めた。
8.<悠斗>
今日の孝太郎さんは機嫌がいいらしく、昼から一杯引っかけようとおれたち全員を自宅マンションに招待した。彼は、買い出しに行くと言ったニイニイを制し、冷蔵庫を開けるよう指示した。中にはビール瓶が何本も冷やしてあった。
「野上クンがいつ来てもいいように、これだけは準備してあるんだ」
「……やっぱりあの日のこと、根に持ってません?」
「僕は楽しく飲みたいだけなんだが……。そんなにビールかけを体験したいなら大津クンに頼んで店を貸し切りにしてもらおうか?」
「いいえ……! せっかくのビールがもったいないんで、やめときます……!」
二人の間で『あの日のこと』と言えば、ニイニイが孝太郎さんの目を覚まさせるために、酔った勢いでビールをぶっかけた出来事を指す。もう何年も前の話だし、孝太郎さん自身はまったく氣にしていない様子だが、ニイニイはビールと聞くとそのことを思い出すらしい。
ニイニイはビール瓶を取り出して栓を抜くと、食器棚から適当なグラスを出してつぎ始めた。それを見た翼が慣れた手つきでスマホから軽食のデリバリーを頼み始める。彼らに諸々のことを任せたおれは、まなと一緒にソファに腰を下ろした。
何度かここへ遊びに来ているまなは誰よりも落ち着いている様子だ。そのうちにソファから降りて室内を歩き始めたかと思うと、孝太郎さんがまなのためにと買ってくれたおもちゃのピアノで遊び始めた。
独身男性の家に幼児用のピアノが置いてあるなんて、事情を知らない人が見たらびっくりするに違いないが、それだけ孝太郎さんにとってまなの存在が特別であることを物語っている。まながピアノで遊び始めたのを知ると、孝太郎さんは満面の笑みを浮かべた。
「……そうだ、翼クン。一つ歌ってくれないか。麗華さんの歌を。どれでもいい。もう一度聴きたくなった」
彼の言葉に、まなを除く全員が目を丸くする。
「歌うのは構わないけど今日は俺、ギターを持ってきてないぜ?」
「ギターはないが、そこに……おもちゃだがピアノがある。それで弾き語りすればいいだろう?」
「マジかよっ……!」
翼は一度頭を抱えたが、うろうろしながらブツブツ言い、指を動かし始めた。やがて「じゃあ『ファミリー』で」と言うとおもちゃのピアノの前に座った。
翼は鍵盤の上で指を動かしながら、レイカに負けない美声で朗々と歌う。一同の視線が彼に集中し、部屋はつかの間コンサート会場と化した。
弾き語りを終えた翼は「こんなちっちゃなピアノで弾ける俺ってすごくね?」と自画自賛した。本人が言うまでもなく、おれたちは彼を褒め称えるべく拍手を送った。
すると突然、まなが不安げな表情をしてめぐにしがみつき、大声で泣きはじめた。
「あれ……。俺がピアノを取っちゃったからかな……。まな、ごめんよ。もう弾いていいよ」
翼は困惑しながらおもちゃのピアノを明け渡したが、まなが泣き止む様子はない。自分が抱っこして泣き止ませようと手を差し出すも、めぐに拒まれる。なぜ泣いているのか、めぐには分かっているようだ。翼はうなだれながらおれの隣に座った。
「こういう時、母親には敵わないなぁって思うよ。ああ、もどかしい……」
「しかたがないさ。多くの子どもにとって母親のそばは、世界中の誰よりも安心できる場所だからな。お前だって、めぐの隣が一番落ち着くだろう?」
「それ、そっくりそのまま返してやるよ」
やがて頼んでいた食事が届きランチタイムが始まると、まなも落ち着きを取り戻してサンドイッチを食べ始めた。酒が入り、氣分が良くなった大人たちは、そのうちにまなが泣いたことさえ忘れてしまっていた。
*
家に戻ると、まな自身もすっかりいつもの調子を取り戻し、笑顔になっていた。
「おかえり、まなちゃん」
留守番をしていたオバアと、その世話をしてくれた彰博に出迎えられる。二人は同じように目を細め、まなの相手をし始めた。
「留守番、ご苦労様。助かったよ」
彰博に礼を言ったおれは、家族の脇を抜けて自室に向かった。最近は、心臓の負担を避けるためにも時間があれば休むように心がけている。家族もそれが分かっているので、居間から去る姿を見ても引き留めることはない。
ところが、布団に寝転がると、少しだけ開いていたドアから誰かが入ってきた。まなだった。
「どうした、一緒に遊ぶか?」
横になったばかりだったが、起き上がってまなを呼ぶ。まなは笑顔でおれの胸に飛び込んできた。
「おとーたん。だいちゅき!」
「…………!」
あまりにも突然のことに声を失った。おれは夢を見ているのだろうか……。それとも酔っているだけなのか……。一度、自分の頬を叩く。それから目の前にいる子の瞳をのぞき込む。
「まな、今、おれのこと……?」
「おとーたん。まなたん、わかる?」
夢でも幻でもない。確かにまなは「お父さん」と言った。のぞき返す瞳の奥に写るおれが、どういうわけか実年齢より若く見える。
「ああ……。分かるよ……。まなは……ここにいるのは間違いなくおれの娘の愛菜だ。そう言いたいんだろう?」
「ん!」
返事をしたまなは、おれの言葉のすべてを理解しているようだった。
「……ってことは、まなには記憶があるのか。過去の、おれとの記憶が……?」
にわかには信じられなかった。再びこの世に生を受けるときは過去の記憶がリセットされてしまう、と愛菜自身から聞いていたからだ。しかし過去の記憶を持ったまま生まれてきたのが事実なら、神様も粋な計らいをしてくれたものだ。
「……愛菜はおれとの思い出を作りに来たのか? それとも野上まなとして生き直そうとしているのか?」
まなは首をかしげただけだった。それよりも遊ぼう、と言いたげな様子で服の裾をつかみ、部屋の外に引っ張り出そうする。
過去の記憶を持っているらしいまな。しかしそうと分かったあとであっても、目の前にいる子どもを亡き娘としてみることができなかった。おれを遊びに誘っているこの子は紛れもなく翼とめぐの子、二歳になったばかりの「野上まな」なのだ。そしておれは、その野上まなのもう一人の父親として二年間生きてきたのだ。
亡き娘とこの世で再会できたらさぞかし嬉しい氣持ちになるんだろうと思っていた。なのに、この胸のざわめきはなんだ……? この落ち着かない感じはなんだ……?
戸惑うおれを余所に、まなは必死に遊びに誘う。
「よぉーし。鬼ごっこしよう。お父さんが鬼だ。行くぞー、待てー!」
おれは出来るだけ明るい声で、笑顔を作って鬼を演じた。混乱の渦に飲み込まれないように。
9.<めぐ>
まなと鬼ごっこをしていた悠くんは、廊下を二往復したところで翼くんと交代した。途中からはパパこと「アキ爺」も加わり、賑やかな鬼ごっこが続いている。
「……どうやらまなは、亡き娘の生まれ変わりらしい」
私の隣に腰を下ろした悠くんが、賑やかな声にかぶせるように言った。反射的に声を発しかけたが、唇に人差し指を当てられたので、急く氣持ちをぐっと抑えつける。
「……もしかして、何かしゃべったの?」
なんとか冷静さを保ったまま小声で言うと、悠くんもささやくように耳打ちする。
「さっきおれの部屋で『おとーさん、だいすき』って言ったんだ。それだけじゃない。まなは数少ない言葉を駆使して、自分がおれの娘の愛菜だってことを伝えようとしているみたいだった」
「……じゃあやっぱり、木乃香が言ってたことは本当だったんだ」
先日彼女が、もうすぐ話せるようになると神様が言っている、と神社の神木の前で言っていたのを思い出す。
翼くんがレイカの曲を弾いたあのときも、何かを訴えたくて泣いているんだろうと思ったが、やはり……。
「よかったね、悠くん。愛菜ちゃんとの再会が叶って」
娘の中に前世の記憶が残っていると聞いてちょっと複雑な氣持ちにはなったものの、それを望んでいた悠くんにとっては朗報だろうと思ってそう言った。
「ああ……」
が、彼の反応はいまいちだった。
「……嬉しくないの?」
「もちろん嬉しいよ。……なぁ、あとで春日部神社に行かないか? しゃべったことを神様に報告しておきたいんだ」
そう言った言葉に力はなかった。が、わたし自身も神様にはお礼が言いたいと思っていたので同意する。木乃香の言うようにまなが神様の申し子なら、今度はもっとはっきりとした変化が見られるかもしれないとの思いも少なからずあった。
「何をこそこそ話し合ってんだよ。俺をのけ者にするなんて百年早いぜ?」
ささやきあっていると、まなを捕まえたらしい翼くんがやってきた。彼は大あくびするまなの背中をトントン叩き、昼寝に導いている。
「……まなが悠くんのことを『おとーさん』って呼んだって」
わたしが耳打ちをすると、彼は「……そっか。悠斗には、しゃべったのか……」と、言って複雑な表情を浮かべた。
「あとで春日部神社にお礼参りに行こうと思ってるんだけど、翼くんも行く?」
「もちろん、行くさ。まなが急にしゃべったのが神様の仕業なら、ちゃんと礼は言っとかないとな」
「神様の仕業、か……」
ぽつりと呟いた悠くんの表情は物憂げだった。
*
日が傾くのを待って、わたしたち四人は春日部神社に赴いた。夕日を浴びる新緑が目にまぶしい。オレンジ色の木漏れ日がまるで神の降臨を物語っているようにも見えた。
本殿に向かうと、神社の宮司である木乃香のお母さんが立っていて、わたしたちを見るなり会釈した。
「お待ちしておりました」
誰も驚かなかった。以前にも、わたしたちがここに来ると事前に知っていたことがあったからだ。神様からの知らせを受けてのことなら、なぜ訪れたのかも知っているのかもしれない。
「娘さんのことですね? とうとう言葉を発したのでしょう?」
案の定、木乃香のお母さんは事情を知っていた。
「はい。それもこれも神社の神様のおかげです。ありがとうございました」
先日、木乃香とここへ来た際の出来事を頭に思い浮かべながら言ったわたしに対し、木乃香のお母さんは首を横に振る。
「いいえ。ご神木さまは決まっていた未来を伝えただけです。実際に言葉を発するに至ったのは、その子自身が強く願ったがゆえのこと」
木乃香のお母さんはわたしに歩み寄ると、腕に抱くまなの頭にそっと手を載せた。そして何かを受信するかのように目をつぶる。木乃香のお母さんは、しばらくそうしたあとで再び口を開く。
「……鈴宮さんの命を救った魂は、再び父親と話すことを強く望んでいるようです。しかし、本来ならば消えてしまうはずの記憶を残して欲しいと神に頼み、対価として言葉を封じられていたようですね。……鈴宮さんの命を救った魂は問いかけています。このまま、たどたどしい発話しかできなくても過去の記憶を残すことを願うか、過去の記憶を失う代わりに他の子と同様に話せるようになることを望むか……」
「それは本当に愛菜が……おれの亡き娘が望んでいることなんでしょうか……? おれがそのどちらかを選ばなければいけないんでしょうか……?」
悠くんは不安げに言った。木乃香のお母さんは優しく声をかける。
「時間がかかってもいい。どちらを選んでもあなたの決定に従うと、この子は言っています」
「…………」
「大変な重責を負ったと思われるかもしれませんね。ですが、亡くなった娘さんに会ったら何を話したいと思っていたのか、もう一度よく考えてみてください。答えはそこにあるはずです」
悠くんは答えなかった。わたしも翼くんも文字通り言葉を失った。ただのお礼参りのつもりが思いがけない方向に話が進んでしまったことに、わたしたち全員が戸惑っている。
――愛菜ちゃんとの再会を待ち望んでいた悠くんだもの。遠慮などせず、亡き娘さんとの思い出を語り合えばいいじゃない!
善人ぶったことを言う自分がいる一方、別のわたしは冷静な口調で言う。
――悠くんは、今はこの子のもう一人の父親でしょ? だったら、この子の未来のためにも過去にすがるのはやめて、現実を見て。
翼くんの意見はきっと後者だろう。わたしの本音も一緒だ。が、即決できないらしい悠くんを前にして、自分の考えを伝える氣にはなれなかった。黙するわたしたちに木乃香のお母さんが言う。
「焦る必要はありません。時が満ちれば、自ずと最善の道へと導かれるはずです。それでも、不安になったり迷ったりしたときはここを訪れて下さい。私はいつでもあなた方を待っています」
10.<翼>
まなが悠斗の亡き娘さんの生まれ変わりだったらいいな、と思いつつも、やっぱりまなは俺とめぐちゃんの遺伝子を持つ唯一無二の存在なのだと、心のどこかで確信してもいた。だから実際、不思議な因果によってそれが現実に起きたのだと聞かされて困惑しないはずがなかった。
だけどそれは悠斗も同じらしいと知って余計に戸惑っている。三人の中で彼が一番それを望んでいたはずなのに、今の彼はまるで俺と出会って間もない頃のような青白い顔をしているからだ。高野さんに言われたことが余程ショックだったのだろうか。
世の中には知らない方が幸せなこともあると言うが、今回はそれを実感している。三人とも、だ。無邪氣なまなのように、目の前の出来事を素直に喜べたらどれほど幸せだったろうか……。
家に帰る道すがら、おとーたん、おとーたんと言いながら歩くまなとは対照的に、ひと言も発しない俺たち。まるで立場が逆転したみたいだった。
*
「三人してどうしたの? 神社に行ってきたにしては、ずいぶん暗い顔をしているようだけど……」
できるだけ明るい顔で家に帰ろうと示し合わせたにもかかわらず、祖母と留守番をしていたアキ兄は俺たちの異変に氣づいてしまったようだ。しかし、どう説明していいかも分からずに俺たちは黙りこくった。
悠斗の亡き娘、愛菜ちゃんを巡る諸々の話は三人だけの秘密にしてある。俺自身は、ことのすべてを打ち明けても構わないと思っているが、仮に一から話すとなれば膨大な時間が必要になるだろう。
「いや、なんでもない。……ちょっと疲れただけだ。悪い、部屋で休ませてもらうよ」
当の悠斗は説明を避け、逃げるように自室にこもってしまった。めぐちゃんも氣まずい空氣に耐えられなくなったのか「まな、おむつ替えよう」といって部屋を出て行った。
「……ま、とにかく食事の支度だ。腹が減っては戦はできぬって言うしな」
せめて俺だけは普段通りを心がけようと、台所へ向かいかける。そのとき、アキ兄に呼び止められた。
「翼くんの耳に入れておきたいことがある。おばあちゃんのことで」
「えっ、なになに……?」
深刻そうなアキ兄の顔を見て嫌な予感がした。不安を悟られないように返事をしたつもりだったが、声に表れていたのか、彼は小さく頷いた。
「……おばあちゃんの食欲が失せている。いろいろ工夫したけど食べたくないらしい。普段のおしゃべりも今日は控えめだった。……ここ最近の様子はどうだったか、教えてもらえるかな」
「…………」
言われてみれば、ここ数日の食事は普段よりも少ない量で満足しているようだった。とはいえ元氣そうに見えていたし、あまり氣にしていなかったのだが……。
そのことを告げるとアキ兄は腕を組んで唸った。
「……お医者さんに診てもらおう。僕らでは正しい判断ができない」
「それって……」
死、と言う言葉がよぎる。だがアキ兄は明言を避けるように「今はまだ答えを出す時じゃない」と厳しい顔つきで言うだけだった。
「めぐちゃんや悠斗には……?」
別室にいる彼らにも伝えるべきかどうか打診する。
「二人はおばあちゃんのこととなると感傷的になりやすい。やはり医者に診せてから伝えた方がいいと思う」
アキ兄は表情を崩さずに言った。
「仕事の調整がつきそうなら、連休明けにでも病院に連れて行くよ。休めなければ兄貴に頼んでみる。翼くんたちは、詳しいことが分かるまでは普段通りの生活を。おばあちゃんの食事については本人に聞きながら用意してあげて」
「分かった……」
「……今日は自宅に戻るつもりだったけど、泊まっていこうかな。君たちも君たちで何やら問題を抱えているようだし、僕が残った方が何かと都合が良さそうだ」
アキ兄はそういうと、俺の返事も待たずに自宅に電話をかけ始めた。そこへめぐちゃんがまなと一緒に戻ってきた。
「……アキ兄、今日は泊まってくって。俺たちのことが心配らしい」
俺は慎重に言葉を選んで伝えた。めぐちゃんは表情を曇らせる。
「……パパにまなのこと、話したの?」
「まなのことは関係ない。そうじゃなくて……悠斗の様子からマズい空氣を察したみたいだ。悠斗は介護の頑張りすぎで倒れたことがあるし、アキ兄なりに氣を遣ってくれてるんだと思う」
「なるほど……。悠くん、大丈夫かなぁ……」
「心配は心配だけど、こればっかりは悠斗の問題だ。俺たちは見守るしかないよ」
うわさ話をしても彼が部屋から出てくる氣配はない。家に着くまでずっと「おとーたん」と繰り返していたまなも、帰宅後からは口をつぐんだっきり。まるで、悠斗の前でしか話さないぞ、と決めているかのようだ。
俺はきょとんとしているまなの目をのぞき込み、心の内で言う。
(まな……。前世での父親が悠斗なのは分かる。だからって、悠斗の決定ならどんなことでも受け容れる、でいいのかよ……? それ以前に今のお前の親は俺たちだぜ? 俺たちの氣持ちは全無視って、あんまりじゃねえの?)
我が子とはいえ、また幼子とはいえ、少し腹が立った。いや、腹を立てるべきは「まな」ではなく「愛菜ちゃん」だってことは分かってる。悠斗の氣持ちを考えると一方的に怒れないことも……。俺は行き場のない怒りに堪えるしかなかった。
11.<孝太郎>
インターフォンが鳴った。先に帰った三人が忘れ物でも取りに戻ってきたのかと思い、軽い氣持ちで玄関ドアを開けると、そこに立っていたのは厳つい顔をした庸平と春山クンだった。
なぜ二人が一緒に……? 混乱していると庸平は「邪魔するぜ」と言って勝手に上がった。春山クンも、意味ありげな視線を向けて僕の横を通り抜ける。
「げげっ、水沢先輩! え、春山も?!」
リビングのソファで飲み直す準備をしていた野上クンは、二人の姿を見るや驚きの声を上げた。が、すぐに状況を理解したのか、立ち上がって春山クンを睨み付ける。
「これは一体どういうことだよ? ちゃんと説明してくれ」
「説明も何も……。私は水沢先輩の考えに賛同したからここへ来た。それだけのことよ」
「あれっきり何も言ってこないから、てっきり分かってくれたもんだと……」
「私は持論を曲げるつもりなんてない。勝手に同意したと思っていたなら、おあいにく様ね」
「…………!」
野上クンは怒りに震える拳の行き場を探しているようだった。もし相手が彼女じゃなく庸平だったら、酔った勢いに任せて拳を突き出していたかもしれない。
「君は下がれ。僕が引き受ける。けが人は出したくない」
僕は彼らの間に入り、やってきた二人と正対した。
「話し合いになら応じる」
「端からそのつもりだ。こっちだって出来れば喧嘩はしたくねえ」
「それは助かるな。……で、用向きは?」
話を促すと、庸平は僕を睨み付けて言う。
「無論、お前の馬鹿げた計画を止めに来た。レイカの歌を聴けば少しは野球をしていた頃の氣持ちを思い出すんじゃねえかと期待したが、その考えは甘かったようだ」
「やはりいたのか、あの会場に。確かに麗華さんの歌はよかったし、感動もした。が、それだけだ。僕の考えは微塵も揺らがない」
「ちっ……」
「君の言葉から察するに、麗華さんにあの三曲を歌わせたのは君なんだな……。僕を説き伏せるために……?」
「ああ、そうだ」
「なぜ、そこまでして……?」
「それがお前のためだからだよ!」
「それがあなたのためだからです!」
僕の問いに二人は同時に答えた。
「おう、春山。言ってやれ!」
庸平が指示すると、彼女は一歩僕に近づき、思いを吐き出し始める。
「なぜ私がこんなことを言うか、分かります……? 尊敬しているからです。憧れているからです。私だけじゃない、祐輔も、子どもたちも、水沢先輩も、野球人・永江孝太郎が好きなんです」
「春山クン……」
「私、誇りに思ってたんです。誰もが憧れる永江孝太郎のそばにいられることを。身の回りの世話をさせてもらえることを。そして何より、子どもたちの野球の手本となってくれたことに感謝しているんです。子どもがプロの世界で活躍しているのは永江さんのお陰だと言っても過言ではありません。……私はその指導力を未来の野球少年少女たちにも発揮して欲しいと思っています。せっかく能力があるのに、埋もれさせてしまうなんてもったいなさ過ぎます! クラブのこと、どうか考え直してください。お願いします」
彼女は深々と頭を下げた。
「これで分かったろ、孝太郎。お前の才能を活かして欲しいと願う人間は俺だけじゃないってことが。……惚れちまったのかもしれねえが、一人二人のおんな子どものために残りの人生を捧げるなんて馬鹿げてる。器の大きい人間は、最後の最後までそれに見合った生き方をするべきなんだよ!」
庸平はそういうなり、床に置いてあったおもちゃのピアノを足蹴にした。その瞬間、僕の中で何かのスイッチが押され、氣づけば庸平の胸ぐらを掴んでいた。
「僕のことを否定するのは構わない。が、僕の大切な人たちを傷つけるような発言や行動には我慢がならない。今すぐ訂正しろ、今すぐに……!」
「そう、その目だよ、孝太郎。その闘志に満ちた目つき。絶対に許すもんかと食ってかかる、血氣あふれる態度。今のお前からこぼれ落ちてしまった戦う氣力を呼び戻せ!」
なるほど、庸平が挑発してきたのはそのためか。彼の意図が分かったら途端に怒りが収まった。一呼吸置き、冷静になる。
「君は僕に、一生冷血な戦闘マシーンでいろ、と……? それが僕に課せられた使命だとでも言うつもりか……?」
「そんなことは言ってない。俺たちはただ、お前がこれまでの野球人生で培ってきた精神や技術を後輩たちに伝えてほしいだけだ。なぜそれが分からない?」
「逆に問う。なぜ僕でなければならないんだ? 技術の継承が目的なら庸平にだって出来るはずだろう? なぜ僕に固執する?」
「お前がプロの世界で長く活躍してきたからに決まってるだろう! 熾烈なレギュラー争いで競り勝つ選手を育成できるのは他でもない、元プロ野球選手であるお前だけだ」
「……君は分かっていない。野球という、たった一本の綱にしがみつく生き方しか知らない人間にのしかかる恐怖がどれほどのものかを。……最近、氣づいたことがある。いつ死んでもいいと言っていたのは、野球人生を走りきったからだけではない。それ以上に、精神的に追い詰められていたからだった、とね。……プレッシャーをはねのけ、一番を目指し続けることは己を成長させるかもしれない。だが、生身の人間である以上、それを続けようとすればいつか身体が悲鳴を上げ、不本意ながら死ぬことになる。僕はそういう人間を量産する仕事に就きたくはない」
「だったらその精神を子どもたちに伝えればいいじゃないか」
「そう、それを伝えるために発足させたいのが『みんながまんなか体操クラブ』だ」
「うっ……!」
「庸平。野球にこだわるな。僕らの精神は、野球というスポーツに依存しなくても伝えられる」
「や、野球にどっぷり浸かってたお前がそんなことを言ったってなんの説得力もねえよ!」
庸平は意地でも僕の考えを拒むつもりのようだ。このままでは平行線のまま。無駄な時間を過ごすだけだ。
「野上クン。悪いが庸平を説き伏せてくれないか。やり方は君に任せる」
「えっ、おれ……?」
急に選手交代を告げられた彼は目を丸くした。が、すぐに「しょうがないなぁ」といって庸平の前に立った。
「……振り向かせたいのは分かります。だけど、この人はもうかつての永江孝太郎じゃない。何を言っても無駄だと思いますよ」
庸平は眉をつり上げた。野上クンは続ける。
「……そりゃあ、おれだって最初は受け容れられませんでしたよ。変わっていく彼のことも、クラブのことも。だけど、彼に生きて欲しいと願ったのは他でもない、おれ自身だし、彼が新しい人生を歩み出そうと決意したなら応援するのが筋だろうと思い直しましてね」
「……どうしてそう、あっさり割り切れるんだよ? 仮にもお前は孝太郎からキャプテンを引き継いだ男。生粋の球児じゃねえのかよ?」
「キャプテン時代の苦い経験があればこそ、です」
「…………?」
「あのときのおれは何もかもを一人で背負いすぎていました。誰にも相談せず、一人で悩んでは失敗し、また悩み……を繰り返していた。そんなおれに、弟が言ったんです。今の兄貴は、仲間がいるのに自分一人で何とかしようと動き回るキングのようだ。全体を見ればもっといい策はあるんじゃないのか、と。……野球のやの字も知らない弟ですが、チェスを例にして、おれの視野が狭くなっていることに氣づかせてくれたんです。それからですよ、何かに行き詰まったとき高い視点から物事を見る癖がついたのは」
「…………」
「だまされたと思って一度、野球の外に目を向けてみてください。目指しているものが同じだと氣づくはずですから。……彼が生きることを望んでいるなら応援してください、新たな門出を。せめてそっと見守ってください。お願いします」
「…………」
「見事。さすが、僕が見込んだ男だ」
庸平を閉口させた野上クンの弁舌に思わず拍手を送った。そうだ。僕にも彼にも、キャプテンを任されたからには結果を残そうと一人もがき苦しんだ時期がある。そしてそこから多くを学び、それを下地にして人生を積み重ねてきたのだ。こうした経験が活かされる場面はそう多くないが、無駄になることは絶対にない。そのことを野上クンは見事に言語化してくれた。
「ちょっと、先輩! 言われっぱなしでいいんですか?!」
ここまで黙って聞いていた春山クンがしびれを切らすように言った。反論できない庸平に代わり、今度は彼女がまくし立てる。
「分かってないのは永江さんの方です。球界を引退したってあなたの過去の偉業が消えることはないし、その名を告げれば大抵の人は動く。そのくらい、あなたは今も影響力を持っているんです。つまり、そのあなたが野球人育成のために指導力を発揮すると言えば多くの若者が集まり、優れた選手が育ち、やがては球界の発展に繋がるってことです。あなたの大好きな野球に恩返しが出来るってことです!」
まっすぐに僕を見据える彼女の目には闘志がみなぎっていた。それはかつて一緒に甲子園を目指したときに見た、夢を追いかけているときの目に似ていた。
「……君は叶えようとしているのか。これまでの人生で成し遂げられなかった夢を。僕の名を利用することで」
「……利用。ずいぶんな言い方ですね」
「否定しないと言うことは、事実なんだろう?」
「……私は祐輔を応援することで野球と関わる道を選びました。その中で、幼い子どもたちに野球を教える楽しさを知ったんです。子どもが成長してからも、いつの日にか優れた野球選手の育成が出来たらと夢見ていました。あわよくば祐輔や永江さんと出来たらって……」
「僕を頼ってくれるのは有り難いが、そういうことなら夫である本郷クンに頼めばいい。彼だって僕と同じか、それ以上に名の知れた人物なのだから」
思ったことを伝えただけなのに、彼女は急にむくれた。
「そ、そういうことじゃありませんっ……! 相変わらず女心が分からないんだからっ……!」
「お、女心……?」
戸惑っていると、彼女は唇を噛みしめ部屋を飛び出してしまった。庸平は決まりが悪そうに、僕と春山クンが出て行った玄関とに目をやったが「今日はここまでだ」というと彼女の後を追った。
12.<庸平>
春山は玄関を出てすぐのところで立ち尽くしていた。泣いているなら声をかけない方がいいかもしれない……と思ったが、「女心が分からない」と言い放った彼女の言葉が耳に残っていた。少し離れたところから「大丈夫か?」と声をかけると、彼女は俺に聞こえるようにため息をついた。
「ばっかみたい……。あの人に察してもらえるはずもないのに……」
「あいつは、人の氣持ちなんてこれっぽっちも理解できない男だからな」
俺が言うと、彼女は再びため息をついた。
「……もう一度ユニフォームを着て欲しいだけなんだけどな。……どう言えば私の思いが伝わるんだろう?」
「……今の言葉を伝えればよかったんじゃねえの?」
「……あはは。そうですよね」
彼女はちょっと恥ずかしそうに笑った。
「水沢先輩も見たいですよね? ユニフォーム姿で指揮を執る永江さんを。絶対格好いいですよね?」
「ああ。俺を含め、あいつのファンはみんなそれを望んでるはずだ」
「ですよねっ!」
彼女は一瞬はしゃぐような仕草を見せたが、すぐに目を落とした。
「……だけど、彼にとって野球を続けることは、生きることであると同時に命を縮めることでもあった、と……。正直、さっきの発言はショックでした……。彼の心の支えになりきれなかった自分に対しても憤りを感じています。……先輩。私たちのやろうとしていることは間違っているんでしょうか……。真に彼のことを思うなら野上の言うとおり、野球から離れる彼をあたたかく見守るべきなんでしょうか……」
「どうだろうな……」
曖昧な返事をしたものの、心は激しく揺れ動いていた。孝太郎のためだといいながら、その実、自分のために成し得たいだけなのでは……? そのために孝太郎を利用し、せっかく生きようと決めたあいつを再び死の淵に追いやろうとしているのでは……? 春山の問いは、そのまま俺の問いでもあった。
俺はなんとか無い知恵を絞り、提案する。
「今考えられる案は二つだ。ひとつは、なんとしても孝太郎を説得して野球界に引き戻す案。その場合、孝太郎の寿命を縮める責任を負う覚悟も必要になるだろう。二つ目は、孝太郎の説得を諦めて俺たちの計画を進める案だ。たぶんこっちの方が現実的だし、うまくもいくだろうが、ユニフォーム姿の孝太郎を見る機会は永久に失われるだろう」
「そっか。永江さんの野球界復活と、元プロによる野球人育成機関の設立と……。私たち、二つの思いを一緒にしちゃってたんですね。でも、分けることは出来る、と……」
「要は何を選び取るか、だ」
腕を組み、真面目に言ったつもりだったが、なぜか春山はくすりと笑った。
「……何がおかしいんだよ?」
「すみません……。本当に永江さんのことが好きなんだなぁって思ったら、笑いが込み上げてしまって……」
「え?」
「だって今の案、どっちも永江さんが絡んでるじゃないですか」
言われてみれば確かにそうだ。俺は言葉に窮する。
「だったらもう、答えは出てるようなもんですよ。……永江さんのことを思うならやっぱり……」
春山はそう言うと、もう一度笑った。
「……先輩。私、いいことを思いついちゃいました」
「いいこと……?」
「はい。今先輩が出してくれた二つの案を両方とも実現させる方法を!」
「両方実現させる……? どうやって……?」
「……場所を変えましょう。その間にちょっと考えてみてくださいよ。分けて考える、がヒントです」
春山は、戸惑う俺の姿を楽しむように言い渋った。
*
エレベーターで階下に降り、俺たちは再び街に繰り出した。マンションから歩くこと十分。小さな公園内で足を止めた彼女は、木の下のベンチに腰を下ろした。
「……どうです? 私の考えが分かりましたか?」
「いいや、お手上げだ。答えを教えてくれ」
諸手を挙げると、彼女はにやりと笑って胸を反らした。
「まずは、永江さん抜きで野球人育成機関を作るんです。やっぱりそれが現実的です」
「えっ? 孝太郎抜きで?」
あっさりそう言われ、拍子抜けする。
「だけど、それじゃあ孝太郎のユニフォーム姿は見られないぜ?」
「はい。そこで提案するのが、永江孝太郎ファンクラブの設立です!」
「ファンクラブ……!?」
思いも寄らない発案に、驚きと戸惑い、そして興奮を抑えきれなかった。思わず辺りを見回す。が、幸いなことに公園には誰もいない。春山は俺の反応も予想した上でここへ連れてきたのかもしれない。その証拠に彼女は浮つく俺を嬉しそうに見ている。
「先輩、今、ワクワクしてるでしょ」
「いやぁ……。まさかそう来るとは思ってなかったから……。だけど、ありだなと思ってな」
「でしょう? なにせ私たち、永江さんのファンですもんね!」
「……しかし、問題は当人が首を縦に振るかどうかだな。あいつがキャーキャー言われるのを受け容れるとは思えない」
「選手時代は、それも仕事のうちと割り切っていたようですが……。それについてはもう少し考えてみる必要がありそうですね」
二人の間で盛り上がってるだけ、といえばそうだ。が、どういうわけか孝太郎宅へ乗り込んだときよりもずっと氣分が良かった。
誰もいなかった公園に、ひと組の親子がやってきた。父親らしき男性と、姉妹らしき女の子二人がグローブを携え、三人で輪になるように間隔を取る。父親がボールを放る。と、年長の女の子が先にキャッチして投げ返した。続けて転がすように投げると今度は年少の子がそれを拾いに行った。
そんな親子の様子を春山は微笑みながら見ている。
「……実はこの公園、私と祐輔が幼い頃によく遊んでいた場所なんです。あの親子のように、父と姉と私の三人でキャッチボールをしていた時期もあったっけ……」
「へぇ、お姉さんも野球の手ほどきを受けていたんだ?」
「姉は一緒に野球をやる友だちがいないのを理由にすぐ辞めちゃいましたけどね……。私が続けられたのは祐輔がそばで励ましてくれたから。運がよかったなって思ってます」
「なるほど。つまり野球が好きだからって言うより、本郷が一緒だったから続けられた、ってことか」
「そうかもしれません。……もっとも、楽しくやれたのは中学までで、高校ではすぐに根を上げてしまいましたが……。さすがに男子の中でプレイし続けるのは体力的にキツかったですね」
「一度は辞めたかもしれないけど、ちゃんと戻ってきたじゃん。よくやってたよ春山は」
「本当ですか? だとしたらきっと『祐輔効果』ですよ」
何度も飛び出す「祐輔」の名に、今度はこっちがニヤついてしまう。子供もとうに独立し彼女だっていい年になったというのに、夫のことをこんなにも立てられるなんて。
「本郷のことが本当に好きなんだな、春山は。あいつが羨ましいぜ」
「あはは……。実は私、祐輔のファンでもあるので」
それを聞いて腑に落ちる。なるほど。だから本郷は今でもユニフォームを着続けているんだ。自身のファンである妻の期待に応えるために。
「……あれ? だけどいいのかよ? 確か本郷は孝太郎と一緒にクラブ運営をしようとしてたよな? 春山が野球人育成機関を設立しようって話になったら二人は対立することに……」
あまりのおしどり夫婦っぷりに感心してしまったが、よく考えてみたらこれって夫婦仲にヒビを入れかねない状況になってないか……? しかし春山は動じることなく「ここまで話を進めちゃったら覚悟を決めますよ」と明るい声で言った。
「今夜にでもきちんと話し合ってみます。だけど、一人じゃ論破できないかも。……あの、出来れば一緒に話してもらえませんか? 先輩がいてくれればさっきみたいに言える氣がします」
「そりゃあ構わないけど……。俺と話したのがきっかけで喧嘩になって離婚した……なんてことになるのは勘弁だからな?」
「やだなぁ、それはないですって。私たち、何年一緒に暮らしてきたと思ってるんです?」
春山はそう言って、心配する俺を笑い飛ばした。
「あ、そうだ。もし時間があるなら一緒にラジオ聞きません? 今日のデーゲームは祐輔が解説してるんですよ」
スマホを取り出した彼女は、ラジオアプリを起動して野球中継を聴き始めた。ニコニコしながら聴く様子を見るかぎり、二人の夫婦仲にヒビが入ることはなさそうだ。安心した俺はラジオの声に耳を傾けた。
13.<悠斗>
ずっと夢に見てきた。愛するまなにお父さんと呼ばれる日を。そう、それは夢。だから、焦がれつつも心のどこかでは叶わないものと思い込んでいたし、思い出を大切にしまっておくような心持ちでもいたのだ。なのに……。
(どうして……おれにだけ語りかけたんだよ……。どうしておれにお前の人生を託すんだよ……)
考えた末にたどり着いたのは、胎児だった愛菜がその命と引き換えにおれを救ってくれた代償だ、と言うことだ。
愛菜は自分の意志でおれを生かした。だから次はおれの意志でまなの生き方を決めろ。そう言われているとしか思えなかった。
宮司の高野さんは、時が満ちれば最善の道に導かれると言った。それは、いつかおれの氣持ちが固まるときが訪れるという意味か。あるいは、おれやまなの意思に関係なく、時の経過が問題を解決するという意味か……。
あれこれ考えてはみるものの、どれも憶測の域を出ない。考え疲れたおれは苦々しい思いを抱いたまま布団に寝転んだ。
(どうしてこんなことになったんだ……。神様は毎度、おれを振り回してくれる……)
氣分が悪い。このまま少し眠ってしまおうか……。そんなことを考えていたとき、部屋の戸を叩く音が聞こえた。
またしてもまなが……? 一瞬ドキリとしたが、直後に「悠斗君、入ってもいいかしら?」と声がした。どうやらオバアのようだ。
珍しいこともあるもんだ。おれは「今、開けます」と言って起き上がり、戸を開けた。オバアだけかと思いきや、留守番という役を終えて帰ったはずの彰博が付き添っていたので面食らう。
「……お前、帰らなくていいのかよ? 映璃が待ってるんじゃ……?」
「君のことが氣がかりでね。今夜は泊まっていくことにしたんだ。エリーにはもう伝えてあるし、翼くんたちにも了解してもらっている」
「……おれなら大丈夫だよ」
「……そんな思い詰めた顔でよく言うよ。とにかく、今日はそうするって決めたから」
「……そうか」
無駄な抵抗はやめようと決め、素直に彰博の氣持ちを受け容れる。ほっとした様子の彰博は、ここでようやくおれの部屋にやってきた用向きを伝える。
「ところで、母がどうしても今、君と話したいと言ってるんだけど、体調はどう?」
「今……?」
「母も悠のことが心配らしいんだ。もっとも、長話になって君を疲れさせるといけないから、僕も同席するという条件付きで訪ねてきた訳なんだけど」
「大丈夫よね、悠斗君?」
氣遣う彰博の言葉などお構いなしといった様子で、オバアはおれの手を両手で包み込んだ。
その手は数年前、オジイの葬儀後に握ってくれたのと同じ温かさを持っていた。が、そのときよりも幾分力なく感じるのは氣のせいだろうか……。
「大丈夫。オバアの話なら喜んで聞きましょう」
おれが返事をするとオバアは「よかったわ」と言って笑顔を見せた。おれは今し方寝転んでいた布団を片付け、車椅子が入れるだけのスペースを確保した。
「狭いですけど」
「話が出来れば充分よ」
「あの……。それで、話ってのは?」
改まって聞くと、オバアは「元氣を出しなさい」と言って、正座するおれの肩に手を置いた。
「あなたはこうして生きてるんだもの。心を許せる家族に囲まれているんだもの。だったら笑っていなさい。たくさん食べておしゃべりして、毎日をしっかり生きなさい」
なぜ急にそんなことを……? 戸惑っていると、どこからともなく風が吹き込んできた。いや、風のように感じられたものの正体は魂の姿のオジイだった。オジイがオバアの肩にそっと手を載せる。と、それに氣づいたかのようにオバアも自身の肩に手をやった。
「もしかして、オバアにはオジイの姿が見えてる……? ってことは……」
ここでようやくオバアの言葉の真意を知る。目が合うと、二人は同時に頷いた。
「そんな……。待ってくださいよ。オジイ、迎えに来るにはまだ早いでしょう……!」
「えっ、この部屋に父さんが……?」
彰博も動揺して室内を見回す。
「……母さんはもう、死者の世界に足を踏み入れてるって言うの? そのままあっちの世界に行こうって言うの?」
「おじいさんがわざわざ姿を見せてまで迎えに来てくれたんだもの。これ以上待たせちゃ悪いじゃない?」
「オジイのために自らの意志で死出の旅路に向かおうと……。そういうことなんですか」
「自分の意志というより、受け容れるといった方が正しいかしらね。迎えに来たおじいさんの手を取る。そして導かれる。自然な形で」
そのとき、おれの母親が病床で愛菜の迎えをすんなり受け容れ、旅立った場面を思い出した。オバアは続ける。
「わたしはおじいさんのいる世界に旅立つだけ。すぐには会えない場所に行っちゃうけど、いつでも遊びに来ることは出来る。だから何も悲しむことなんてないのよ。……彰博、こっちへ」
オバアに言われ、やつはオバアの正面に回ってしゃがみ込んだ。
「彰博。いろいろと氣を遣ってくれてありがとうね。人生の最後にこの家でおしゃべりな孫たちと一緒に暮らせて毎日が本当に楽しかったわ。あなたがわたしのわがままを聞いてくれたことに感謝してる」
「……それは、悠たちに言ってよ」
「もちろん言うけれど、あなたは無口な子だから、いろいろと我慢させたんじゃないかって。もし言いたいことがあるなら最後に言ってしまいなさい。今なら何でも聞いてあげるから」
「…………!」
彰博はうつむいたかと思うと、珍しく感情を顕わにする。
「あるよ、たくさん……! 子どもの頃からずっと、言いたいことは山ほどあった……! だけど僕は兄貴と違って勉強もスポーツも出来ない。得意なことと言えばチェスだけ。なのに……。なのに母さんはいつだって、お節介という名の心配ばかりしてくれて……。全部僕の怠け心が招いたことなのに……。出来ない僕を、最後まで放っておいてはくれなかった……」
やつの声は震えていた。そんな息子の肩をオバアが優しく抱く。
「そりゃそうよ。だって大切な息子だもの……。だけどこれからはお母さんが心配しなくても大丈夫よね? あなたには助けてくれる家族がいるものね?」
彰博は首を激しく横に振った。
「母さんは僕の心の中にいる。いつでも。父さんがそうであるように。……あとね、そんなこと言ったって母さんのことだから、僕が困っていればいつだって助けにくるんだよ。分かってるんだ、ちゃんと……」
「うんうん……。そうよ、必ず助けに来る。だから安心してちょうだい……」
二人は抱き合い、静かに涙した。その様子をオジイが見守っている。
「本当に連れて行っちゃうんですか……?」
呟くように問うと、オジイは小さく頷いた。
――仕方あるまい。人の肉体には限界がある。ばあちゃんは、じいちゃんが責任を持って天に導く。苦しみや痛みを感じる前に。それが、じいちゃんに出来るたった一つのことなんだよ……――
「…………」
――悠斗さん。一つ伝えておかねばならないことがある。……あの世で出会った魂の愛菜ちゃんは、悠斗さんとの再会を果たそうと何度も神と交渉し、ようやく君の元に戻ってきたんだよ。その努力をどうか認めてやって欲しい。……ばあちゃんのことはじいちゃんに任せて、子育てに専念しなさい。それがあの子のためだよ――
オジイはきっとすべてを知っているのだろう。おれが神社で聞いた話も、悩んでいる理由も。
――まぁ、これはあの世にいるじいちゃんの戯れ言だがな。考えてみておくれ――
それじゃ、また来るよ……。オジイはそう言って姿を消した。
オジイが立ち去ったのを感じたかのように彰博は涙を拭い、顔を上げた。
「……格好悪いな、僕は。君を励ましに来たというのにこんなことじゃダメだよね」
「いや、お前もおれの前で泣けるようになってよかった。……泣きたいときは素直に泣けばいい」
「……なら、悠もそうした方がいいね」
「えっ……」
「詳しいことは知らないけど、悩んでるんだろ? まなちゃんのことで。それで塞ぎ込んでるんじゃないのかな?」
「わたしもきっとそうじゃないかと心配でね。あっちの世界に行くときには笑顔で見送ってもらいたいから、悩みがあるならわたしたちに相談して欲しいわ。この部屋を訪れたのもそういう理由よ」
「彰博……。オバア……」
おれは言ってしまおうかどうか迷った。しかし実際問題、彰博はまなの祖父なわけで、おれと同様、この先まなとは命ある限り付き合い続けることになる。まなの人生がおれの手にいったんは預けられているのだとしても、彰博にだってまなの置かれている状況を知る権利はあるんじゃないのか。
「……黙ってたってお前のことだ、いずれは見抜いてしまうんだろうな」
過去に何度も秘め事を言い当てられてきたおれは、腹をくくってすべてを話す決心をした。
「今から話すのはすべて真実だ。聞いても驚かないで欲しい」
「……大丈夫。奇跡の再会を果たした十五年前から、君は見えざる者――おそらくはこの街の神々――に守られているんだろうなと思っていたから」
「なら、遠慮なく話すぜ」
すべてを受け容れてくれると知ったおれは、この街に戻ってきてから自分の身に起きた不思議な出来事を、ひとつずつ話し始めた。
14.<めぐ>
――子どもの頃からずっと、言いたいことは山ほどあった……!――
まなとお風呂から上がり、悠くんの部屋の前を通ったとき、パパらしき声が漏れ聞こえてきて思わず立ち止まった。悠くんのことを氣にかけるパパが様子を見に来ているのだろうか。それにしては何かが変だ。漏れ聞こえる話し声から察するに、中には祖母もいるようだし……。
戸に耳を押し当てて中の様子を探る。と、ダイニングルームからエプロン姿の翼くんが現れた。目が合うなり呆れられる。
「まながパジャマも着ずにやってきたからどうしたのかと思いきや……。まためぐちゃんの悪い癖が始まったな……?」
「しーっ……! 翼くんも聴いてみてよ。なんか、深刻な話をしてるみたいで……」
「えっ。いや、だけどさ……」
そんなやりとりをしていると、今度はすすり泣くような声が聞こえてきた。翼くんの耳にも届いたのか、彼は居心地が悪そうにうつむいた。
「……めぐちゃん、こっちに来て」
翼くんはわたしを無理やりダイニングルームまで引っ張った。
「アキ兄には黙っとけって言われたんだけど、隠してもおけないみたいだから言うよ」
「えっ、なに……?」
彼は一度深呼吸をしてからゆっくりと語り始める。
「……ばあちゃんの寿命が残り少ないみたいなんだ。詳しいことは医者に診てもらわないと分からないけど、覚悟はしておいた方がいいと思う。アキ兄が今夜泊まると言った理由もそれだ」
なるほど、さっき部屋から聞こえてきたのは、パパが祖母との別れを惜しんで泣いていた声か……。パパの泣き顔は祖父の葬儀でしか見たことがないが、あのときの表情で涙を流していたのかと思うとわたしまでもが悲しくなってくる。
「だけど、おばあちゃんはさっきまでお喋りしてたし、とてもそんなふうには……」
「俺だってそう思うよ。だけど、桜の下で一緒にビールを飲んでたじいちゃんが、その二ヶ月後に亡くなったことを思うと……」
「…………」
暗い話題をする脇でまなが「だぁ」とか「おっ?」とか声を出しながら無邪氣に遊んでいる。さっき悠くんの前で「おとーたん」と連呼していたのが嘘みたいだ。この子の中に、二度も生まれ変わった愛菜ちゃんの記憶が残っているなんて信じられないけれど、もし本当に愛菜ちゃんがいるならば、自身が亡くなるときの記憶も残っているはず。ひょっとしたらわたしたちの会話にもこっそり耳を傾けているかもしれない……。
そんなことを考えているうちに、悠くんたちが部屋から出てきて居間に集まってきた。深刻な話をしていたとは思えないくらい三人の表情はすっきりしている。パパは真っ先に翼くんを手招きし、耳打ちする。
「ごめん。おばあちゃんが自分から話しちゃったんだ。だからめぐにも……」
「ああ、それならこっちも話したよ。めぐちゃんが、悠斗の部屋から聞こえてきた話し声を耳にしちゃってね……」
「……もしかして、全部聞こえた?」
「あー……。アキ兄が泣いてる声は聞いちゃったかな」
パパは「一番聞かれたくない声を聞かれちゃったな……」と言ってうつむいたが、すぐに顔を上げて一同を見回した。
「………おばあちゃんと過ごせる時間はそう長くない。僕は可能な限り、残りの時間を一緒に過ごしたいと思う。それで相談なんだけど……しばらくの間ここに住まわせてもらうことは可能だろうか。おじいちゃんが生きていたときは六人で暮らしていたんだし、僕が一人増えても大丈夫だよね? もちろん、家のことは出来るだけ手伝うつもり」
「お前がそうしたいならおれは構わないよ」
悠くんの言葉にわたしたちも頷いた。
「まぁまぁ、あなたたちの優しさには感謝の言葉しかないわ。だけど、最後の瞬間を迎えるまではみんなとのおしゃべりを楽しませてちょうだいね」
祖母のハキハキした物言いを聞く限り、まだ元氣がありそうで安心する。しかし、お別れの瞬間が刻一刻と迫っているなら、これまで以上に祖母との時間を大切にしなければ、と氣持ちを新たにする。
「さて、と。話が一段落したところで食事にしようか。もう出来上がってるんだ」
翼くんが場を取り持つように言った。直後にわたしと悠くんの腹の虫が同時に空腹を訴え、みんなの顔に笑みがこぼれる。
「もう……。わたしたちっていつもこうだよねぇ。あー、恥ずかしー」
わたしは赤くなった顔を見られないよう、急いでキッチンへ足を向けた。
「えーと……。僕の分の食事はあるのかな? 食べていっても大丈夫?」
「ああ、いつでも多めに用意してるから遠慮はいらないよ」
翼くんの言葉を聞いたパパはほっとした様子で腰を下ろした。それを待っていたかのようにまなが歩み寄って膝の上に座る。パパは微笑んでまなの頭を撫でた。
「じいじのお膝が好き? 嬉しいなぁ。……ああ、めぐの小さい頃を思い出すよ」
細い目を更に細めたパパは、振り向いたまなと額を付き合わせたかと思うと急に真顔になった。そして「まなちゃん。じいじから一つだけお願いしたいことがある」と前置きして語り始める。
「悠は僕の……いや、僕たちの大切な家族なんだ。一緒に未来へ続く道をゆくと誓い、すでに歩き始めている。だから引き留めないでほしいんだ。もし、君が本当に悠のことを想っているなら一緒に未来を生きようよ。大丈夫。生きると言うことは、何も見えない道を歩くことだと思っているかもしれないけれど、ちっとも怖くはないんだよ。君は一人じゃない。僕たちがついてる。だから安心していいんだよ」
料理を食卓に運んできたわたしは耳を疑った。まるで悠くんの亡き娘「愛菜ちゃん」に語りかけているように聞こえたからだ。翼くんも同じことを思ったに違いない。が、彼はわたしよりもショックを受けたのか、その場に立ち尽くしている。悠くんでさえ、だ。
「彰博……。まなにそんなことを言ったって分かるはずが……」
「いや、この子にはきっと伝わったはずだ。僕には分かる」
「…………」
「さっき君から告白されて、これまでの出来事すべてが腑に落ちたんだ。……君と再会して十数年。やっとやっと前向きにさせたって言うのに、また後ろを向かれたんじゃこれまでの苦労も水の泡だからね。真実を知ったからには、僕なりの方法で彼女を説得させてもらうよ」
今の口ぶりから、パパは真実を知ってしまったようだ。にもかかわらず、わたしたちと違って直後から積極的に行動できる。きっと揺るがない信念があるからに違いない。わたしたちが黙する中、祖母がパパの言葉を補うように言う。
「彰博の言う通りよ。まなちゃん。せっかくまたこの世に生を受けたんだもの。過去の記憶はひいおばあちゃんに預けて、新しい家族との思い出をたくさん作りなさい。それが本当の親孝行というものよ」
しかし二人の話を聞いたまなは、パパの膝の上で「なんのこと?」と言いたげな顔をしている。悠くんの言うように、二歳児が聞いて分かるような言葉遣いではなかったから、当然と言えば当然だ。しかしパパと祖母は、理解できると確信しているようだ。その目は真剣そのものだった。
空腹を感じていたにもかかわらず、今日はなぜだか食が進まなかった。それはみんなも同じらしく、まるで重苦しい空氣でお腹がいっぱいになってしまったかのようだった。
15.<翼>
「孫娘の名前が『まな』だと聞いたときから薄々感じてはいたんだけどね。僕の勘は正しかったみたいだ」
とりあえずの食事を終え、一緒に食器を洗っている最中にアキ兄が言った。自分だけに伝えたいことがあって口を開いたように思えた俺は、声を流水の音にかぶせるようにして問う。
「……驚かなかったの? 生まれ変わりだと聞いても」
「どうして? 世の中には、およそ説明のつかない現象が山ほどあるよ。君の中に存在していた複数の人格も、人によっては複数の魂を保有している状態だと言うかもしれない。実際、君自身にも分からないでしょ? それが自分自身なのか、誰かの魂かなんて。まなちゃんだっておんなじじゃないかな?」
「アキ兄らしい見立てだな……。そうか。俺も誰かの生まれ変わりで、そのときの記憶が別人格という形で表出していた……。確かにそう考えることもできるよな……」
悠斗から生まれ変わりの話を聞いたときには霊的な現象としか思えなかったが、俺の成長を見守り、多重人格を持っていたことにも氣づいていたアキ兄に、自分を例にとって説明されると違った感想を持つ。
「アキ兄は、悠斗がどっちを選択をすると予想する?」
「過去を取るか、未来を取るか、ってこと?」
「うん」
「……わからないな、それは」
洗い物を終えたアキ兄は、手についたしずくをタオルで丁寧に拭きながら言う。
「だけど、選択肢は二つじゃない、と僕は思う」
「えっ? 二つじゃない……?」
「僕らにも出来ることがあるし、まなちゃん自身にも出来ることがあると言うことだ。そう、君が自分の意志で人格を一つにしたように」
「あっ……」
「そう。できるはずなんだ。だから僕は彼女に語りかけた。自分の意志で未来を選び取って欲しいから」
「アキ兄、それ! それだよ!」
俺は濡れた手のしずくを飛ばしながらアキ兄を指さした。そのくらい興奮していた。
「そうだよ、悠斗一人が重荷を背負う必要なんてない。俺たち、家族だもん。この問題はみんなで解決しなきゃ」
「その通り。まなちゃんは幼いから今はまだ難しいかもしれない。だけど、きっと出来ると信じてる。だって君の子だもの。君に出来たんだから出来ないはずがない」
「言ってくれるじゃん!」
そうだ。アキ兄の言うとおり、まなは俺の子であって悠斗の子じゃない。そしてここにいるまなは今を生きている。だったら悠斗がまなの人生を決めるのはやっぱりおかしい。
「アキ兄。この話、めぐちゃんには話してもいいかな」
「もちろん。なにしろ君とめぐの子の話だからね。ただ……。悠にはまだ話さない方がいいと思う。これは悠が真に過去と決別するためにも乗り越えなきゃいけない試練だと思ってる」
「わかった」
「悠のことは僕に任せて。こっちでなんとかするから」
「よろしく」
*
その晩。まなを寝かしつけ、寝室で夫婦二人きりになったタイミングで先ほどの話をめぐちゃんに伝えた。俺がかつて多重人格を有していたことは婚約した頃すでに話している。
「つまり、パパも翼くんもこの子には『野上まな』の人格を選び取って欲しい、ってこと? 鈴宮愛菜ではなく……」
「そういうことになるかな」
「でも、それが可能だったとして、亡くなった娘さんに会いたがっていた悠くんの氣持ちはどうなるの?」
「悠斗も悩んでるんだと思う。過去の記憶を残すことを即決しなかったんだから。まぁ、もし即決しようものなら俺が止めただろうけど。……めぐちゃんだってそうじゃないの?」
めぐちゃんは何度か言いよどんだあとで、言葉を選ぶように口を開く。
「……そうだね。悠くんが神社で過去の記憶を取ると宣言しなくて正直、ほっとしてる。なんだかんだ言って、わたしもまなのお母さんなんだなって思ったよね」
「うん。アキ兄が言っていたように、今では悠斗も未来に目を向けている。だからこそ躊躇ってるんだろうさ。俺たちに出来るのは悠斗を信じることだけだ。こういうことは誰かに言われてするんじゃなく、悠斗本人が自分で納得した上で決断しないと絶対に後悔するから」
「確かに。……そうは言っても、もどかしいな。我が子のことだけに」
「……すべては俺たちが望んだことだ。悠斗を、まなを信じよう」
「……翼くんは強いな。どうしてそんなにはっきり言い切ることが出来るの?」
めぐちゃんは俺の肩にもたれ、それから胸に顔を埋めた。
「……どんな氣持ちでいればいいか、自分でも分からないの。おばあちゃんのこともあるし、母親としてまなの将来も考えなきゃいけないし……。とにかく押しつぶされそうで苦しい」
「俺だって分からないさ……。めぐちゃんが悩む氣持ちも分かる。だけど俺の信念は、めぐちゃんとまなの笑顔を絶やさないことだ。そのために出来ることを最優先に考えて行動する。それだけのことだよ」
「翼くん……」
「大丈夫さ。めぐちゃんはそのままの感情を大事にしていればいい。ただし、不安や悲しみを感じたときは今みたいに俺に打ち明けて。めぐちゃんの感情を受け止めるために俺はいる。……どうよ? 話したらちょっとは楽にならない?」
めぐちゃんは顔を上げ「うん、楽になった氣がする」と言って微笑んだ。
「翼くんが家族でよかった。やっぱり、うんと年上は落ち着いてるから安心だね」
「だろ? だけど同じ年上でも、悠斗を選んでいたら今ごろ二人して落ち込んでたはずだぜ」
「あー……」
めぐちゃんはちょっと考えるように視線を外してから「それってつまり、翼くんを選んで正解だった、ってこと? そう言って欲しいってことだよね?」と言って俺の目をのぞき込んだ。
「ご名答。さっすが、めぐちゃん。分かってるー!」
「もう、翼くんったら!」
「だけど冗談抜きでそう思ってるよ、俺は。冷たい言い方に聞こえるかもしれないけど、すでに亡くなっている娘さんに未練があるうちは悠斗に未来はない。そんな悠斗がめぐちゃんを幸せに出来るとは到底思えない」
「…………」
「俺たちはこの子の実の親として、この子の未来のために動かなきゃならない。もしそれを阻む人間がいれば誰であろうと容赦はしない。……そう。例えば愛菜ちゃんの過去を『消す』ことだって、場合によっては充分にあり得る」
「…………」
「……もう遅い。そろそろ寝よう」
俺はめぐちゃんにおやすみのキスをし、それからベッドに横たわった。めぐちゃんも電氣を消して寝る体勢に入った。
暗闇の中、まなの安らかな寝息が聞こえ、つかの間安堵する。すぐそばで眠る幼子に顔を向け、寝息を感じながら直前に話していたことを思い返す。
俺だって分かってる。本当はそんなことしたくない。まなの中に存在する、過去の記憶を持つ愛菜ちゃんを俺の手で消すなんてことは。でも、どっちの人格を残したいかと問われたら俺は絶対に我が子を選ぶ。だって俺はまなの父親なのだから。
眠っているはずだが、さっきの話を過去の記憶を持つ愛菜ちゃんが聞いていたらどう思っただろう、と考える。仮にも父親である俺に「消」されると聞いてショックを受けただろうか。それとも、それすらも自らの運命と悟り、受け容れようと思っただろうか……。
(なぁ? 悠斗に未来を託して何になる? 君の意志はないの? 教えてくれ、愛菜ちゃん……)
心の中で問うても、ぐっすり眠るまなが答えるはずもなかった。
16.<孝太郎>
「あーあ……。怒らせちゃいましたね。あとが怖いなぁ……」
春山クンと庸平が部屋を出て行ったあとで野上クンがぼやいた。
「今に始まったことではない。彼女だって分かっているはずだ」
よくあることだと言う意味を込めたつもりだったが、きっと言い訳にしか聞こえなかっただろうと反省する。
「……君には分かったのかい? 春山クンの『女心』というやつが」
「まぁ、なんとなく。これでも奥さんと娘がいるもんで」
そう言った彼の表情は自信に満ちていた。彼は春山クンの「女心」について持論を語り始める。
「春山は、憧れを通り越して野球をやってる先輩のことが好きなんですよ、きっと。ずっと格好いい先輩を見ていたい、ってことなんだろうと思います。さっきの口ぶりから察するに、期待されたらそれに応えるのが男だと春山は思ってるんでしょうが、新たな決意を胸に抱いた先輩の心には響かなかった。……だからあんなふうに怒ったんじゃないでしょうかね」
「期待に応えようと無理をした結果、身体を壊したり、プレッシャーに押しつぶされて身を滅ぼした同僚はたくさんいる。そんなことは春山クンなら百も承知のはずだが……」
「それだけ先輩を特別視しているんでしょうね。……だけど安心しましたよ、おれは。先輩の意志の固さを再確認できましたから」
野上クンはにやりと笑い、仕切り直しとばかりにビールを口にした。
「……あー、春山とおれとの違いはたぶん、悔しい思いをした数の違いだな」
「悔しい思い?」
「さっきのキャプテン時代の話もそうですけど、息子の翼に野球を好きになってもらえなかったことも結構悔しかったんです。いろいろ工夫したけどダメで……。だけどその悔しさがあったからこそ、先輩のやろうとしてる体操クラブの理念に共感できたわけですよ。自分が好きなスポーツには興味を持ってもらえないけど、せめて身体を動かす楽しさくらいは知ってほしい……。おれはどっちかっていうと、そういう親のためにクラブを立ち上げたいんですよね」
彼の話には説得力があった。春山クンは恋愛面でも育児の面でも、もちろんそれなりの苦労はあっただろうが、端から見れば望み通りの人生を歩んできたように見える。だから僕らの考えに賛同できなかった。そう考えればしっくりくる。
「君の協力には心から感謝しているよ。しかし今の話を聞いてひとつ氣になったことがある。本郷クンのことだ。クラブに協力してくれることになってはいるが、彼も春山クン同様、成功者の道を歩んできた人間だからね」
「確かに。さっきの春山なら祐輔を説得しにかかってもおかしくないですね」
「仲違いしないことを祈るばかりだな……」
「まぁ、なんだかんだ言ってあの二人は仲が良いですから、心配は無用だと思いますけど」
*
野上クンとはその後、小一時間ほど飲んだり話したりした。彼が帰ってしまうと、賑やかだった部屋がしんと静まりかえる。今までであれば一人きりの時間は大歓迎だったが、野上家の人々と付き合うようになってからは、こういう時間に寂しさを覚えるようになった。
テーブルの上に残された空瓶やグラスを手に持ち、キッチンに向かう。片付けていくと言ってくれた彼らの厚意を断ったのは、一人きりの時間に感じるやるせなさを誤魔化すためだ。とはいえ、僕に出来る家事なんて、せいぜいグラスをゆすいだりゴミをまとめてゴミ箱に放ったりすることくらい。作業はあっという間に終了し、すぐにまた不安に駆られる。
(僕も変わったな……)
再びリビングルームに足を向け、ほかに何かやることはないかと探してみる。と、まなちゃんのために買ってやったおもちゃのピアノがそのままになっているのに氣づいた。ゆっくりとした動作でピアノを部屋の隅に寄せる。
血の繋がりもない、後輩の孫娘であるまなちゃんにどうしてここまで入れ込むのか、自分でも不思議に思っていた。最初は単に幼児特有のかわいらしさに惹かれてのことだと思っていた。が、最近になって別の理由に思い至った。それは、僕と同じにおい、それも「あの世」のにおいがする、という理由だ。
僕には長らく希死念慮があり、常々「死」への想いを吐露していたが、そのたびに刺すような胸の痛みも感じていた。おそらく、僕の身体は死など望んでいなかったのだろう。だから「死にたい」と口にする僕に「死にたくない」とメッセージを送っていたのだと今は思う。
実は、まなちゃんが急に泣き出す理由も同じではないか、と推考している。ただし、まなちゃんの場合は逆で、心は「生きたい」と願っているのに何者かがそれを阻んでいる。それがもどかしくて「泣く」という行為になって表れているような氣がしてならないのだ。
無論、これは僕の直感に過ぎない。が、もし彼女の心が助けを求めているなら救ってあげたい。そのために僕に出来ることは何でもやってみるつもりだ。野上家の人たちが僕を救うことを諦めなかったように、僕もまなちゃんを救うことを諦めたくはない。
*
その日の晩は一人飯という氣分になれず、ワライバで夕食を摂ることにした。店主の大津クンは、今では僕が店を訪れても他の客同様に扱う。氣負わずに食事が出来る店は少ないから実に有り難い。
「夜の定食を一つ」
「はーい。少々お待ちを」
彼は軽い返事をして料理に取りかかりつつ、カウンターテーブルに座った僕に話しかける。
「そう言えば、今日は駅前でレイカのライブがあったんでしょ? めぐっちから聞いてますよ。レイカって、水沢センパイのお姉さんだって話ですけど、どうでした?」
「相変わらずの歌唱力だったよ。とてもよかった。一日でも早くクラブを立ち上げなければと氣持ちを新たにしたくらいだよ」
「へぇ。そんなによかったなら、おれも店を閉めてセンパイ方と聴きに行けばよかったなぁ」
「いや、来なくてよかったと思う。……実はそのあと、庸平が自宅にやってきてね、クラブのことで再び衝突してしまったんだ」
「あちゃあ……。水沢センパイもしつこいっすね。分かった、それで氣落ちして今日はここに来たんでしょ?」
「……当たらずとも遠からず、だな」
春山クンのことを言おうとしてやめた。氣分が晴れない原因の一端は間違いなく彼女の発言にあるからだ。そうと分かっていて、わざわざ自分の首を絞める必要はない。
定食が提供され、無言で食べる。周囲には僕と同じく一人で食事を摂っている人が幾人かいる。当然会話はなく、店内に響く声と言えば野球中継の実況だけだ。
今日は野球中継を見る氣になれなかったので大津クンに頼んでみる。
「……他のチャンネルに変えてもらえないだろうか」
「嫌ですね。この時間はいつも野球中継を流すって決めてるんで」
「生中継されている他のスポーツだってあるだろう? なぜ野球にこだわる?」
「なぜって、ここに永江センパイの崇拝者がいるからに決まってるじゃないですか」
そう言って彼は自分の鼻を指さした。
「崇拝、とは仰々しいな……」
「だけど、実際そんな感じですよ。ここでOB会したときに約束して、後日ユニフォームをもってきてくれたじゃないですか。そこに飾ってあるけど、あれはマジでおれの宝物なんっす。高値がつくと言われてもらい受けたし、実際売るつもりだったのに、手にしてみたらオーラがすごくて。こりゃあ売っちゃダメだ、ってことで額装して日々眺めているうちに、段々とセンパイに対する畏敬の念が増して来ちゃったもんだから、さぁ大変。今じゃ、ユニフォームに向かって毎日拝んでますよ。おれだけじゃありません。お客さんの中にもそういう人が一定数います。だから、チャンネルは変えません」
「……どうしてみんな、そんなに僕を氣に入ってくれるんだい? 優れた選手は他にも山ほどいるはずだろう?」
「……それはあなたが、最後の最後まで野球人であろうとバットを振り続けた姿に感動したからです。そういう生き様に魅せられたからです」
背後から声がして振り向くと、本郷クンがドアのこちら側に立っていた。彼は僕の隣に腰掛けるなり「今日は謝りに来ました」と言っていきなり頭を下げた。
「謝るって、いったい何を?」
困惑している僕に構わず、彼はここへ来た目的を果たすべく口を開く。
「永江さんが好きだからこそ、決めました。おれ、クラブ立ち上げ業務から手を引きます。その代わり、水沢先輩と詩乃と一緒に野球選手の育成をしようと思ってます。急な話で申し訳ありませんが、さっき二人と話し合って、そうしようって決めたんです」
「えっ、ちょっ……! 本郷センパイ、いきなり手のひら返しちゃって……! まじっすか?!」
大津クンは動揺を隠せない様子だった。が、僕は先ほど野上クンとしていた話が現実のものになっただけだと、冷静に受け止める。
「むしろ有り難い申し出だ。君なら庸平の思いを形にすることが出来るだろう」
「……すんなり受け容れてくれるんですね。もうちょっと引き留められるかと思ってたのに、それはそれでちょっぴり寂しいな」
「氣持ちが離れていった人間を引き留めてまで成し遂げたいとは思わないよ。それより、君が氣持ちを込められる方に意識を向けるべきだ」
「それも含めて永江さんらしいな……。分かりました。異論がないならこの話はおしまいです。……では、こっちの話はどうでしょう? 今の大津の話にも通ずることです」
本郷クンは一旦呼吸を整えてから発言する。
「ぶっちゃけて言うと、永江さんのファンクラブを作りたいんです。これは水沢先輩と詩乃の発案です」
「…………!!」
目が点になり、言葉を失った。対する大津クンは大喜びしている。
「ファンクラブ!! いいっすね、それ! おれ、代表になってもいいっすよ!」
「大津、話は最後まで聞け。これはよくあるファンクラブとは違う。おれたちが考えているのは、永江さんに黄色い声を浴びせるようなものじゃなくて、あくまでも遠くから眺めたり、崇めたりするものだ」
「えー? 握手会とかやらないんっすかぁ?」
「ファンクラブと聞いただけで無言になってる人がファンサービスできると思う?」
「まぁ……。無理っすね……」
「だからおれとしては、講演会とか座談会とか、そういう形でのファンクラブなら実現可能かもしれないって考えてる。……どうですか、永江さん」
即答できなかった。いきなりファンクラブを作りたいと言われた挙げ句、ファンとの交流方法について提案されたのだから当然だ。僕はしばし考え、言葉を選びながら答える。
「各人が僕に憧れを抱くのは構わない。だが、そこに僕を巻き込むのはやめてもらいたいものだな」
「んー……。じゃあ、こういうのはどうです? 現役時代の活躍をまとめた動画チャンネルを開設するってのは。そこで時々永江さんのコメント動画を配信したり、サイン入りグッズのプレゼントを企画したり。それだけでもファンは大喜びですよ。……あー、そうだ。そこでの利益を体操クラブの資金にしてもらったっていい。ファンクラブは趣味みたいなもんですからね」
「資金と呼べるほどの額を稼げるとは思えないが……」
「はぁ……。センパイは自分の価値が分かってないっすね。そりゃそうか。おれみたいなしがない喫茶店主に、現役時代のユニフォームをタダでくれちゃうくらいですもんね」
しらけている僕の言葉を受けて、大津クンがため息交じりに言った。
「……今日、聴いてきたんでしょう? レイカの歌。そこにどれだけの人が集まったか知りませんけど、ファンになった人ってのは余程の理由がない限り、いくつになってもファンで居続けるもんです。センパイの現役時代のファンも同じ。センパイが引退しようが何しようがずっと追いかけるんですよ。センパイの活躍に励まされた過去ってのは消えませんからね」
(麗華さん……。励まされた過去……)
二つのキーワードが頭の中でぐるぐるする。そして点と点が繋がり、線になる。
なぜ特定の人物に憧れ続けるのか。それは、自分が辛かった時期にその人の存在が励みになったからだ。そのときの思いが長きにわたり残っているからだ。僕で言えば、それは麗華さんになるのだろう。歌を初めて聴いたときはショックが大きくてまともに聴くことすら出来なかったが、彼女の歌が後に僕を前進させ、現役時代の生きる原動力になったのは間違いない。
僕は、麗華さんに対して抱いているのは感謝だと思っていた。しかしこの氣持ちを彼らは憧れと呼び、そうした感情を持ちながら慕い続ける人々のことを「ファン」と表現しているのではないか。思考を巡らせるうちにそんな考えが浮かぶ。
野上クンは、僕を尊敬していると言った。春山クンは、僕に憧れを抱いているのだと言った。本郷クンも、僕を氣に入ってくれる理由は生き様に魅せられたからだと言った。
もし、僕の野球に取り組む姿に影響を受け、自分もあんなふうになりたいと思った人がいたならば、少なくともその人にとっては、僕のこれまでの人生も意味あるものだったと言うことが出来よう。そして、そういう人が何人もいて、そういう人たちが僕をここまで生かしてくれたのだとすれば、僕が現役を退いたあとも元氣で生きている姿を見せる意味はあるのかもしれない。
「世の中には、生きてそこにいる姿を見るだけで励まされる人というのもいるんだろうな……」
「おれたちにとってセンパイはまさにそういう存在っす」
「そうか……」
かろうじて呟いたあとで、本郷クンが先ほどの自身の発言を補足するように言う。
「あー、そうそう、誤解はしないで欲しいんですが、クラブの手伝いをしないイコール嫌いになった、ってわけじゃありませんからね? むしろ、ファンクラブを作りたいって提案するくらいにはおれも永江さんのことが好きなんで、どこにいても、どんな形であっても元氣でいてほしい。それが本音です」
「…………」
「体操クラブの創設には大津や路教たちが力を貸します。そして、おれたちはそんな永江さんを陰ながら応援します。あー、だからって氣負わないでくださいね? 大津たちもおれたちも、好きで勝手にやってるだけなんで。な、そうだろう?」
「ですです」
どうやら僕という存在はよほど愛されているらしい。同性から何度も「好きだ」と言われる自分を客観視したら笑えてきたが、次の瞬間、父が元氣だった頃に抱いていた想い――憧れや尊敬、近づきたいという氣持ち――がよみがえってきてハッとする。
(そう言えば、子どもの頃の僕も似たような感情を持っていたな……)
あまりにも遠い昔の出来事だから時間がかかってしまったが、いま思い出した。忘れかけていたそれらの氣持ちを。
(そうか……。だからファンクラブなのか……)
決して憧れの「あの人」にはなれない。分かってる。だけど、ファンという形で応援すれば少しでも「あの人」に近づける氣がする。微笑みかけられたら勇氣をもらえる。明日への希望が持てる。本郷クンたちはそういう場を設けたいのだろう。そしてその中心に僕を据えようとしているのだ。
「やっと分かってきたよ。君たちの言う、僕の価値ってやつが」
店の壁に掛けてあるユニフォームに目をやる。それは僕が長年身につけていたものであり、僕が生きてきた証でもあった。
ユニフォーム自体に価値があるのではない。それを着ていた僕の、選手としての振るまい、成績、人柄が価値を生むのだ。だから僕の「ファン」にとってこのユニフォームを目にすることは、人によっては僕と会うのと同等の意味を持つに違いない。
自分の命を軽んじる発言をしたとき、野上クンに叱咤されたことを思い出す。
(周りの人たちに支えられて生きている……。なるほど、確かにそうかもしれないな)
長らくその言葉の意味を真に理解することができなかった。が、幾度となく説得されて今、ようやく腑に落ちた。
食べかけの飯を平らげ、箸を置いて手を合わせる。いつにない満足感。
「ごちそうさま。やっぱりここの飯はうまい」
「そりゃどうも。いつでも来て下さい。待ってますから」
大津クンはそう言いながら定食代を受け取るために手を出した。僕は財布から出した紙幣ごとその手を握りしめる。
「僕にとってこの店が居場所の一つであるように、僕のファンにとってもここが集いの場であればいいと思う」
「それって……。ファンクラブを作ってもいいってことっすか?」
「好きにしてくれて構わないよ。……本郷クン、庸平と春山クンにもそう伝えておいてくれないか?」
「分かりました。……今日の永江さんはやけに素直だなぁ。逆に心配になるよ……」
本郷クンはそう言って肩をすくめる。
「もしかして、路教んとこの子どもたちからまた影響を受けたとか?」
「本郷センパイ、たぶんレイカの歌を聴いたからですよ。おれは行かなかったけど、よかったらしいっすよ」
「あー、レイカのライブか。それなら納得。詩乃も大好きなんだよなぁ。確かにあれはいい」
と言って本郷クンは何度も頷いた。
「そう言えば今度、水沢先輩経由でレイカに会わせてくれるって話ですよ。永江さんも一緒にどうです?」
「誘ってくれるのは有り難いが……」
麗華さんには過去のことも含め、直接会って諸々のお礼を言いたい氣持ちはある。が、会うのは体操クラブが軌道に乗ってからと決めている。
「今回は遠慮させてもらうよ。会いたくなったらそのときはこちらから連絡すると伝えて欲しい」
「了解です」
「そーだ、本郷センパイ。レイカと会うって言うならうちの店を使って下さいよ。そしたら店宛てにサインを書いてもらえるじゃないですか」
「……相変わらずしたたかだなぁ、大津は」
本郷クンは呆れたようにため息をついたが、氣を取り直すように咳払いを一つした。
「レイカのことは脇に置いとくとして……。ファンクラブを作る許可を出していただいたところで早速相談なんですが、活動規模はどのくらいがいいですか? 好きにしていいって話ですけど、だからって何でもオーケーってわけじゃないでしょ?」
「ああ。それについては一つ、提案がある」
僕は再び額装されたユニフォームに目をやってから、思いついた構想を話し始めた。
17.<庸平>
ファンクラブの許可を取り付けた、という知らせを聞いた俺はひとまず安堵した。しかし困惑もした。直後に、次のような案が示されたからだ。
本郷曰く、発案者は孝太郎自身で、あいつが持っている野球道具の多くをワライバ内に展示、ファンクラブの会員なら誰でも自由に見ることが出来るようにする、とのこと。またサイン会も、会員限定であれば少ない負担でファンを喜ばせることが出来るのでやっても構わない、と言っているらしい。
酷くモヤモヤした。一体どういうつもりでそんなことを言ったのか。又聞きでは孝太郎の考えまでは伝わってこない。とにかく直接会って話さなければ、と思った。
しかし、前回あんな別れ方をしているだけに、こちらから連絡するのは氣が引けた。加えて、ファンだと公言したも同然の俺が、面と向かって孝太郎と話すことに氣恥ずかしさを覚えるのも事実だった。
◇◇◇
結局、一週間ほど悩んだ末に戸惑いの元凶であるワライバを訪れた。
昼時ならばあるいは……と思ったが、孝太郎の姿はなかった。代わりに幾人かの客が席を温めており、テレビを見たり食事を摂ったりしていた。
「いらっしゃいませ、水沢さん」
店内を見回していると、店員のめぐさんに挨拶された。
「孝太郎さんと待ち合わせですか?」
「いや、待ち合わせはしていない。いたら話そうと思ってきてみただけだ」
「そのためだけにわざわざ? せっかくいらっしゃったんだから、ゆっくりしていって下さいね。理人さんとお喋りするだけでも全然オーケーな店ですから」
そう言ってめぐさんはカウンターの空いている席を指し示した。
「……大津と話すくらいなら、君としゃべってる方がマシだな」
「もちろん、それでもオーケーですよ」
俺の冗談を真に受けた彼女はにこやかに笑った。その微笑みがかわいらしくてつい、見とれてしまいそうになる。と、カウンターの奥からわざとらしい咳払いが聞こえた。
「水沢センパイの相手はおれがしますよ。この時間のめぐっちは忙しいんでね」
「俺だって忙しいんだよ。孝太郎がいないならこの店に用はない」
「何言ってんだか。本当に忙しかったらこんなところに来たりしないでしょ。最初から、万が一永江センパイに会えなくてもおれに聞けばいいや、ってつもりだったんでしょ? そうだなぁ。センパイが聞きたいのはたぶん……ファンクラブのこと。違います?」
「……勘の鋭いやつだ」
「やっぱりねぇ」
大津はしたり顔をした。
「安心して下さい。今日は昼飯を食いに来ますから、待ってりゃそのうち会えます。……ただ待つのもなんだし、センパイも食べていきます? 今日のランチは夏野菜カレーなんですけど」
「……じゃあ、食わせてもらおうか」
「うふふ……。こちらの席にどうぞ」
端で話を聞いていためぐさんが、さっき指し示したカウンター席に水を置いた。
*
氣づけば店内は、さながらカレー店のような匂いに包まれていた。しかしそれがまた食欲を誘い、料理が提供されてからものの五分で平らげてしまった。悔しいけれど、おかわりしたいくらい旨かった……。
「……この店の料理目当てに来る客も多いんじゃないのか?」
お皿を下げに来ためぐさんに問うと、彼女は「最近、増えてきましたね」と言った。
「理人さんは、わたしが家で覚えた料理を作るようになってから腕を上げたんですよ。どうやらいい刺激になってるみたいで。そのせいか、おっしゃる通りよくある喫茶店の感覚で来店するお客さんも増えましたね」
「よくある喫茶店……? それ以前は違ったってことか?」
「このお店に来る人は特別な事情を抱えていることが多いんですよ。今でも常連さんはいますが、以前に比べるとそれ以外のお客さんが多くなった印象はありますね」
「それもこれも、めぐっちと永江センパイのお陰っすよ。あ、うわさをすれば……」
話に割り込んできた大津が店の入り口に目を移した。振り返ってみると、そこには孝太郎と野上の姿があった。
「いらっしゃい。センパイ方を待ってる人がいますよ」
大津が言い終わるのを待って席を立つ。孝太郎は俺を見るなり微笑んだ。
「僕を待っていてくれるとは。さすがはファンクラブの発案者。熱量が違うな」
「お、俺が言い出したんじゃねえ! 言い出しっぺは春山だっ!」
「だとしても、君はその案に乗っかったんじゃないのかい?」
「……乗っちゃ悪いのかよ?」
「いいや。むしろ嬉しいよ。僕のことをずっとそばで見てきた君がファンだと言ってくれて」
「…………!!」
孝太郎の素直な言葉にこちらが恥ずかしくなり、思わずうつむく。孝太郎は続ける。
「ありがとう、庸平。これからも友人として、ファンとして僕を支えてくれたら嬉しい」
「そんな言葉が欲しくてファンクラブの提案をしたんじゃねえよ。俺はただ……」
「ただ……?」
「……ただお前ともう一度野球がしたい。それだけのことなんだよ」
自分の発言に自分で驚く。
(そうか。やっぱりこれが俺の本心……)
いい年をしたオジさんが同い年の友人に向かって「一緒に野球がしたい」など、あまりにも子どもじみていると自分でも思う。わかってる。だけど、心の奥底で燃え続けている火を無視できない俺がいる。
「不器用だな、庸平は。僕らと、おんなじだ」
恥ずかしさに耐えきれず、再びうつむいた俺の頭上からそんな声が降り注いだ。恐る恐る顔を上げる。と、肩に手を置かれた。
「食事が終わるまで待てるというなら叶えてやろう。庸平の願いを」
*
まさかこんなことになるとは思ってもみなかった。だけど孝太郎は宣言通り、カレーを平らげると「食後の運動だ」と言って出かける準備を始めた。
もちろん、お互いにグラブの用意はない。しかし、ここは元高校球児が店主を務めるワライバだ。「野球をする」と言えばグラブの一つや二つ、すぐに出てくる。
「だけど、どこでやるんです?」
すぐ近くの自宅からグラブとバットを取ってきた大津が、それらを孝太郎に手渡しながら言った。
「K高脇の河川敷なら問題ないだろう。ホームランさえ打たなければ」
「やれやれ、野球とは縁を切るようなことを言ってた人が……。今日は一体どうしちゃったんっすか?」
「野球で出来てる人間を説き伏せるには、野球で語る必要がある。これは野上クン親子に教わったことだ」
その言葉を聞いた野上が大きく頷いた。
「はぁ……? なんだよ、それ」
「やればわかる」
孝太郎はそう言って店の外に出た。
「あぁ、なんか面白いことが起きそうな予感……! めぐっち、隼人。おれ、三人についてくわ。こんなチャンス、二度と巡ってこないだろうからね。一時間ほど、店番を頼む!」
じっとしていられない様子の大津は言いながらエプロンを脱ぎ、孝太郎の後を追う。そんな大津の背中に向かって店員の二人は大きなため息を吐いた。
*
久々に訪れたK高脇の河川敷は、俺たちが高校生だったときよりも整備が進んでいた。当時石ころばかりだった辺りには土が敷かれ、公園が拡張されている。また、花壇も手入れが行き届いており、初夏の花々が風に揺れていた。
キョロキョロしながら歩いている俺に孝太郎が言う。
「あっちを見てみろ」
指された方角を見た俺は「あっ」と声を上げた。そこに、フェンスに囲まれた内野グラウンドがあったからだ。
「あそこなら思う存分野球が出来るだろう?」
孝太郎が得意げに言う。
「市が、僕の引退に際して記念碑を作りたいと打診してきたんだが、そんなものを作るくらいなら誰でも利用できるグラウンドを作ってくれ、と突っぱねたらこうなった。記念碑を作るよりずっと費用はかかったようだが、最終的には僕の提案が採用された格好だ。今は誰もいないが、夕方や週末には少年少女が集まって野球を楽しんでいるそうだよ」
「……やっぱりお前には発言力がある。今からでも遅くはない。もう一度考え直すことは出来ないのか?」
ダメ元で言ってみたものの、予想通り孝太郎は首を横に振った。
「その話を受けたのは十数年も前の話。当時はまだ野球に対するエネルギーが残っていたが、今の僕はもう、あのときの僕とは違う。何度頼まれても氣持ちは変わらないよ。……さぁ、四の五の言わずに始めようか」
孝太郎はそう言って野上に球を放る。
「ピッチャー候補だった君に投球をお願いしたい。捕球は僕がする」
「いいんですか、おれで。うわぁ、光栄だなぁ!」
「センパイ、センパイ。じゃあ、おれは?」
店の仕事を放棄してついてきた大津が子どものようにはしゃぐ。
「大津クンはどこでも守れるだろうから、内野の守備を頼むよ。庸平が打ったときには僕に返球してくれ」
「了解っす! ……って言っても、ここんとこ運動不足だから動けるかなぁ?」
「心配するな。お前の反応が追いつかないくらい、鋭い球を飛ばしてやるから」
俺は本氣でそう言い、バットを振ってみせた。ぶんっ、といい音がする。野上の球なんて一発で打ち返してやる。
「庸平。言っておくが、今からやるのは試合じゃない。野球を通して僕らがわかり合うための『対話』だ」
「…………」
こんな場を設けておきながら「野球じゃない」と言い張る孝太郎の発言を聞き流す。
「よっしゃ。いつでも来い! 一発お見舞いしてやる!」
バッターボックスに立った俺は、のんびり構えている野上に向かって言い放った。そんな俺を野上が笑い飛ばす。
「野球、野球って……。今の先輩を見てると、数年前までのおれを思い出しますよ。そろそろ次のステージに進みませんか。野球の、その先へ」
「……いいから早く投げろ!」
「……悪いけど、簡単には打たせませんよ」
俺の挑発など物ともせず、野上は落ち着いた様子で孝太郎のサインを見、投球の構えに入った。
(……打てる!)
球が手から離れた瞬間に判断し、バットを振る。しかし思いのほか球威がなく、タイミングを外されて空振りする。
「くそっ……!」
「庸平。自分が逃げていることに氣づかない限り、彼の球を打ち返すことは出来ないよ」
野上に返球しながら孝太郎が言った。
「俺が……逃げる……?」
「ああ。僕の変化を直視できないと言うことは、現実から目を背けているも同義だ。そして、君が僕に抱いている感情をはっきり表現出来ないのも、逃げの氣持ちがあるからだ」
「…………! 馬鹿なことを言ってないで、次だっ……!」
孝太郎の言葉を撥ね付け、ピッチャーマウンドに目をやる。
「分かってもらえないなら、次は……」
孝太郎がサインを送り、野上が頷く。
(さっきは見誤ったが、今度こそ……!)
振り抜いたバットに球が当たる感触。だが、球は右に切れ、ファールとなった。
「センパーイ、振り遅れてますよー?」
ファールボールを野上に投げ返しながら大津が言った。
「うるせえ! 次こそ、前に飛ばす!」
「無理だ。野上クンを直視できていない時点で君は劣勢だよ」
「ちゃんと見てるよっ……!」
反論すると、野上がため息をついた。
「……先輩。そうやって意地を張るの、はっきり言って格好悪いです。そんな人がファンクラブを創設するなんて、聞いて呆れますね。好きなら好き、憧れてるなら憧れてるって、ちゃんと本人の前で表明したらいいじゃないですか」
「……陽動作戦は通用しねえよ!」
口ではそう言ったものの、実際には激しく動揺していた。もはやバットを持つ手は震え、顔は熱くなり、まともに立つことすらままならない状態になる。
「……来いっ!」
自分を奮い立たせるように言い、バットを強く握る。
「こんなにも強情な男だとは知らなかったな……。だが、次で最後だ」
孝太郎がミットを構える。そこに向かって野上が投げる。ど真ん中に来た球めがけてバットを振る。
「えっ……」
狙いは完璧だった。なのに、バットは球をかすりもせずに空を切った。
「なんでだっ……?!」
「言っただろう。次で最後だと。そしてこれは野球ではなく対話なのだと。君は話すことから逃げた。その時点でこの勝負は決まっていたんだ」
「……そんなに話すことが大事かよ」
「ああ。それも、本音で話すことが」
「…………」
三振に打ち取られた挙げ句、完全に言いくるめられた俺は負けを認めざるを得なかった。バットを置き、ふうっと息を吐く。
「……友だちだから言えないこともある。だけど……そうだな。確かに、言わなきゃ伝わらないよな」
俺は天を見上げた。目を見て話すなんて、とてもじゃないが今の俺には出来ない。
「現役を退いた今でもお前の采配には素晴らしいものがある。お前自身がそれをここで証明したってのに……。惜しい。本当に惜しい。……だけど。……だけど、バッターボックスに立ってみて分かったよ。これはお遊び。真剣勝負の野球じゃないって。……それが答えなんだろう? お前が戦いの舞台には戻らないという意思表明でもあるんだろう?」
「ああ、そうだ」
その返事に一度は悔しさを噛みしめたものの、すぐに身体の力を抜き、自分の氣持ちに正直になって言う。
「……俺は……俺は……野球をしている永江孝太郎が好きだ。ずっとずっと、俺のヒーローでいて欲しい。そう思っているからこそ復帰を望み、一緒に野球をしようと訴えてきたんだ。だから受け容れられなかったんだよ。女の子の前で鼻の下を伸ばしてる『ただの孝太郎』が……」
「……めぐさんが僕を感情ある人間にしてくれたんだよ。彼女が、そして彼女の家族がいなければ僕は今ごろ死んでいただろう。たとえ肉体が残っていたとしても人としては終わっていただろうな」
「…………」
「僕だって最初は認められなかったさ。鎧がどんどん剥がれていくのを直視できなかった。だけど、氣づけば文字通り丸裸にさせられ、そこでようやく諦めがついた。そして氣づいたんだ。長い間、重たい鎧を纏って生きてきたことに」
「……怖くなかったのか? 何者でもない自分に戻ってしまうことが」
「……裸の僕に、悠斗クンが言ったんだ。何者でもない、ただの永江孝太郎がどんなふうに笑うのか見てみたいと。そして僕なら人生をリセットして生き直せると。そう断言してくれる人がそばにいるんだ、何も怖いことはなかったよ。そして実際、僕は彼らと日々笑い、共に新しい人生を歩み出した。今、スケジュール帳は空欄ばかりだが、予定がぎっしり詰まっていた頃よりもずっと心は穏やかだし、なにより毎日が楽しい。何者かでいなくても、人はちゃんと生きていけるんだよ」
「……そうか。お前が毎日を楽しく生きてるならよかった」
俺は、孝太郎は野球がなければ生きていけないと思い込んでいた。だから野球を続けて欲しいと願っていた。だけど今の孝太郎は、野球に依らなくてもちゃんと生きている。そのことが腑に落ちた今、ようやく純粋に、孝太郎が元氣でいることが有り難いと思えたのだった。
「ふっ……。一緒に野球がしたい。それ以上に、お前が生きていることが俺にとっては何よりの喜びだったはずなのに、どこでボタンを掛け違えたのかな」
「掛け違えたというより、それだけ庸平が戦いの舞台に長く身を置いていた証拠だと僕は思うよ。僕らは戦い、勝利に貢献することだけを求められてきた。そこに感情は必要なく、ひたすらに強くあれと要求された結果、自然に笑うことさえ忘れてしまったんだ。……僕は運よく救われたが、使い捨てられた人間も山ほどいる。庸平が作ろうとしている野球選手の育成機関では、そういう人間が出ないように工夫して欲しい」
「わかってるよ。……お前の協力が得られないのは本当に残念だけど、俺は俺で頑張る。そしてお前のことは、一ファンとして応援することにするよ。ああ、それでファンクラブのことだけど」
俺はそこで一呼吸おいてから話を続ける。
「どうして野球道具の展示なんだ? それもワライバで。今日はそれを聞きに来たんだ」
「本郷クンから聞いたのかな? これは大津クンの感想だが、どうやら僕が使っていた道具や着ていたユニフォームには、僕と同等のオーラが宿っているらしい。それが事実なら、それらを見ることで、ファンは僕に会わずとも僕の存在を感じられるんじゃないか、と思ったんだ。そうすることのメリットは、僕がその場にいなくともファンを喜ばせられるところと、僕も僕でやりたいことに専念できるところだ」
「ついでに食事してってもらえば、店の方も潤いますしね。あ、言っときますけど、これも永江センパイの発案ですからね!」
大津は後半部分の語氣を強めて言った。一方の俺は唸る。
「だけど、お前本人からにじみ出るものは、物に宿っているオーラとは比べものにならないぜ?」
「それは当然だろう。しかし僕のファンは、僕が生きていることそのものに安心感や満足感を得ている氣がする。ならば時々、生存報告がてらサイン会でも開けば彼らのニーズに応えることが出来るんじゃないか?」
「……お前から自分を肯定する言葉が聞けるとはなぁ」
俺の知る永江孝太郎とはかけ離れた発言に驚きつつも、終始穏やかで安定している様子を見て心から安堵する。
「思い出したよ。お前はもともとこういうやつだったってことを。……いや、昔より今の方がずっといいな、尖ってない分」
「僕の棘は、野上家の人たちにみんな抜かれてしまったよ……。だから、今の僕は表に出ない方がいいんだ。現役時代の僕に憧れているファンは僕の現状を知らないほうが幸せだろうからね」
「なるほど。じゃあ、ファンの前に姿を現すときだけ野球人の仮面をつけるってことか?」
「仮面をつけられるかは分からないが、夢を壊さない程度には演じるつもりだよ」
「そうか」
ファンクラブを作りたいと申し出たのはこちらだが、それに対して自身の立場を踏まえた上で現実的な発案をしてくるあたり、さすがだと言わざるを得ない。俺は深くうなずいた。
「……直接話せてよかったよ。お前がワライバに姿を見せるまで待った甲斐があった」
孝太郎に握手を求めると、大津が「引き留めたのは、めぐっちとおれなんっすけど?」と主張した。
「……ああ、お前にも感謝だ。野球部時代から口の悪さと横柄な態度が氣に食わなかったけど、作る飯は旨いし、発言内容は意外とまともだし。見直したよ」
「やーっと分かったんっすか? 口の悪さは生まれつきですが、むやみに人をけなしたり傷つけたりはしませんよ。ま、おれを更生してくれたのはそこにいる野上センパイですけどね」
「ちょっ……! 急におだてるのはやめろよ……」
「だけど、事実ですから。あー、そーだ。うちの店に永江センパイの所持品を展示するついでに、野上キャプテン率いるチームが甲子園に出場したときの写真も飾っとこうかな。実はおれ、野上センパイのことも尊敬してるんで」
大津はそう言ってパンパンッと手を叩き、拝む真似をした。
「よせよせ。どうせ飾るなら永江キャプテン時代の写真にしてくれ。頼むよ……」
野上は本当に恥ずかしそうに顔の前で手を振った。その様子を見た孝太郎が声を立てて笑う。仏頂面のイメージが強かっただけにまだ見慣れないが、こんなふうに笑えるようにしてくれたのが野上たちなら、きちんと礼を言わなければいけないかもしれない。
確かに俺は長い間格好いい孝太郎に憧れていた。だけど心のどこかでは、野球以外のことはからっきしダメなところも人間味があって好きだったんだと思う。あいつの世話をしてきた人たちもきっとそうに違いない。そのギャップが永江孝太郎の真の魅力だと知っているから。
ふと、昔のことを思い出した。懐かしさに胸が温かくなった俺は思い切って誘う。
「なぁ、孝太郎。昼飯を食ったばかりでこんなことを言うのもなんだが、今晩、俺の実家で飯食わねえ? 姉貴の話によれば、お袋はまだ台所に立って料理をしてるそうだ。お前が一緒だって言えば張り切って作ってくれると思うぜ」
「君のお母さんの料理、か。久しく食べていないな。ああ、そうだな。もし、迷惑でなければご一緒させてもらおうか。もっとも、お母さんが喜ぶのは僕との再会より君の帰宅の方だと思うが?」
「え?」
「今の口ぶりから察するに、君は長らく実家に帰ってなさそうだ。何も言ってこなくても、特に母親ってやつはいつでも子どもの身を案じているものだよ。煩わしいと思う氣持ちは分からないでもないが、親の年齢を考えれば生きて会える回数は限られている。僕と一緒でもいい、近くに住んでいるんだから時々顔を見せてあげて欲しいな」
「……んなこと、お前に言われなくたって分かってるよ」
春山の「女心」は分からなかったくせに、なぜか俺のことは言わなくても言い当ててきたのは付き合いの長さの違いだろうか。ちょっぴり嬉しいような、氣恥ずかしいような。いずれにしても悪い氣はしなかった。
「あー、だけど水沢センパイ、今日の午後はうちの店で体操クラブの打ち合わせをする予定になってるんで、永江センパイは晩飯時まで身体が空きませんよ?」
大津が腕時計をちらりと見ながら言う。
「一旦、帰ります? それともおれたちの話、聞きます?」
「とりあえず実家に電話入れて了解が取れたら、そうだな……。一人部屋に帰ってもすることないし、お前らの話し合いでも聞いとくか。考えてみたら、体操クラブの中身はちゃんと把握してなかったし」
俺の言葉を聞いた三人は一様に目を丸くした。
「……なんだよぉ、そんな顔して。孝太郎が言ったんだろ? 話はちゃんと聞けって」
「ああ、言ったとも。それじゃあ僕らは、庸平に納得してもらえるような話し合いをするとしようか。君の理解が得られれば、多くの人の理解も得られるだろうからね」
そう言って笑った孝太郎は本当に嬉しそうだった。
18.<悠斗>
おれの家族は全員、孫子に「野上まな」として新しい人生を生きて欲しいと望んでいる。しかし「鈴宮愛菜」の父親だったおれにとってはそれを望みきれない理由がある。
おれは目の前のまなと一緒に、鈴宮愛菜だったときの記憶を共有し続けたいという想いを捨てきれずにいる。たった五年分の思い出を共有したいがために今後、何十年も続くであろうまなの人生から言葉を奪ってしまうのはどう考えても割に合わないというのに、愛菜が神に懇願してまで記憶を残してもらったなら、おれの一存でその努力をなかったことにするという選択が出来ないのである。
――前を、未来を見ろ。
俺が彰博から何度となく言われてきた言葉だ。そして実際、その言葉があったからこそ今のおれは前向きに生きてもいる。なのに……。
◇◇◇
氣落ちしている間に梅雨がやってきた。オジイがあの世に旅立った季節。もしかしたら同じ時期にオバアを連れて行ってしまうんじゃないかと不安になるが、今のところオジイが現れる氣配はない。しかし医者に診てもらったところ、心臓の動きが以前より弱まっていると言うから油断は出来ない。
ところが、当のオバアは「悠斗君が元氣を取り戻さないうちは、心配であっちの世界にいけやしないわ」と相変わらずの口達者である。その様子を見る限りすぐに別れの日が来ることはなさそうだが、一緒に過ごせる時間が日ごと短くなっているのは確かだ。
(オバアを心配させたままにしないためにも、早く心の元氣を取り戻さなければ……)
しかし、そう思えば思うほど心は重く鬱ぐのだった。
◇◇◇
日曜日だというのに、朝から雨が降っている。天氣が良ければまなを外で遊ばせたかったが、この雨ではどうしようもない。しかしまなは、そんなことはお構いなしと言った様子で外に行きたがる。
「まな。お外は雨だよ。今日はおうちの中で遊ぼう」
翼が何度も室内に誘導するも、まなもまなで何度も玄関に向かっては靴を履こうとする。さすがの翼も困り顔だ。
「これだけ言ってもダメなら、めぐの職場まで散歩してくるってのはどうだ? 外に出れば少しは落ち着くかもしれないぜ?」
おれの提案に翼は少し考えた様子だったが「いい案だけど、途中に公園があるだろう? あそこは誘惑ゾーンだから、通りがかったら最後、遊んでいくって言いかねない」と言って再び頭を抱えた。
そのとき、インターフォンが鳴った。そばにいた翼が応じると、映璃の顔がカメラに映し出された。
「エリ姉? こんな日にどうしたのさ?」
『ちょっと用があってね。こんな天氣だし、みんな家にいるんでしょう?』
「めぐちゃん以外はみんないるよ。っていうか、ちょうどいいところに来てくれたよ。まなと遊んでやって欲しいんだ。まな、ばあばが遊びに来たよ」
翼の言葉を聞いたまなは、ばあばが来たことを喜んでいるらしい声を発しながら玄関に向かった。おれはまなの後を追い、玄関扉を開ける。
映璃は傘に雨合羽、レインブーツという姿で立っていた。まなが足もとにすり寄ってきたと分かると、映璃は慣れた所作でひょいと抱き上げた。
「よぉ。久しぶり。元氣そうだな」
声をかけると映璃は肩をすくめた。
「そういう悠は顔色が悪いわね。アキから聞いてるわ。悩みがあるんですってね」
「まぁ……。だけど、大したことはないよ」
「その顔でよく言うわ。……ねぇ。悠とデートするために来たって言ったらどう思う?」
「えっ? デート?」
てっきりまなの相手をしに来たのかと思いきや、いきなりそんなことを言われて戸惑う。そこへ彰博がニコニコしながら姿を見せる。
「あ、来た来た。雨の中、ありがとうね」
「……もしかして、お前の策略か?」
「策略ってほどでもないけど、最近ずっと元氣がない君のことを話したらエリーが心配してね。こうなったら自分が励ますしかないって言うんで、デートにでも誘ったらどうかって提案したんだ」
「そういうことかよ。お前の提案でデートに誘われても嬉しくねえし。心配には及ばない。おれのことは放っておいてくれ」
「放っておけないから訪ねてきたんじゃない!」
「なんでだよっ……」
「だって悠は、私たちの『大きな息子』だから」
まなの、もう一人の父親になろうと決意を新たにした頃に二人から言われた言葉を思い出す。二人はどうしようもなくだらしないおれを見捨てるどころか「息子」とみなし、中年にさしかかった自分たちが進む新しい道を一緒に歩こうと手を差し出してくれたのだった。
「……だけど、『大きな息子』とデートするには生憎の天氣だぜ?」
皮肉を言ったにもかかわらず、映璃は動じずに言い返す。
「だからこんな格好をしてきたんじゃない。今日は雨の公園デートよ。もちろん、まなちゃんとアキも一緒ね」
「……おれ、合羽なんて持ってねえし」
「そういうと思ってね、ちゃんと用意してきたんだ」
映璃は合羽の前ボタンを開け、背中のリュックを指し示した。
*
近所の公園を訪れる。合羽を着た中年の男女三人と二歳児以外に人はいない。確かにここなら深刻な話をしていても誰かに聞かれる恐れはないだろう。なるほど、映璃も考えたものだ。
外に行きたがっていたまなは大はしゃぎだ。しかも今日は水遊びの許可が出ているので、さっきから水たまりを行ったり来たりして楽しそうにしている。
そのそばで器用な映璃が、まなを注視しつつもおれに話しかける。
「……悠が悩む氣持ちは分かるわ。葛藤するのは我が子を愛するがゆえ。たとえ亡くなっていたとしても、愛していた事実は変わらないどころか増すばかり、と」
「ああ……」
「思い出はいつでも美しいものよ。だけどね、悠。その思い出は二度と還らない日々だと言うことを忘れないで。その過去がどんなに素晴らしいものであっても、私たちはいま、この場所からしか過去を見れない。時が過ぎれば過ぎるほど過去は遠ざかり、真実が見えにくくなる」
「ああ……。分かってるよ、そんなこと。だから悩んでるんじゃないか」
ぶっきらぼうに告げると、まなが一瞬水遊びをやめ、おれのほうを見た。その目はまるで、自分の過去を消し去らないでと訴えているようだった。彰博もそう感じたのか「やれやれ」とため息を吐き、まなの前でしゃがんでその顔を覗き込んだ。
「まなちゃん。そんな目で悠を見ないでほしい。君がそういう眼差しを向けるたび、悠は思い悩んでしまう。……君の望みは分かる。だけど、悠は今を生きる人間だ。君が悠の目を過去に向けようとしても僕らがそうさせない。君が諦めるまで、僕は何度でも訴え続けるよ」
「彰博……」
「悠。君にも言いたいことがある。人は、起きた出来事を都合よく解釈する生き物だ。もちろん僕もそう。今でこそ僕は君を家族だと思って信頼しているけど、君も承知しているとおり、高校生の頃は顔を見るのもうんざりするくらい嫌いだった。……もし、未だにあの頃の記憶を引きずっていたら、きっと君とは家族になっていなかっただろう。だけど僕の感じ方は変わった。なぜか。それは今の君の素晴らしさを知ったからだ。今の君が高校生の頃の記憶を上書きしたからだ。そう。いいも悪いも、過去の記憶を書き換えるのは今の自分。過去に起きた出来事そのままを思い返すことは不可能なんだよ」
「つまり、おれが過去を美化している、と。そう言いたいのか」
「はっきり言ってしまえばそうなる。……おっと、その目は何か言いたげだね? いいよ。この際何でも言ってよ。君の言い分はすべて受け止める」
「それじゃあ言わせてもらうぜ」
挑発されたおれは、躊躇うことなく思いの丈をぶつける。
「もしも……。もしも、めぐが不慮の事故で死んだらどうする? もう二度と声を聞けない、顔も見れない。それでもお前は前向きに生きていけると断言出来るか? ……出来るはずないよな? その娘があの世から過去の記憶を持ったまま帰ってきたとなれば、喜ぶのは当然のこと。そうじゃないか?」
「……そうだね。めぐが自分より先にこの世を去るなんて想像もつかないし、仮にそういう日がやってきてしまったら、長い間立ち直れないに違いない。……だけど、だけどね。それでも僕はいつか立ち上がり、前進できるとも思う。なぜだか分かる?」
「……さあな」
「それは僕が一人じゃないからだよ。僕にはエリーがいる。君もいる。支えてくれる家族や友人がいる限り、そして命が続く限り、僕は死を乗り越えて生きる。むしろ、それしか出来ない」
「…………」
「今の君にはそういう家族や友がいる。そして君は、僕らと過ごす日々の中で娘さんの死を乗り越えたはずだ。……なぜまた来た道を戻るような真似を? そんなに大事なの? 目の前の『我が子』より過去の我が子との記憶が」
「…………」
「アキ、もう充分でしょう?」
言葉に窮していると、映璃が間に入った。
「悠にはこのくらい言ってやらないと効果がないから。だけど、うん。お互いに言いたいことは言ったよ」
そうだよね? と言わんばかりに彰博がおれを見る。返事ができないでいると、その目は再びまなに向けられる。
「……いま聞いたとおり、これがじいじとばあば、そして悠の想いだ。前にも言ったけど、僕は君が大人の会話を理解できないとは思っていない。君自身も少し考えてみて欲しい。そして……」
彰博はそこで言葉を句切り、合羽の上からまなの頭を撫でた。
「デートの邪魔をして悪かったね。僕は先にまなちゃんを連れて家に帰るよ。あとはごゆっくり」
さあ、行こう。パパが待ってる。彰博が手を差し出すと、まなはすんなりその手を取って自宅に足を向けた。公園にはその様子を呆然と見つめるおれと、ほっとした様子の映璃が残された。
「……大丈夫? 余計に落ち込んだりしてない?」
映璃はそう言っておれを見上げた。
「この顔が大丈夫そうに見えるか? ったく、あいつは年々おれに遠慮がなくなってきてるな。カウンセラーが聞いて呆れる」
「それだけ悠のことが心配なのよ。アキの氣持ちも察してあげて」
「……察するも何も、すべてあいつの言うとおりだ。分かってるさ、おれだって。本当はどうするのがベストなのかくらい」
諸々の氣まずさがあって映璃から目を背けるように天を仰ぐ。雨がほとんど止んでいることに氣づき、汗で内側が湿った合羽を脱ぎ去る。
「雨、止んだね」
映璃も同様に合羽を脱ぐ。と、途端にいい匂いがした。
「珍しいな。香水をつけてくるなんて」
指摘すると映璃は喜んだ。
「悠なら氣づいてくれると思った。だってデートしに来たんだもの。香水くらいつけたっていいでしょう?」
「……彰博が言ったから渋々誘ってくれたんだと思ってた」
「渋々、会いに来たりはしないよ。……悠、あれからちゃんとお父さん、頑張ってるもんね。たまには、んー、ご褒美? 少しでも私に氣があれば、の話だけど。さすがに、おばあちゃんが板についた私に興味なんてないか……」
「いや……。映璃はいくつになっても綺麗だよ。むしろ、氣落ちして老け込んでるおれをデートに誘ってくれる方がびっくりだぜ」
「確かに、今の悠はお世辞にも格好いいとは言えないね。翼くんとめぐの取り合いしてたときの方が何倍も若々しかった」
「実際、若かったけど。まぁ、そうだな。……こんなおれとじゃデートする氣になれないってんなら、ちっとは頑張るけど?」
「頑張るって……?」
「えぇと……」
無意識にポケットに手を突っ込む。と、鍵束が入っていることに氣づく。その瞬間におれは映璃の手を取った。
「ちょっとドライブしないか? 後ろに乗せてやる」
*
行き先はどこでもよかった。だけどせっかく映璃と二人きりのバイクデートならと、おれたちの母校である城南高校に行ってみることにした。
高校はあの頃のまま、何も変わっていないように見えた。しかしめぐが通っていた頃には制服も変わり、映璃や彰博の所属していたチェス部もとっくに無くなっていたと聞く。またおれが所属していた水泳部も当時の活氣は失われ、細々と活動していたとも聞いた。
校門は閉まっている。中の様子も見てみたかったが、卒業生が氣軽に入れる雰囲氣ではなかった。しかし映璃はニコニコしている。
「ここに立ってるだけでも懐かしい。悠と付き合ってた期間は短かったけど、何度か校門前で待ち合わせしたよねぇ」
「そうだったな……。学校の周りを一周してみようか」
「いいね」
「……手ぇ、繋いでもいい? 繋ぐだけなら構わないだろう?」
「うん。繋ぐだけならね」
映璃は返事をしながらおれの右手を取った。
*
目に映る景色は懐かしく、一瞬でも高校生に戻ったような氣分になる。しかし隣を歩く映璃の頭には、染めてはいるものの白髪が光り、握る手にも若い頃のような柔らかさは感じられなかった。
映璃も同じことを思ったのだろう。こちらを見上げながら「今こうして私と歩いてみてどう? 昔と同じ氣持ちになれる?」と言った。
「まさか。今は今で、昔は昔だろ?」
何の氣なしに言ったつもりだった。しかし、
「……なら、愛菜ちゃんとの関係も同じじゃないかな」
そう言われ、言葉を失う。映璃は続ける。
「今、愛菜ちゃんと過去の話をしても当時と同じようには語れない。さっきも言ったように、私たちは今この場所からしか過去を見ることが出来ないから」
「……なら、おれはどうすればいい? 後悔は……したくない」
「……どっちを取っても後悔すると思うよ」
突き放すような言葉にショックを受け、押し黙った。しかし映璃はすぐに言葉を継ぐ。
「私たちの人生は選択の連続。選ばなかった方に意識を向ければ誰だって後悔の念を抱くものよ。だけどその後悔が少しでも小さくなるようにすることは出来ると思うの。悠一人で抱え込むんじゃなく、私たち家族みんなでこの問題に取り組めばきっと」
「映璃……」
「悠の人生の一端は私たちと重なっているの。だから、その重なり合ってるところにいる間は氣持ちよく過ごせるようにお互いが知恵を絞る。協力する。それが野上家でしょう?」
「ああ、そうだな……」
高校生の頃はおればかりしゃべっていて、映璃は自分のことなんてほとんど話さなかった。映璃自身が身体のことで悩んでいたからだ。だけどあれから数十年が経った今は、黙りがちなおれを支えるように映璃が言葉をかけてくれる。年月の経過は何も悪いことばかりではないと思い知る。
そんなことを考えていたら、映璃が唐突に言う。
「ねぇ、話してくれない? 悠と愛菜ちゃんの思い出を」
「思い出……」
「ええ。大切だという二人の過去を聞いてみたいの。いいでしょう?」
考えてみれば、愛菜については死んだ経緯しか話したことがなかったように思う。一緒に問題に向き合いたいと申し出た映璃が、おれと愛菜が共に過ごした日のことを知りたいと思うのは当然のことだろう。
なぜ今まで積極的に語ろうとしなかったのか。それは、最後にはすべてが「愛菜の死」に繋がってしまうからだ。「愛菜の死」でおれたち親子の物語が終わってしまうからだ。
だけど今は違う。鈴宮愛菜を内包している、野上まなとの思い出には続きが、今とこれからが存在している。本来あるべき未来が、ちゃんと。
「今なら話せるかもしれない……。けど、どこから話そうか……」
「なら、順を追って話してよ。生まれた瞬間から成長していく過程を」
「……うまく話せるかな」
おれは記憶の扉を開け、奥へ奥へと進んでいった。
誕生の記憶は最も深いところにあった。しかしそれは三十数年も前の出来事。もはや記憶も映像も曖昧だ。集中し、はっきり思い出そうと試みるがどうしてもうまくいかない。
焦りが生じた瞬間、目に浮かぶ光景が野上まなの誕生の場面に変わった。こっちは鮮明だ。めぐと翼の笑顔がおれに向けられている。そしておれ自身もそのとき感じた嬉しさをありありと思い出せている……。
(くそっ……。これが、現実か……)
おれは頭を抱えた。そして自分の不甲斐なさを鼻で笑う。
「ははっ……。笑っちまうぜ……。散々偉そうなことを言っておきながら、いざ思い出そうとしたらまともに思い出せないんだからな。……そうさ。おれはもう鈴宮愛菜の父親じゃない。野上まなの父親なんだ。おれが『今、ここ』に生きてる限り」
「そうね」
「……忘れたくなんかなかった。だけど、時の経過は残酷だよ。大切だったはずの記憶も断片的にしか思い出せないようにしてしまうんだから……」
「……なぜだか、分かる?」
「わかれば苦労はしねえな……」
「それはね、今を思い切り楽しむためよ」
映璃はそう言って足を止め、正面に回ったかと思うといきなりおれを抱きしめた。
「さっきアキが言ったことは私にもあてはまるよ。高校生の時よりも今の悠の方が好き。そう感じられるのは、時の経過と共にお互いが変化したから。……あの頃の出来事の延長線上に今があるのは確かよ。だけど、あの頃の記憶がかすんでしまったからこそ、今こうして一緒にいられるんじゃないかって私は思うよ」
「だけど、愛菜の時間は五歳で止まったままだ。大事なことほど親が決めなきゃいけない。たとえおれの記憶が消えかかっていたとしても……」
「愛菜ちゃんの人生を引き受けすぎないで。確かに親は子どもの成長を手助けする必要があるけど、それは何でもかんでも親が決めるって意味じゃないと思うの。五歳の子でも年齢に応じた選択や決定は出来る。それを、幼いことを理由にやらせないのは大人の方よ。……悠は一度、しっかり愛菜ちゃんと話した方がいい。たとえ話せなかったとしても、悠ならあの子の言わんとすることを汲み取れるでしょうから」
「愛菜と……話し合う……」
言われて、おれは愛菜と向き合うことを避けていたんだと氣づく。負わされた責任の重さから逃れようとしていたんだと。
結局おれは、結論を出すのを先延ばしにしているに過ぎないのだ。悶々と悩んでいるフリをして現状を維持したいだけなのだ。
(いつまでも逃げ続けていいのか……? 一歩でも二歩でも、前に進まなければいけないんじゃないのか……?)
話せない愛菜――しかも相手は幼児だ――と話す。まともに話せるはずがないと、大人なら誰でも思うだろう。おれも、そう。だから話し合うという発想すら湧かなかったのだ。だけど彰博は言った。愛菜は大人の会話を理解していると。もしそれが事実なら、そして愛菜がおれを信頼しているというなら、親として出来る最初の一歩は愛菜の人生を決めることではなく、話し合う場を設けることなんじゃないか。映璃と話す中でそう思い始める。
こうして映璃が自信を持って言えるのは、自分たちがすでに実践済みだからだろう。おれはあるエピソードを思い出す。
「そう言えば、おれの母親が死んだ日の朝に、当時八歳だっためぐが病院まで会いにきたっけ……」
「そんなこともあったわね……。あの日、本当は悠が我が家に遊びに来てくれるはずだったのよね。だけどご不幸があってそれどころじゃなくなって……」
「ああ。だけど、めぐは怒らなかった。それどころか、おれを励ましてくれたよ……。八歳でもちゃんと、おれの身に起きたことや氣持ちが分かってんだろうなって、感心した覚えがある」
「だいぶ話し合ったからね。あのとき、めぐには何度も聞いたわ。悠と会ってどうしたいの? って。最初は遊びたいって言ってためぐも、悠の事情を知るうちに慰めてあげたいって言うようになってね。それなら会いに行こうってことで、アキに病院まで連れて行ってもらったのよ」
「そうだったのか」
「……子どもは、大人が思っているよりずっと賢いわ。愛菜ちゃんだって、きっとね」
「そうだな……。時間をかけてでもちゃんと向き合わないとな……」
一つ二つと、雨粒が肌の上に落ちる。また雨が降ってきたようだ。
「ありがとう、映璃。デートに誘ってくれて。少し前に進めそうな氣がしてきたよ」
「それならよかった。……うん、さっきよりいい顔してる」
「さて……。本降りになる前に帰ろう。今度は天氣のいいときに一日デートしたいな」
「そうね。悠がこの問題を乗り越えたら、そのときはぜひ」
おれたちはバイクを止めた正門前まで再び手を繋いで戻ると、急ぎ帰路についた。
バイクを走らせながら、頭の中である考えを巡らせる。
(家に着いたら早速、翼たちに話してみよう……)
うまくいくかどうかはこの際、関係ない。大事なのは、行動するかどうか。そのことを映璃が教えてくれた。
19.<めぐ>
雨が降っていること、そしてどうしても確かめたいことがあるのを理由に、現在自宅に居候中のパパに迎えを頼んだ。少し早めに仕事を終えての連絡だったが、パパはすぐに返事をくれ、車で迎えに来てくれた。
「ありがとう、パパ」
「娘の頼み事とあらばいつでも引き受けるさ」
パパはそう言ってすぐに車を走らせ、ハンドルを切りながら話しかけてくる。
「予定より早く終わったの?」
「うん。今日はお客さんが少なかったし、一つ確かめたいこともあって……。そのことを話したら早めに上がっていいよ、って理人さんが」
「確かめたいこと?」
眉をひそめるパパに構わず、間髪を開けずに言う。
「実は、お店の前を掃除してるときに偶然見かけちゃったんだよね。こんな天氣にもかかわらず、悠くんがバイクに乗ってどこかに向かうところを。しかも後ろに……ママらしき人を乗せて。……わたしの見間違いならそれでいいの。だけど、もし本当だったら……。ママと一緒ってことはデートとしか思えなくて……」
もちろんバイクは瞬く間にわたしの前を通り過ぎていったし、ヘルメットもかぶっていたから同乗者の顔をはっきり見たわけではない。だけど、可能性としてあり得るのはママしかいないのだ。
パパは悠くんとママが二人きりで会うことをよく思っていない。まなの誕生前、浮氣がちな行動を取る二人に「会うときは必ず同席する」と宣言し、百パーセント実行してきたパパだ。悠くんの心情や外出の目的に氣づかないはずがない。
このところ鬱ぎがちな彼が氣晴らしに外出することはあり得るだろうし、その可能性が高いとは思う。しかし、もしそうだとしたら悠くん一人で行くのでは……? ドライブにあえてママを誘う必要があるのだとすればその目的とは……?
考えれば考えるほどモヤモヤするわたしに対し、パパは普段と変わらない口調で言う。
「めぐは僕らの関係を心配してくれてるのかな? だけど、心配いらないよ。彼らを二人きりにしたのは僕だ。そしてママはちゃんと悠を励ましてくれた。……悠はもう前に進む力を得たよ。めぐが帰宅したらおそらく悠から大切な話があるだろう」
「えっ、どういうこと……?」
「確かに二人はデートしてきたけど、めぐが思っているようなことは起きなかったってこと。時として中年の大人ってのは、昔を懐かしむことで大切なことに氣づくものなんだよ」
「……よく、分かんない」
「今は分からないだろうな。だけど、いずれ分かる日が来る」
*
車は程なくして家に着いた。ママらしきレインブーツを確認した直後、靴の持ち主がまなと一緒に玄関先までわたしを出迎えてくれた。
「おかえりなさい。まなちゃんと遊びたくなったから、来ちゃった」
「……悠くんとのデートが目的だったくせに」
「えっ? なんで知ってるのよ? ……もう、アキったら早速しゃべったわね?」
「誤解だってば。文句ならワライバの前を通った悠に言ってよ。その瞬間をめぐに目撃されてるんだからね。ま、ちゃんと訂正しておいたけど」
そこへ悠くんがやってきた。デートしてきた後というだけあって表情は明るい。その悠くんにくっ付いたママはまるで彼が夫であるかのように見上げ、目を合わせた。
「悠、なんでワライバの前を通ったの? めぐに見られちゃったじゃない!」
「なんでって言われても、いい抜け道なんだからしゃーないじゃん。それに彰博の提案で出かけてきたんだから、何もやましいことはないだろ?」
「それが、どうやらめぐには私と悠が恋愛デートしてきたように見えたらしいよ?」
「へぇ……。そんなにいい感じに見えたかな、おれたち。確かに手つなぎデートはしたけどさ」
「はいはい、そこまで」
パパはくっつき合う二人を割くように引き離した。しかしその顔は笑っている。
「お母さんを慕うような氣持ちでエリーに寄り添うのは結構だけど、自分が中年の男だってことを忘れないように」
「むっ……。映璃、やっぱり近々二人だけでデートしようぜ。だめか?」
「言ったでしょう? まなちゃんの問題が解決したらって。それまではお預け」
「……ちぇっ、分かったよ。さて、めぐも帰ってきたし、そろそろ話すとしようか」
悠くんはそう言って小さくため息を吐いたが、すぐに立ち直ってわたしたちを居間に集めた。真面目な顔つきになったのを見て、さっき車の中でパパが言っていた「大切な話」が始まるのだ、と直感する。
悠くんはまなを傍らに呼び寄せた。そして一同を見回すと一氣に想いを伝える。
「映璃と話して決心がついた。おれはこの夏、沖縄に行く。まなを連れて。そこでちゃんと……今度こそ迷いを断ち切るつもりだ」
まなを除く全員が目を丸くした。最初に疑問を口にしたのは翼くんだ。
「……それって愛菜ちゃんを亡くした海に行く、ってことだよな?」
「ああ」
「だったら俺も行く。俺は泳げないけど、一度行ってみたいと思ってたんだ」
「わたしも行きたい。まなは連れて行ってわたしは置いてく、なんて言わないよね?」
「お前らならきっとそう言うと思ってたよ。ああ、行こう一緒に。沖縄の海へ。……ってことで、彰博には悪いんだけど」
悠くんが言いかけると、パパはすべてを理解したかのように頷いた。
「母のことだろ? 大丈夫、ちゃんと引き受けるよ。エリーも兄貴もいるし」
「ああ、よろしく頼むぜ。……オバア。おれたち、夏の間何日か家を空けようと思ってます。お土産も持って帰りますので、それまでどうか元氣でいてください」
「わたしのことは何も氣にしなくていいのよ。若い人はまだまだ人生長いんですもの。悩みがあるならちゃんと解決して、みんなで楽しく生きてちょうだい」
「はい」
返事をした悠くんは祖母の前で膝をつき、目を見てその手を握った。二人は無言ながらも通じ合っているかのように何度も何度もうなずき合った。
その様子を、まながじっと見つめている。まるでこれから起きることすべてを見通しているかのように。
(この子はいったい何を思っているのかしら……?)
疑問を抱きながら凝視していると、ママがそばにやってきて言う。
「……実はめぐが仕事に行っている間、四人で話し合ったのよ。だからまなちゃんも自分がこの夏どこへ行くのか、そしてそこで何が起きるのか、ちゃんと分かってると思うよ」
「四人」とはママたち中年組と、まなのことだろう。それを聞いて、ママが訪ねてきたのは単に悠くんを励ますためではなく、まなに大人の話を聞かせる目的もあったのだと知る。
「ありがとう、ママ。いろいろと氣を遣ってくれて。……さっきは勘ぐったりしてごめんなさい」
「私はただ、大好きな人たちの笑顔が見たいだけよ。それと、悠に関して言えば下を向いた顔より、堂々と胸を張ってる時の方が格好いいからね」
「それは言えてる! ……って、やっぱりママは今でも悠くんのこと……?」
ほんのり匂う香水に氣づき二人を交互に指さす。しかしママも悠くんも顔を見合わせて微笑んだだけだった。
20.<翼>
梅雨の間は毎日のように降っていた雨も、明けてからはまったく降らなくなった。代わりに肌を焼く日差しがさんさんと降り注いでいる。そんななか南国に行ったら真っ黒に焼けちゃうんじゃないかと心配にもなるが、悠斗曰く、都市部と沖縄とでは暑さがまったく違うのだという。
七月下旬。休みを合わせた俺たちは明日、真夏の沖縄へ飛ぶ。荷造りはすでに終えている。あとは飛行機に乗るだけだ。もちろん、まなを連れての初旅行なので不安はゼロではない。だけど、これはまなのための旅でもあるし、きっと本人だって分かっているはず。あとは問題なく現地に到着できることを祈るばかりだ。
仕事を終えて帰宅し、夕食を終えるころになってようやく太陽が沈んだ。それを待っていた悠斗とめぐちゃんは「夕涼みしてくる」と言ってまなと散歩に出かけていった。
その間に俺はアキ兄と夕食の後片付けをする。アキ兄がこの家にやってきてからというもの、二人で台所に立つのが日課になっている。俺はこの時間が好きだ。と言うのも、たいていは何かしら秘密の話ができるからだ。楽しい話題じゃないことが多いけど、アキ兄の頭の中の話は深く、聞くたびに新しい発見がある。
今日も「これからする話は……」と言う前置きから始まる。俺はどんな内容でも聞けるようにと身構える。
「……時が満ちるまで、悠とめぐには話さないで欲しい」
続く言葉を聞いて、それが祖母に関することだとすぐに察した。俺が小さく頷くと、アキ兄は再び口を開く。
「……氣づいているかもしれないけど、おばあちゃんの食欲はかなり落ちてる。実際、医者の診断結果もよくない」
「やっぱり……そうなんだ……」
夏の暑さも影響してか、祖母の体調は日に日に悪化している。悠斗が沖縄に行くと宣言した一ヶ月前までは元氣にお喋りしていたのに、今ではそれも難しいくらいに元氣を失っている状態だ。
「なら、旅行は延期した方がいいのかな……」
「いや、すべての物事は最適なタイミングで訪れる。だから君たちは、まなちゃんと向き合う今回の好機を逃しちゃだめだ」
「でも……」
「翼くん」
アキ兄は洗い物をする手を止め俺に向き直る。俺も作業をやめて正対する。
「実は君たちの留守中、兄貴にも……君のお父さんにも来てもらうことになってる。おじいちゃんの時もそうだったけど、兄貴はやっぱり最期を見届けたいって氣持ちが強くてね……。場合によっては君たちの帰宅後もしばらく滞在することになるかもしれないけど、それほど長引くことはないだろうと思ってる」
「つまり、親子だけで最期の時間を過ごしたい、と……?」
「そういうこと。……君の家で僕ら兄弟が厄介になるなんて申し訳ないなぁと思うけど、母さんがこの家と孫たちを氣に入ってる以上は仕方ないよね」
「俺は、ばあちゃんと楽しい時間を過ごせたことは人生の宝物だと思ってるよ。めぐちゃんも悠斗もきっと同じ思い。だけどやっぱり最期は息子であるアキ兄たちが一緒にいるべきだと思う。ばあちゃんだってそれを望んでいるはずだよ」
「ありがとう……」
アキ兄はそう言うと祖母が眠っている部屋に目をやった。
「まったく、母さんが羨ましいよ。最晩年を優しくて理解ある孫たちに囲まれて過ごせた上に、最後の最後には僕たち息子といられるんだから。おまけに伴侶の迎え付きと来てる。……僕もそういう後半生を生きたいものだ」
「出来るよ、アキ兄にだって。なんせ義理の息子は俺だし、めぐちゃんはパパッ子だし、まなもじいじが大好きなんだぜ?」
「うん、そうだね。君が義理の息子ってのは本当に有り難いよ。……悠には悪いけど、こうして実際に暮らしてみると、翼くんとの生活力の違いを嫌でも感じちゃうよね」
「まぁ……。悠斗は基本、テキトーだからな……。やっぱ、結婚には向いてないと思ってる」
「うん。深い愛情があればいい、って訳じゃないことを今更ながらに実感してるよ。だから頼りにしてるよ、翼くん。まなちゃんのことも、悠のこともよろしく頼む」
「任せといて。その代わり、ばあちゃんのことはアキ兄に任せたから」
「了解。万が一のことがあったら、そのときは真っ先に君に連絡を入れるよ。ただし、こっちに戻ってくるのは君たちがミッションを完遂した時だ」
「……うん」
念を押され、自分が託された任務の重さと託した想いの強さを改めて感じる。アキ兄にはここまで俺を見守り、「野上翼」の人格を一つにするための助言をくれた恩義がある。その恩義に報いるため、そしてまなやめぐちゃんのためにも、俺はこの旅で最低でも一回りは成長しなければならない。
肩に力が入った俺を見てか、アキ兄は優しく微笑む。
「そんなに思い詰めなくても大丈夫。君は君の優しさを発揮するだけでいい」
「優しさ……?」
「そう。優しさを含んだ君の言葉は強いよ。それに影響されて生き方を変えた人間を僕は何人も見てきた。だから自信を持って」
「……だけど、それは俺に限った話じゃないよ。俺だってアキ兄や悠斗の言葉には何度もハッとさせられてきた」
「僕や悠の言葉は経験から出たものだ。氣づきは与えられても、誰かの人生を変えるほどの力は持ってないよ」
「そうかなぁ?」
「そうさ。君は自分の弱さを自覚してる。だから、同じように弱さを持つ人を見ると放っておけない。それが君の優しさであり、強さだ」
「そうはっきり言われちゃうと照れるなぁ……。ま、旅中もいつもの俺でいればいいってことだな?」
「そういうこと。もっとも、何か問題が発生したって元演劇部の君ならめぐや悠の前でも氣丈に振る舞うことは可能だろ?」
「ああ、演じるのはお手のものさ」
背筋を伸ばし胸を叩くと、アキ兄は満足そうに頷いた。
「旅の無事を祈っているよ。氣をつけて行ってらっしゃい」
21.<孝太郎>
紆余曲折の末に和解した僕と庸平はその後一氣に心の距離を縮め、僕の部屋で共同生活を始めるまでになった。基本的には別行動だが、目指すものが同じだと氣づきはじめた庸平が、自身の成し遂げたいことと並行して「みんながまんなか体操クラブ」設立のために協力してくれることになったのは喜ばしい変化だ。
周囲の人間は彼の変化に驚きを隠せない様子だが、いがみ合っていた僕らが終始和やかにしている点については好意的に受け取っているようである。
今日はその庸平も交えてワライバで打ち合わせることになっている。本来であればここに野上クンと悠斗クンが加わるはずだが、二人とも家の事情でしばらく参加が難しいため、今回は僕に入れ込んでいる同居人に同席してもらおうというわけだ。
黙って会議を聞くつもりはない、と事前に宣言していた庸平は打ち合わせが始まるなりさっそく発言する。
「だけど、いいのかよ。野上のやつともう一人のメンバー抜きでどんどん話を進めちゃって」
大津クンが作成した体操クラブの案内チラシに目を通しながら庸平が言った。
「了承は得ているから心配無用だ。以前ならともかく、今の僕は仕事より家族を優先すべきだと思ってるからね。事が落ち着くまで彼らは彼らの仕事を、僕らは僕らの仕事をすればいい」
「……ほんのちょっと前まで仕事の鬼だったお前の発言とは思えねえな。そんなにゆるくて大丈夫なのかよ。このチラシだって、野上を交えて精査したほうが……」
「まったく、予想外ですよ。途中から話に加わった水沢センパイにおれたちの心配をされるなんて」
大津クンが感想を言うと、庸平は更に意見を述べる。
「そりゃあ心配にもなるぜ。先日から何度か体操クラブの話を聞かせてもらってるけど、出た案を総括していたのは野上だった。その野上が不在だってことになれば、そもそもこの会議自体やる意味があるのか、疑問すら湧いてくるよ」
「ふーむ……。つまり庸平は僕と大津クンの二人では会議が成り立たないと?」
「だってよぉ、子どものためのクラブって言いながらお前ら、子どもを持つ親をどうやって集めるつもりだ? チラシ配ったりこの店に案内を張ったりすれば自然に集まると思ってるみたいだけど、世の中、そんなに甘くねえぜ? これでも俺は会社員やってたんだ、人集めが簡単じゃないことは経験的に知っている」
まさか庸平に会社員時代の経験を持ち出されるとは思ってもみなかったが、言われてみれば確かにそうかもしれない。大津クンも痛いところを突かれたような顔をしている。
「……そう言うんなら、何かいい案が?」
問い返すと、庸平はうつむいたあとで躊躇いがちに言う。
「……俺さ。孝太郎と暮らすようになって色々考えてみたんだけど……。俺のやろうとしてることと孝太郎のやろうとしてることをミックスできねえかなと思っててさ」
「ミックス……?」
「こっちもさ、子どもがいて初めて成り立つ集まりだからよぉ。対象が同じなら……そして目指すところがおんなじなら、子ども集めは一緒にした方が効率的なんじゃないかって。あー……。これはまだ本郷や春山には伝えてない考えだから、もしかしたら受け容れられないかもしれねえ……。だけど、案としては悪くないだろう?」
「まさかまさか、ここに来て水沢センパイが歩み寄ってくるとは! いいじゃないですか! 一緒にやりましょうよ!」
大津クンは彼らしい喜び方を示した。
「だけど、具体的にはどうやるつもりです? 提案するからには考えてあるんでしょう?」
「まぁ、案ってほどのものじゃあないが、それにはやっぱり野上の力が必要だ」
「野上センパイの力? 永江センパイじゃなくて?」
「ああ。今の孝太郎じゃダメだ」
はっきり「ダメだ」と言われて、野上クンと僕とでは何が違うか考える。
思い当たる節があるとすれば、闘志の有無だ。が、仮に野上クンが僕より闘志を持っているとして、それが体操クラブの会員集めとどう関係があるというのだ……?
「君が野上クンの力を借りようとする理由が分からないな……。僕より彼の方が優れている点がどこなのか、具体的に教えて欲しいものだな」
「分からない、か……。なら、そうだな……。今から野上に会いに行くか」
「えっ……。しかし、彼はいま母親の介護中で……」
「介護ったって、四六時中世話をするわけじゃないだろ。家まで行って、十分かそこら話すだけなら大丈夫だよ、たぶん」
「うわっ、水沢センパイ、軽いなぁ……。でも確かに、そういう前向きさは必要かもですね」
大津クンは腕を組んで頷くと、カウンターの奥から出てきて僕の肩に手を置いた。
「永江センパイ、おれの代わりに行ってきて下さい。野上センパイならたぶん話を聞いてくれます」
「しかし……」
「新しいことを始める時ってのは、思い切りが必要なんですよ。さっき水沢センパイが『ダメだ』って言ったのは、そう言う躊躇いの態度だと思いますよ」
大津クンからもダメ出しされてしまった。二人から言われた以上は動かざるを得ない。
「……分かった。野上クンのところへ行こう。ただし、彼の都合が悪かった時は直ちに引き返すこと」
「そのくらいの常識は持ち合わせてるよ。よし、それじゃ案内を頼む」
22.<庸平>
野上の人生観、経験値、統率力を改めて知った俺は、その能力を小さな体操クラブ発足のためだけに使うなんてもったいないと思っている。あいつには今でも熱い闘志がみなぎっている。その熱量は希死念慮を持つ孝太郎を説き伏せ、また俺を三球三振に打ち取って考え方を変えさせたほど大きなものだ。そんなパワーがあるなら使わない手はあるまい。
あいつが俺たちに会って話を聞いてくれるかどうか。半分は、賭けだ。けど、せっかく膨らんできた夢を放置すれば萎んでしまうかもしれない。俺はそっちの方が嫌だ。
孝太郎曰く、野上は今、高齢の母親を見舞うため息子夫婦の家で仮住まいしているという。その息子たちは数日間不在で、家にいるのは野上の母親と弟の三人だけらしい。
先に電話の一本でも入れた方がいいのではと言う孝太郎に対し、俺は直接訪問することを推した。
「電話でお伺いを立てるのは柄じゃねえんだ。アポ無しで飛び込んだほうが俺らしいだろう? ま、断られたら、そんときゃそん時よ」
「……いろいろ言いたいことはあるが、この一件に関しては君の責任で頼むよ」
どうやら孝太郎は俺の強引なやり方が氣に入らないらしい。しかしそう言いながらもちゃんと家まで案内してくれるのだから、少しは俺の考えを聞いてみたいと思ってくれているんだろう。
*
野上の息子夫婦の家は、タクシーで五分ほど走ったところにあった。綺麗に手入れされた庭には、ひまわりやサフィニアなど真夏でも元氣な花々が咲いている。インターフォンを鳴らすと、弟らしき男性が応答した。水沢だと告げると、彼は落ち着いた声で「お待ちください」と言ってマイクをオフにした。
程なくして野上が玄関先に顔を出す。弟と違い、こちらは慌てた様子で額に汗までかいている。
「いきなり訪ねてきたからびっくりですよ。一体どうしたんですか。何か問題でも発生したんですか?」
「いや、問題はない。ただ、直接相談したいことがあってな。時間は取らせない。ちょっとだけ話せるか?」
「そりゃあ構いませんけど……」
野上の目が孝太郎に向けられる。しかし孝太郎は孝太郎で俺に視線を投げる。説明はお前がしろ、と訴えかけるような目だ。
「そう警戒するな。俺はお前の才能を認めた上で協力を仰ぎに来たんだ。聞けばきっと首を縦に振りたくなる」
「……外は暑いし、立ち話もなんだから、とりあえず中に入ってください」
野上は表情を変えなかったが、そう言って俺たちを家の中に引き入れてくれた。
*
通されたダイニングルームには弟がいて、目が合うと会釈をされた。
「いま、お茶を入れますね」
「氣遣いは無用だよ。すぐに帰る。ありがとう」
冷蔵庫の方を向いた彼を孝太郎が制すると、彼は一礼の後やはり氣を遣うように別室に姿を消した。
数秒の沈黙。野上は居心地が悪そうにダイニングチェアに腰掛けていたが、程なくして口を開く。
「あのー、相談事って一体……?」
「ああ。相談って言うのは体操クラブに加入してもらう子ども集めについてだ。さっき孝太郎たちにも少し話したんだが、単にチラシを作って配るだけじゃダメだと俺は思ってる。やるならもっと目立ったことをしないと本当に知ってほしい人に知ってもらえない。野上もそう考えてるんじゃないかと思ってな」
「えっ、どうして水沢先輩が体操クラブの子ども集めの話を……?」
予想通り疑問をぶつけてきた野上に、俺はさっき孝太郎たちにした話を伝えた。野上は俺の話を頭の中で整理するかのように少し時間をおいたあとで再び問いかけてくる。
「先輩の考えは分かりました。それで、具体的な方法は? ……って聞いときながらおれ、なんとなくピンときちゃったんですけど、もしかして……?」
「おっ、さすがは野上。じゃあ答え合わせしようか。俺が考えている子ども集めの方法は、子どもたちが遊んでいる公園やグラウンドで野球の体験会を開催するというものだ。しかも予告無しで。人は、急にイベントが始まったら注目するし、人だかりが出来ていれば輪の中心で何が起きているかを知りたい人間が必ず寄ってくる。そう言う心理を利用するんだ。もちろん、野球に興味がある親子、ない親子、他のスポーツに興味がある親子……といろんなパターンが考えられるだろう。チラシを配るのはそのタイミングだ。実は体操クラブもあります、と。指導者は元プロを始め、野球経験者がメインではあるものの、目的はあくまでも親子が触れ合い、楽しく身体を動かすことだと野上が丁寧に説明すれば、ただビラ配りをするより何倍も効果があると考える」
「……やっぱり、野球で釣る作戦でしたか」
野上は腕を組んで唸ったが、思案するような顔を見る限り前向きに検討してくれているようだ。野上が迷っているならばと、俺はダメ押しのひと言を付け加える。
「もし成功すればお互いにメリットがあると思うんだ。ただし、実行に移すには今の孝太郎じゃ勢いが足りない。そこで野上に持ち前の行動力と思い切りの良さを発揮してもらおうというわけだ。……どうだ、やってみる氣はないか?」
「……どうしておれに頼もうと?」
「お前の、野球のその先を目指そうとする精神、そしてそれを成し遂げようとする情熱に心動かされたからだ」
「……先輩にそんなふうに口説かれるとは」
野上は恥ずかしそうに笑い、鼻の下をこすった。
「分かりました。おれ、水沢先輩ほど行動力があるとは思えないけど、口説かれちゃったらやりますよ。永江先輩、一回だけやらせてくれませんか」
「……これは僕一人で成し遂げられることではない。慎重になりすぎるあまり事が停滞するというなら、営業マンだった君たちに全権を委ねるよ」
「ありがとうございます」
野上は頭を下げて礼を言いつつ、孝太郎を氣遣うように「……って言っても、うまくいく保証はありませんが」と付け加えた。
「ただチラシを配ったって人が集まる保証はないんだ。どうせやるなら、とことん目立っちまおうぜ」
「氣持ちが若いなぁ、水沢先輩は。でもそう言うの、嫌いじゃないですよ」
俺の言葉に賛同した野上は立ち上がって手を差し出した。
「……おれ、今はちょっと身動き取れないけど、計画だけは進めといてもらえませんか。落ち着いたら必ずやります」
「おうよ。準備は任せろ。待ってるぜ」
「はい」
「……話はまとまったようだな」
腕を組んで話を聞いていた孝太郎が椅子から立ち上がった。そして俺たち二人と肩を組む。
「こういう勢いのある話を聞いていると何だか昔を思い出すよ。闘志、とはいかないまでも、僕もやってやろうかという氣持ちになってきた。元プロ野球選手、永江孝太郎を演じてみるのも悪くないかもしれない」
「おっ?!」
「えっ!!」
俺と野上はそれぞれ声を発した。
「なら、孝太郎もやってくれるか?」
「体操クラブを作りたいと言い出したのは僕だ。今までは野上クンたちにおんぶに抱っこだったが、あとは人を集めるだけというところまでこぎ着けたら僕だって一肌脱ぐさ」
「それでこそ、俺の知る永江孝太郎だ。……その日くらいはかつてのユニフォームを着て欲しいもんだぜ」
「悪くない相談だな」
俺たちが笑い合っていると、野上もほっとしたように笑みを浮かべる。
「最初はどうなるかと思ったけど、二人はやっぱり氣の合う親友なんですね。安心しました。先輩方なら、祐輔たちにもうまく話をつけてくれると確信してます」
「そうだったな……。本郷夫妻にも俺たちの計画を話して賛同してもらわないと。よし、孝太郎。いるかどうかは分からないが、この勢いのままあいつらの部屋に行って交渉だ」
「了解」
「お二人とも、よろしくお願いします」
野上は俺たちに向き直り、深々と頭を下げた。その肩に孝太郎が手を置く。
「君はお母さんとの時間を過ごすことに集中して欲しい。後悔はしたくないんだろう?」
「はい」
「僕は思うよ。君が悔いなく事を終えた時、そしてまなちゃんたちが戻ってきた時、新しい日常が始まると。……ゆっくりでいい。氣持ちが落ち着いたら新しい日々を一緒に生きよう」
「先輩……」
「今日は貴重な時間をありがとう。さぁ庸平、次の仕事に向かおうか」
孝太郎は野上にさっと背を向けて玄関に行くと素早く靴を履き、ドアを押し開けた。置いていかれそうになったので慌てて呼び止める。
「ま、待てよ孝太郎。帰りのタクシーが迎えに来るまで玄関先で待たせてもらったほうが……」
「庸平」
「ん?」
「走りたくなった。マンションまで走って帰ろう」
「……はぁっ?!」
孝太郎の思いつきに呆れた俺は、灼熱の外を指さす。
「だ、だけどこの暑さの中を走るのは危険じゃ……」
「高校生の頃は炎天下のグラウンドを走り回っていたじゃないか。君たちと話していたら久々にあのときの感覚を味わいたくなった。行こう、庸平」
そう言いながら孝太郎は走り出した。その後ろ姿の格好いいことと言ったら……。
「分かった、分かった。どこまでもついていくよ……。じゃあな、野上。弟とお袋さんによろしくな」
「はい。次に会う時はおれも一緒に走らせてください」
野上の返事を聞き届けた俺は、すでに小さくなっている孝太郎の背中を追うように走り出した。
23.<悠斗>
沖縄の海は数年前に訪れたときと同じようにキラキラと輝いていた。
「この海が愛菜ちゃんの命を奪ったなんて信じられないな……」
「そしてその愛菜ちゃんが『ここ』にいることも……」
翼とめぐはそれぞれの想いを口にし、手を合わせた。
*
おれが今回取ったのは、前回縁あって出会った「沖縄のオジイ」のいる宿だ。幸いなことにオジイは健在で、おれたちを出迎えるためにわざわざチェックインの時間に合わせて家から出てきてくれたのだった。
「オジイ。お元氣そうでよかった。また会えてうれしいです」
「私も嬉しいですよ。ほほう、この子は……」
オジイがまなの目をのぞき込む。
「なるほど。今回沖縄にやってきたのはそういうことですか……」
「やはり、分かりますか。オジイには」
「分かりますとも。鈴宮さんの考えも、この子の正体も」
オジイが再び見つめると、まなはめぐに縋ったままわんわん泣き出した。
「ごめんなさい……。おじいさんに見つめられたのが怖かったみたいです……」
めぐが釈明すると、オジイは「謝らなくてもいいんですよ。私には全部分かっていますから」と言って笑った。
「小さな宿ですが、ごゆるりとお過ごしください。また夜にお目にかかりましょう」
*
通された部屋からは、西に傾き始めた太陽に照らされた海が見えた。四人きりになると、翼が窓から海を眺めながら言う。
「悠斗から聞いていたとおり、不思議なじいちゃんだったな。夜にまた会おうって言ってたけどあれって……?」
「いつだったか話したことがあると思うけど、オジイは人魂を集められるんだ。以前会ったときには、おれもそこの海辺で愛菜の魂に触れた……」
「ああ……。そういうことか……」
納得した翼に対し、めぐは疑問を投げかける。
「だけど、いま愛菜ちゃんの魂はまなの中に……。それでも同じことが出来るのかな?」
「それはおれにも分からない。だけど、やってみるしかない。転生した愛菜と、精神的にでも繋がれる方法を手当たり次第試す。その一つを実行するためにおれはここへ来たんだ」
「本氣……なんだね……?」
めぐが鋭い眼差しを向ける。
「ああ。おれはもう、逃げないよ」
その目を正面から見つめ返す。その言葉が嘘ではないと分かったのか、めぐはふっと口元を緩めた。
「そうだよね……。昨日も、春日部神社のご神木さまの前で誓ったもんね。……わたしも逃げない。この子の未来がどんなものであっても、わたしは受け容れるつもりでいる」
「めぐちゃん……」
決意を聞いた翼がその名を呟いた。
「見守るだけなの……? めぐちゃんはそれでいいの……?」
「……わたしは、この子を信じる」
言い切っためぐからは母親の強さが感じられた。しかし翼は不満げだ。少し考えるそぶりを見せてからおれの名を呼ぶ。
「……悠斗。夜を迎える前に、二人きりで話がしたい。俺の考えを伝えておきたいんだ。ちなみにめぐちゃんにはすでに伝えてある内容だ」
「もしかしてあの話……?」
問うためぐに、翼は無言で頷いた。
「いいだろう。せっかく沖縄に来たんだ、暑いけど海を見ながら話そう」
「オーケー」
返事をした翼もまた射貫くような目でおれを見つめ返した。
*
不思議なことに、オレンジ色に染まりかけた海には誰もいなかった。おれたちは海風を感じながら、また波の音を聞きながら海に向かって立った。
「はっきり言うから覚悟しろよ」
翼は波音にかき消されないよう、腹に力を込めるようにして言う。
「俺はまなの父親だ。悠斗との過去がどうであれ、まな自身は今に生きている。もし、あの子が俺たちの話す内容を理解しているのであれば、俺は愛菜ちゃんに自分の生き方を選び取って欲しいと思ってる。悠斗に決めてもらうんじゃなくて。それともう一つ。もし悠斗が愛菜ちゃんとの思い出を胸に生き続けると決め、あの子にそれを伝えるつもりなら、悪いけど俺は全力で阻止する。つまりは愛菜ちゃんとの思い出を『消す』。俺が臆病者の悠斗を『殺した』ように」
「なるほど、お前はおれだけじゃなく、おれの娘の愛菜をも手にかけようというわけか」
「もちろん、これは最終手段だ。出来ればそんなことはしたくない。だから、そうしなくても済むように、今から悠斗を説得しようと思ってる」
「説得を考えているってことは、おれとお前の意見はぶつかり合うと思ってるわけだ。……だけど、生憎だったな。おれはすでに映璃に説得されてこれまでの考えを改めてるんだよ。愛菜とじっくり話し合った上で、愛菜自身に決めさせようってな」
翼は目を丸くした。
「……ここに来るまでの間に一つ、大きな決断をしてきたってわけか」
「そういうことだ。だからお前が罪を背負う必要はないよ。……心配するな。あの子ならきっとおれたちの望む未来を選び取ってくれるはずだ」
「……そう願うよ」
呟いた翼は遠くの海を眺めた。
*
その夜、夕食を摂ったおれたちはオジイに連れられて先ほど翼と話していた宿の前の海辺に向かった。
まなは抱っこひもで翼にくくりつけられている。初めて海を見たまなが、好奇心から夜の海に入らないようにするためだ。
「あの、おじいさん。鈴宮悠斗以外は霊感がないんですが、それでも霊魂を見ることが出来るんでしょうか?」
儀式が始まる直前になって翼が質問した。オジイはそっと両手を天に向ける。
「心の目で見てご覧なさい。感じてご覧なさい。あなた方が望めば必ず見えますよ」
そう言ったすぐあとで、以前にも見たオレンジ色の人魂が目の前に集まってきた。
「……見えるか? 今、人魂がそこかしこに……」
呟くと、翼とめぐは揃って小さく頷いた。どうやら目に見える現象に戸惑っているようだ。辺りをキョロキョロと見回している。
「さぁ、話してごらん? 今なら声が出せるはずだよ」
オジイがまなに向かって声をかけた。すると、まなの身体から光の球が飛び出してきてぐるぐると周囲を飛び始めた。それはやがて鈴宮愛菜の姿になって目の前に現れる。
『こうして話すのは久しぶりだね、おとーさん。……パパとママは、初めましてかな?』
語りかけられたおれたちは息を呑んだ。
「……ここまでの話はすべて理解しているな?」
おれの言葉に愛菜は頷く。
「おれは今日ここで愛菜と、とことん話し合う。だから愛菜も逃げずにおれたちの話を聞き、自分の氣持ちを言葉にしてほしい」
『愛菜の想いは一つ。おとーさんとの思い出を胸にこの世界で生きることだよ。ずっとしゃべれなかったとしても、いつか文字を書くことを覚えたらお手紙交換でおしゃべりできる。愛菜はそれができれば幸せなんだよ』
「違う。そんなのは幸せじゃない!」
真っ先に声を上げたのは翼だった。しかし愛菜は反論する。
『愛菜の幸せがパパに分かるの? こんなことを言ったらパパを悲しませるかもしれないけど、愛菜にとっての一番はやっぱりおとーさんなんだよ』
「悠斗が一番好きだから、俺じゃなくて悠斗の言うことを聞くって言うのか……?」
愛菜が頷くと、翼は胸の前にくくりつけたまなを押しつぶすように抱きしめた。それを見て、いたたまれなくなる。
「……愛菜。おれを好きだと言ってくれるのは嬉しいよ。だけど、翼の言うことは正しいとおれも思う。愛菜はおれにこだわりすぎてる。確かにおれの子として過ごした日々はあった。だけど……残念だけどそれは過ぎ去った日々なんだ。どんなに願っても取り返すことの出来ない過去なんだ。……愛菜はあのときここで言ったよな? たとえ過去の記憶がなくなっても、新しい愛菜との思い出を作っていけるよね? って。あれは嘘だったのか?」
愛菜は今にも泣き出しそうな顔でうつむいた。しかし涙をこぼすことはなく、愛菜自身も思いを語り始める。
『それは、おとーさんがママを選ぶと思ってたからだよ。おとーさんの本当の子どもとして生まれ変われるって信じてたからだよ。だけど、おとーさんはそうしなかった。……愛菜が思っていたとおりにならなかったのがちょっぴり悔しくて意地悪しちゃったくらい……』
思いがけない告白を聞いて、ここまで黙っていためぐもついに口を開く。
「意地悪ってもしかして……身近な人の命と引き換えに生まれてくるって話? それじゃあやっぱり、木乃香のお母さんが言っていたとおり……?」
『うん。魂の状態で、生きている人の命を操る力はなかったよ。命の交換が出来るのは、お互いが生と死の狭間にいるときだけ。もしもあの時おとーさんが死んじゃってたら、たとえ順番が回ってきてもパパとママの子に生まれようとは思わなかったかもね』
「……そこまでして悠斗の子どもとして生まれ変わりたかったのはなんでだよ? 悠斗との間にどれほどの思い出があるって言うんだよ?」
翼が怒りを感じているであろう声で言っても、愛菜は淡々と答える。
『おとーさんはどんなときでも愛菜を守ろうとしてくれた。おかーさんより優しかった。そして、溺れかかっていた愛菜を必死に助けようとしてくれた。だから、またおとーさんの子になりたかった。それが理由だよ。……こんなに好きなんだもん。おとーさんだって愛菜のことが好きなら、この先もずっとあの頃の記憶を残したままにしてくれるよね? 愛菜との思い出を大事にしてくれるよね?』
じっとこちらを見つめるその眼差しを振り切るように、おれは何度も首を横に振る。
「……最後の最後で、大きな決断をおれに委ねるな。愛菜がおれのそばで生きたいと願い、めぐと翼の子として生まれ変わることを自ら決めてここにいるなら、この先の人生も自分で決めろ。愛菜にはそれが出来る」
きっぱり言うと、愛菜は押し黙った。おれが期待する答えを言わなかったからだろう。しかし、やっとの思いで絞り出した言葉が愛菜を悲しませてしまったと思うと胸が苦しくなる。拳を握りしめ半分うつむいていると、後ろから翼に肩を抱かれた。
目が合うと、翼は静かに一度だけ頷いた。言葉はなくともおれの発言を肯定してくれていることが分かった。めぐも寄り添っておれの握りこぶしを柔らかい手で包み込んでくれた。
自信を取り戻したおれは改めて言う。
「愛菜が過去を残すことを選んでも、たぶん期待には応えられない。だって、愛菜と過ごした日々の大半は、思い出すことが出来ないほど遠い昔のことだから。……おれは愛菜が死んだあともずっとこの世界で生きてきたんだよ。めぐと翼の子として生まれたお前とも二年間、新しい思い出を刻んできたんだよ。つまり、今を生きるおれにとっては、愛菜の死後こそが現実でありすべてなんだ……。ごめん、って言っても許してはもらえないだろう。だけど、生きるってそういうことなんだよ。愛菜がおれに生きて欲しいと望んだときから、こうなる未来は決まっていたんだよ。……愛菜はこんなおれでも、自分だけは過去の記憶を持ったまま生き続けることを望むのか? おれが愛菜の問いかけに答えられないと知ったあとでも、過去にこだわり続けるのか?」
愛菜の返事はなかった。
おれは「愛菜」ではなく、翼ごと「まな」を抱きしめた。めぐも同じようにし、三人で抱き合う形になる。海風が吹いていても、真夏の夜に抱き合えば汗が噴き出るほど暑い。それでもおれたちはやめなかった。
「……感じるか、おれたちの体温を。感じるか、おれたちの命の匂いを。これは今、生きているから感じられるんだ。おれはそのことをめぐから教わった。たったの八歳だっためぐから。……めぐがおれに生きる希望を与えてくれた。生きているめぐが、野上家のみんながおれを生かしてくれたんだ。時には痛みを感じることもある。苦しさを味わうこともある。だけどそれは、生きていなければ感じることの出来ないものだ。どれだけ感動を伴う体験をしても、過ぎてしまえばその感覚を今、ありありと思い出すことは難しい。……そう。生きている者にとっては今が、瞬間瞬間がすべてなんだ。……おれは愛菜と、今を生きたい。今、体温を感じあいたい。だから、一緒に今を生きよう」
「……そうだよ、愛菜ちゃん。俺もめぐちゃんも、君の存在を否定したくて過去を忘れて欲しいと言っているんじゃない。君が生きた証は『まな』という名に託してる。つまり君はもう一度『まな』として生きられるんだ、今度は自分の力で。悠斗もいる。君を愛する家族もたくさんいる。だから君には『今』を選んで欲しい。悠斗がそうしたように。俺が父さんと和解して一人の『野上翼』になれたように、過去を糧にこれからを生きて欲しい」
『神様に頼んでまで記憶を残してもらったのに、誰も褒めてくれないんだね……。おとーさんならきっと喜んでくれると思ってたのに。うんと褒めてくれると思ったのに……』
背後にいる愛菜の声は暗く沈んでいた。
「確かにおれは愛菜との再会を願っていたし、あの頃の思い出を語り合えたら……と思っていた時期もあるよ。だけど次第に思いは変化し、最後には完全に『今』に目を向けるようになっていた。……今のおれの望みは、まなの声を聞くこと。まなの声で『おとーさん』って呼んでもらうことだ。それは肉体を持たない、記憶の中の愛菜には出来ない。今、この腕の中にいる『まな』にしか出来ないことだ」
めぐも頷いて語り始める。
「愛菜ちゃんは、過去の記憶が悠くんと自分とを繋ぐ唯一のものだと思ってるかもしれないけど、わたしは違うと思う。悠くんは、たとえ愛菜ちゃんが過去の記憶をなくしても愛するはずだし、あなたは存在しているだけで悠くんやわたしたちを喜ばせることが出来る力を持っているんだよ。悠くんが言ったように、おとーさんとか、パパママって呼ぶことによっても」
めぐの言葉が終わると同時に頭上から声がする。
『本当は怖いだけなの……。おとーさんと過ごした日々を忘れてしまうことが。あの日々が……まなが生きたことが、なかったことになっちゃいそうで……』
光の球はおれたちのすぐ上にあった。それは明滅を繰り返しながら語り続ける。
『愛菜のことを忘れてもいいなんて嘘……。おとーさんが幸せでいればいいなんて嘘……。本当はずっと見ていてほしかったし、愛菜だって幸せになりたかった……。だけど、毎日泣いてうつむいてるおとーさんを見るのはもっと辛かったからあんなふうに……』
「ありがとう。お陰でおれはすっかり元氣になったし、こうして愛菜と再会を果たすこともできた。……だけど、幸せに見える今に至るまでには、翼に『殺され』、失恋し、死にかけるっていう、決して楽ではない道を歩いてきたことは知っておいてほしい。……愛菜。笑うためには、泣く必要があるんだよ。おれは愛菜のためにたくさん泣いたし、懺悔もした。だけど、その経験をしたことで人の痛みが分かるようになったと思うし、人間らしくなれたことをおれは誇りに思ってる。愛菜と過ごした日々の大半はもう記憶の彼方だけど、そのとき感じたことは身体が、魂が覚えてる。それじゃダメかな……」
想いを伝え終わると、光の球はおれたちの中心にいる「まな」の身体に戻った。
『……愛菜、覚えてる。昔々に、おとーさんにもこうして抱きしめられたことを。その時もこんなふうにあったかい氣持ちになったことを。……そっか。心が、魂そのものが覚えているんだね。だから、頭の中に残しておかなくてもいいんだね……。やっと、わかったよ……』
「愛菜」の声は、眠るように目を瞑るまなの内側から聞こえた。そっと頭を撫でてやる。と、再び声がする。
『……愛菜が残したかったのは、おとーさんと一緒に過ごした時の記憶じゃなくて、そのとき感じたあったかい氣持ちだったみたい……。このあったかさは、新しい人生を一緒に生きようと言ってくれる、おとーさんたちの命の温もりと深い愛情そのもの……。この先もずっと、感じていたいな……』
閉じたまなの目から一筋の涙がこぼれた。それは小さな光を放ちながら風に乗って海に散っていく。
『やっぱり鈴宮愛菜の人生はあのときに終わったんだって、ようやく分かった。鈴宮愛菜の記憶はこの海に置いていく。そして今から、野上まなとして新しい人生を生きていく。……おとーさんに言われたからじゃないよ。これは、愛菜が自分で決めたことだからね。後悔は……しないよ……』
「愛菜……」
『愛菜ちゃん……』
『さよなら、おとーさん……。今日まで鈴宮愛菜を愛してくれてありがとう……』
今にも消え入りそうなその声に向かって、涙を堪えながら言う。
「さよならじゃない……。愛菜の魂はこれからもずっとおれのそばにある。まなの中に……。だから愛菜が過去を手放しても、おれたちの関係は続いていく。……そうだ、次にまなが目覚めたときは『はじめまして』じゃなくて『また会えたな』って挨拶しよう。だっておれたちは、生まれる前からずうっと愛菜と繋がってきたんだから」
『うん、そうだね……! それじゃ、また……!』
まなの身体からオレンジ色の光が広がり、おれたちを包み込んだ。やがてあたたかい光は拡散し、見えなくなったときには周囲を飛んでいた人魂の姿もなくなっていた。
「……無事に話し合いが済んだようですな」
ずっとそばで見守っていたオジイが声を発した。
「ほう……。さっきまで二つあった意識が一つになっておる。この子の中で折り合いがついたんでしょうな。よかった、よかった」
すべてが分かっていると言っていたオジイが、まなをのぞき込みながら言った。
「オジイ、ありがとうございます。おかげさまで無事に沖縄へ来た目的を果たすことができました」
「私はただ、人魂を呼ぶ手伝いをしただけですよ。……皆さん、ずいぶん汗をかいておられる。宿に戻って汗を流すのはどうですかな?」
指摘されて自分たちの身体を見合いっこする。長い間抱き合っていたおれたちは、服からしたたり落ちそうなほどの汗をかいていた。まなを抱っこしている翼に至っては、髪までびっしょりだ。
「正直に言うと、このまま風呂に飛び込みたいくらい不快なんだよな。特にまなとくっ付いてるところが……。まぁ、悠斗に言わせりゃこれが生きてる証なのかもしれないけど、一仕事を終えたあとはさすがにひとっ風呂浴びたいぜ……」
「おれを信用出来ないお前がまなを引き受けたんだからしゃーないよな」
翼の胸元をのぞき込むと、抱っこひもにくくられているまなは氣持ちよさそうに眠っていた。
「じゃあ、交代で風呂に入ってから寝るとしよう。おれもさすがに疲れた……」
脱力した瞬間、激しい眠氣に襲われてあくびをする。つられるようにして二人も眠そうに目をこすった。
きっと今夜はよく眠れるだろう。しかし、心地よい疲れを感じながら宿に戻ったおれたちを待っていたのは「二度目の不思議な体験」だった。
24.<めぐ>
こんなに不思議な体験をしたのは初めてだった。しかし、ずっと会いたいと思っていた愛菜ちゃんと会って話し、わかり合った上で過去を手放してもらえたことは大きな収穫だった。これでいよいよ、まなの母親になれる……。そう思ったら急に安心し、強い眠氣に襲われたのだった。
宿に戻り、順番に入浴する。最後にお風呂から上がったわたしが部屋に戻ると、照明はすでに落とされ、悠くんも翼くんも眠っていた。まなに至っては、さっきの不思議な出来事の最中からずっと眠り続けている。本当はまなの身体も綺麗にしてあげたかったが、起こすのもかわいそうだったので明日の朝、目覚めたときに入浴させようと言う話になっている。わたしは三人を起こさないよう注意しながら布団に入った。
安心したからだろう。目をつぶったわたしは、数秒と経たないうちに眠りに落ちた。
◇◇◇
『めぐちゃん……。めぐちゃん……』
聞き覚えのある声がわたしの名を呼んだ。氣がつくとそこは光に満ちた場所で、まるで春のようにたくさんの花々が咲き、蝶や鳥たちがそこかしこを飛び回っていた。地面は柔らかい草で覆われ、暖かくていい匂いのする風が吹いている。
そこに、祖母が立っていた。祖母はわたしと目が合うとにっこり微笑む。
『愛菜ちゃんが手放した過去は、おばあちゃんが預かっておくからね。まなちゃんのお母さんとして、元氣にやってちょうだいね』
「どうしておばあちゃんがそのことを……」
『そりゃあ、孫たちのことが心配だったからねぇ。お留守番もつまらないから、身体は家に残してこっちに来ちゃった』
それが何を意味しているのか、理解するのに時間はかからなかった。
(もしかしてここは、天国と地上とを結ぶ世界……?)
胸がギュッと締め付けられる。すぐにでも駆け寄りたい……。しかし身体は思うように動かない。まるで祖母がそれを阻止しているかのようだ。
「どうして……待っていてくれなかったの……? ただいまって、言いたかったのに……」
声を絞り出す。祖母は相変わらずニコニコしている。
『愛菜ちゃんが過去を手放したら一緒に持って上がろうと決めていたのよ。挨拶はそのときにしよう、ともね』
どこからやってきたのか、氣づけば祖父が祖母に寄り添っていた。悠くんから聞いていたように本当に迎えに来たのだろう。
「おじいちゃん……。どうしても連れて行ってしまうの……?」
『そう悲しむな、めぐ。肉体は滅びても、愛菜ちゃんのようにまた生まれ変わることは出来る』
「…………」
『めぐちゃんは今回のことで分かったはずよ。過去の記憶を持ち続けることが必ずしもいいわけじゃない、って。むしろ、忘れていた方が新しい人生を生きやすいって。……とはいえ、おじいさんは悠斗君を試すようなことを言って楽しんでいたみたいだけど』
『愛菜ちゃんが神に交渉する姿が健氣だったからつい、な……。しかし、悠斗さんはちゃんと自分の氣持ちを愛菜ちゃんに伝え、愛菜ちゃんも自分の意志で過去を手放した。双方が納得した上での決断なら、肉体を持たないじいちゃんが言うことは何もないよ』
どうやら、悠くんを悩ませる原因を作ったのは祖父だったようだ。悠くんは祖父のことを実の父親のように慕っていたし、それが愛菜ちゃんに関することなら尚更だったろう。
「おじいちゃんはまだ過去の記憶を持っているけど、おばあちゃんを天に導いたらそのあとは……?」
『そうだな……。今世での役目はこれで終わるから、次の人生を生きるためには記憶も捨てねばならん。またばあちゃんと出会う人生を選ぶも良し、めぐたちとの再会を望むも良し。いずれにしても、めぐとこうして話すのはこれで最後になるだろう。過去を手放すとはそういうことだ』
「…………」
止めどなく涙が流れた。祖父母のことだけではない。わたしたちの想いを受け取り、実際に過去を手放してくれた愛菜ちゃんに対しても、だ。「今」を生きるためとはいえ、幼い彼女が恐怖を抱きながらも過去を手放すことがどれほど勇氣の要ることだったか……。それを思うと胸が締め付けられる。
泣きじゃくるわたしに向かって祖母が言う。
『思いのほか、長い期間孫たちと一つ屋根の下で暮らすことが出来て本当に楽しかった。路教と彰博には伝えたけれど、それが叶えられたのは息子やめぐちゃんたちのお陰よ。本当にありがとう』
「……お礼を言うのはわたしたちの方。何年もの間、心の支えになってくれてありがとう。おばあちゃんから教わったことはこれからも忘れずに続けていく。まなにも教えていく。……それで、いいんだよね?」
『さすがは、めぐちゃん。物わかりがいいわ。……めぐちゃんに涙は似合わない。わたしがここを離れたあとは、笑顔で見送ってね』
「うん……」
しかし、涙が止まる氣配はない。祖父母はそんなわたしを静かに見守っている。しばらくしてようやく涙が止まると祖父母が動き出す。
『まなちゃんによろしくね。ひいおばあちゃんのことは忘れてしまうかもしれないけど、一緒に過ごせて楽しかったわ、ありがとうって伝えておいてね』
『さて、と。それじゃあそろそろ向かうとしようか』
『ええ……』
祖父が手を差し伸べ、祖母がその手を取った。二人はすっと浮き上がったかと思うと、やってきたときと同じように突如として消えた。
◇◇◇
「おばあちゃん……!」
自分の声に驚き辺りを見回すと、窓の外はすでに明るく、夜が明けていることが分かった。
「……ゆ、夢?」
わたしは単に夢を見ていただけなのだろうか。それにしてはずいぶんリアルだった。枕を濡らしたあとまで残っている。
「……もしかして、めぐと翼も見たのか」
おはようの挨拶より先に悠くんが口にしたのはそれだった。見ると、彼の目もまた泣きはらしたように赤くなっているではないか。翼くんも、涙の跡こそないが硬く口を結んだまま黙り込んでいる。
「……ただの、夢だよ」
そう言ったわたしは直後に空しくなった。最後の祖父母の姿が目に浮かび、再び目頭が熱くなる。
そのとき、翼くんのスマホが鳴った。血相を変えた彼の様子を見て嫌な予感がする。その証拠に、彼は電話を手に取ると足早に部屋を出て行った。
「めぐ……。ちゃんとお別れできたか? ずいぶん泣いたみたいだけど」
悠くんが静かに言った。その言葉に押し出されるように再び涙が込み上げる。
「未練がないかと言えば嘘。もう一度おばあちゃんの温かい手を握りたかったのが本音。だけど……お礼は言えた。愛菜ちゃんの過去の記憶もちゃんと持って帰ってくれるって約束してくれた。だから……」
「そっか……」
「悠くん……!」
わたしは彼の胸に飛び込んで声を上げて泣いた。悠くんが優しく頭を撫でてくれる。と、突然背中にあたたかみを感じた。それは、さっきまで寝ていたはずのまなの手の温もりだった。振り向いて目が合うと、まなはにっこり微笑んだ。
「まま。いいこ、いいこ……」
「まな……。言葉を……」
初めて「ママ」と呼んでくれたこと、わたしを慰めてくれたこと。嬉しい出来事が重なって、悲しい涙が一転、うれし涙に変わる。悠くんもまなの頭を撫でることで喜びを表現する。
「まな。約束、覚えてる? ……また、会えたな」
「おとーたん! あぇたね!」
聞いたままを繰り返している、と言えばそうかもしれない。が、わたしも悠くんも愛菜ちゃんとの約束は今を生きるまなの口を通して果たされたのだと確信した。
わたしたちがつかの間の喜びを感じていると、まなが辺りをキョロキョロし始める。
「……ぱぱ?」
どうやら翼くんを探しているらしい。
「パパは今お電話中だよ。大丈夫、すぐに戻ってくるよ。あ、そうだ、まな。これからお風呂に入りに行こう。とっても氣持ちがいいんだ。ね?」
わたしが声をかけると、まなはわたしのリュックから自分の着替えやおむつを出し始めた。観察しているとわたしの着替えまで出そうとしている。本当に賢い子だ。
悠くんが、心を落ち着かせるように一度深呼吸してから言う。
「朝食までまだ時間があるし、二人でゆっくりしてくるといい。おれは翼が戻ってくるのを待つよ」
「じゃあ、お言葉に甘えて。おしゃべりに花が咲いて長風呂しちゃうかも……」
「いいんじゃないか? おそらくこのあとはバタバタするだろうし、今のうちに休んでおけよ」
今後のことに話が及び、再び氣分が落ち込む。部屋の外に出たら、「祖母の死」の連絡を受ける翼くんと電話の主の会話を聞くことになるだろう。悠くんは優しい言葉をかけてくれたが、果たしてわたしは穏やかな心を保ったままでいられるだろうか……。
25.<翼>
祖母とさよならする夢を見た。夢に出てきてくれるなんて、最期まで孫思いのばあちゃんだったな……。そう思って静かに目覚めると、目を腫らしている悠斗とめぐちゃんの顔が飛び込んできた。祖母はどうやら二人にも挨拶をしたようだ。あまりにもぐちゃぐちゃな顔の二人。普段通り「おはよう」と声をかける雰囲氣ではなく、俺は口を噤んだ。
と、直後にスマホが騒ぎだす。絶妙なタイミングでかかってきた電話。部屋を出て行きながら通話ボタンを押し、完全にドアが閉まったところで声を発する。
「もしもし……」
『翼くん? ごめんね、朝早くから。アキが、翼くんに真っ先に電話する約束をしたって言うもんだから』
電話口の声はエリ姉のものだった。番号がアキ兄だったから一瞬戸惑ったが、すぐに電話に集中する。
「じゃあ、やっぱり……」
『ええ。明け方に……』
最後の部分がぼかされていても、それが祖母の死の連絡であることはすぐに分かった。
エリ姉がアキ兄のスマホから電話してきたってことは、覚悟していたとは言えアキ兄が受けたショックは大きかったのだろうと想像する。俺だってそうだ。自分たちが不在の間に亡くなるかもしれない、とは聞いていたものの、まさか沖縄に発った翌朝に別れがやってくるなんて想定外だ。父もそう思っているに違いない。俺たちが発つ前日の晩、一週間くらい滞在する予定で荷物を持ってきていたんだから。
黙り込んでいるとエリ姉が事務的に連絡事項を告げる。
『アキが言うには、このことを悠たちに伝えるタイミングは翼くんに任せるって……』
「……すぐに伝える。ばあちゃんが俺たち全員に最後の挨拶をしていってね。ほんの少し前に目覚めて互いにそのことを確認した直後にこの電話を受けたんだ」
『そう……。まなちゃんの件は?』
「解決済みだ。だからチケットが取れ次第、今日にでも帰るよ。葬儀の日時が決まったら、いつでもいいんで連絡をくれると助かる」
『分かったわ。……無理してない……?』
ドキッとした。本当は胸がザワザワしている。だけどここは俺の演技力が試される場面だ。なんとかして元氣を装わなければならない。
「俺は大丈夫……。今のところは。だけど、部屋に残してきた二人はどうかな……。今ごろ号泣しているかもしれない」
『……悠もめぐも、懐っこくしてたものね。……アキですら電話が出来なくなるくらい落ち込んでるし。ここは少しでも動ける人間が引っ張っていかないと。……翼くんにその役を任せて大丈夫、かな……?』
「アキ兄にも任されてるんだ、なんとか役を演じきるよ」
そのとき部屋からめぐちゃんが出てくるのが見えた。彼女と目が合う。
「じゃ、切るね」
一言だけ告げた俺はすぐに電話を終えた。
洗面用具とまなを抱えている様子から察するに、朝風呂に行くのだろう。一声かけておこうと近づくと、まなが「ぱぱ、いた!」と声を発した。突然のことに思わず「ええっ!!」と声を上げる。
「パパって言えるようになったの!? うっわぁ、嬉しいなぁ!」
めぐちゃんから奪い取るように、汗でべとつくまなを抱き上げる。まなはご機嫌な様子で「ぱぱ、おふろ!」と言って廊下の先を指さした。
「翼くんが電話をしに出て行ってすぐよ。突然『ママ、いい子いい子』ってわたしの背中をさすってくれて……。夢で見たとおり、おばあちゃんが愛菜ちゃんの過去の記憶を天に上げてくれたんだろうね、きっと」
俺が聞くより早く、めぐちゃんが経緯を説明してくれた。しかしその声はどことなく震えている。
「まなは、ママを慰めてくれたのか。優しい子だな……。うん、やっと思いを伝えられるようになって嬉しいって顔してる。パパも嬉しいよ」
出来るだけ明るく振る舞うも、次第にめぐちゃんの表情が悲しみに寄ってくる。俺は彼女を抱きしめた。
「……ばあちゃんの方からちゃんと最後の挨拶に来てくれたじゃん。無事にお別れできたんだろ? 後は感謝の氣持ちを伝えて送り出そうよ。残された俺たちの役目は、ここにいるまなと共に新しい日々を生きていくことじゃない? ばあちゃん、そう言ってなかった?」
「……うん」
「愛菜ちゃんも言っていただろ、過去の記憶はこの海に置いていくって。だから俺たちも、過去はこの、沖縄の海に置いて帰ろう。身軽になろう。家に戻ったら新しい日々が待っている。生きている限り、俺たちは前進することしか出来ないんだ」
「……なら、お風呂で思いっきり泣いてくるね」
「そうしておいで。……まな、ママをよろしくね」
「ん!」
まなは俺の腕をすり抜けて降りると、めぐちゃんの手を取り風呂場に向かって歩き始めた。人の死に接したとき、故人との繋がりや思い出が多ければ多いほど、失ったときのダメージも大きい。しかしそれが無いまなは、今の状況下においては最も頼れる存在なのかもしれない。彼女の力強い足取りを見てそう思わずにはいられなかった。
*
部屋に戻ると布団はすでに畳まれており、悠斗はひとり、開け放した窓から海を眺めていた。彼は俺が戻ったことに氣づくと、そのままの姿勢で「電話は済んだか?」と言った。
「ああ……。内容は、言わなくても分かるよな?」
「……オバアのことだろう?」
「ああ……。葬儀の詳細が分かり次第、連絡をもらうことになってる。こっちはこっちですぐにでも動けるように飛行機のチケットを手配しておこう」
「そうだな……」
言葉少なな様子を見て、彼もまた心に深い傷を負ったのだと知る。ここは俺が頑張らねばと、話題を振る。
「……そうそう、そこでめぐちゃんとまなに会ったよ。っていうか、まなが『パパ』って呼んでくれて。もう、それだけでテンション上がっちゃったよ」
「……ふっ。嬉しいだろう? 呼ばれると」
少しだけ笑った悠斗の顔を見てホッとする。
「……悠斗がまなの発話を選んでくれたこと、感謝してるよ」
「……これでおれも本当の意味で前に進める。今はそう思うようにしてる。……こんな言い方をしたらやっぱり未練があるんじゃないかと思われるだろうけど、正直、そうだよ……。まぁ、こんなふうに感じてしまうだろうことは最初から分かってたんだけどな。映璃から、どっちを選んでも後悔すると言われていたから。分かってたことをおれは今、味わってる。それだけのことさ……」
「エリ姉がそんなことを……」
「あいつは強いよ……。幼い頃に両親に見捨てられ、妊娠できない身体に生まれたことを知り、若い頃に育ての祖父母を亡くし……。それらを乗り越えてきた映璃の言葉は重みが違うぜ」
「確かに、エリ姉に言われたんじゃ反論のしようもないな……」
「自分の決定を百パーセント受容できるほどおれは強くない。過去を残す選択をしていたらどうなっていただろうと考えもする。だけどおれはもう、まなの未来を選んだ。後戻りは出来ない。お前らを信じて未来を生きる。たぶんこれが、おれにとってもみんなにとっても幸せなことなんだ……」
「悠斗……」
「オバアにも言われたしな。これからも野上家のみんなをよろしくって。……最近は時々、自分が鈴宮姓だってことを忘れかけるくらい、野上家に溶け込んでるおれがいるよ」
「っていうか、アキ兄いわく悠斗は『義理の息子』なんだろ? 溶け込んでるどころか、もはや野上家の人間だよ。いっそ、野上姓を名乗ってもいいんじゃね?」
「馬鹿言え。おれはこの名前が氣に入ってんだ。この命が尽きるまで、おれは鈴宮悠斗を名乗るぜ」
「はは、冗談だよ、冗談……」
「ま、氣持ちだけは受け取っておくよ。……さて、今日は忙しいぞ」
悠斗はそう言うなり荷物の整理を始めた。
◇◇◇
なんとか今日中に帰れる便に飛び乗った俺たちは沖縄を後にした。自宅に帰り着くと俺の両親とアキ兄、エリ姉が集まっていて慌ただしく動き回っていた。
そんな中でも場を和ませてくれたのはやはり、まなだった。ずっとまなの発話を願っていた両親は、まなの口から「じいじ、ばあば!」という言葉を聞いて感涙し、頬ずりまでして喜んだ。それが愛菜ちゃんの過去の記憶と引き換えだったことを両親は知らないが、事情を知っているアキ兄とエリ姉は静かに喜びを味わっている様子だった。
◇◇◇
祖父の時同様、葬儀は身内だけで行った。笑っている写真が多すぎてどれにしようか迷ったようだが、遺影には祖父母宅の前で最後に撮ったものが選ばれた。園芸が好きだった祖母にふさわしく、遺影の周りには色とりどりの花が飾られている。
祖父の時には氣丈にしていた父だが、今回の落ち込みは尋常ではなかった。最後の親子水入らずの時間があまりにも短かったことが原因なのだろうが、父にとって祖母の存在がいかに大きかったかを思い知らされる。
普段の豪快な父を知っているがゆえに、うつむいたままひと言も発しない姿を見せつけられた俺たちは声をかけることはおろか、近づくことさえ出来なかった。
そんな父に唯一歩み寄っていったのはまなだ。まなは父の傍らに立つと「じいじ、いいこいいこ」と言って背中をなで始めた。めぐちゃんと悠斗が顔を見合わせる。
「あのとき、わたしにしてくれたのと同じ……」
「ああ……。落ち込んでいる人間を励ますまなの姿は、幼い頃のめぐにそっくりだよ」
さすがの父もまなの優しさに触れ、少しだけ顔を上げた。
「ありがとな……。だけど、まなちゃんみたいに笑えないじいじは、ちっとも良い子なんかじゃないよ……」
そこへアキ兄が歩み寄る。
「兄貴はじゅうぶん親孝行したと僕は思う……。良い子だったかどうかは母さんが決めることだ」
「…………」
「母さん、言ってたじゃん。一緒に最後の時間を過ごせて良かったって。あれが最上級の感謝の言葉だと……」
「分かってらぁっ……! だけどっ……! 勝手に涙が出てくるんだよっ……!」
そう言って父は涙を堪えながらそばにいたまなを抱きしめた。
*
火葬が終わり、精進落としの席で俺はギターをかき鳴らして歌った。これは俺の勝手な思いつきなどではない。祖母からの頼まれごとだ。
「ばあちゃん。約束通り歌ったよ。俺の声、天まで届いた?」
「あんがと、ぱぱ」
俺の言葉に答えるようにまなが言った。まるで祖母の言葉を代弁しているように思え、涙が込み上げる。
「そんなに良かったなら、もう一曲歌おうか?」
まなを始め、親戚一同が拍手をする。俺は涙をごまかせるように、出来るだけ明るい曲を選び、再び歌い始めた。
――やっぱり、つばさっぴの歌は最高ね。
遺影の中の祖母がそう言って微笑みかけてきたような氣がした。
後編
26.<孝太郎>
野上クンから「すぐに会いたい」と連絡が入ったのは、彼が母親を亡くした一週間後のことだった。落ち着いてからで構わないと何度も念を押すも、彼は「じっとしているのは性に合わないんで」の一点張りだった。昔からそうだが、彼は一度こうと決めたらとことん貫く性格だ。
彼の強い意志に応えるべく、僕は連絡を受けた日の晩に会う約束を交わした。彼の希望により、落ち合った場所は鈴宮&野上家だ。
「なんで、よりによってうちなのさ……?」
訪問するなり不満を口にしたのは翼クンだった。幼児の生活リズムに合わせて動いている彼らの家に突然、中年の男二人が乗り込んできたのだから無理もない。僕は参加したことがないから分からないが、子どもに早寝早起きの習慣を身につけさせるのは非常に大変なのだと聞いたことがある。
しかし野上クンはそんなことはお構いなしと言った様子で淡々と理由を述べる。
「ユウユウにも話し合いに参加してもらうために決まってんだろ。おれは家の用事が済んだし、ユウユウも体調が良くなった。だったら体操クラブの本格始動に向けた話し合いもどんどん進めていくべきだと思ってな。……ああ、ユウユウ。そういうわけだからこのあとの話し合いに参加してくれ」
「えっ、今から……?」
玄関に顔を出した悠斗クンは驚きを隠せない様子だったが「ニイニイがここに来たのはおれに逃げ場を作らせないため、か」と言って渋々ながら承諾したのだった。
*
僕らはすっきりと片付いている居間に通された。ここは長らく野上クンの母親の居場所だったが、亡き後は所持品も整理され、現在はテーブルと座布団だけが置かれている。
「それで……。先日言っていた話ですが、具体的な案は出てるんですよね? 早く聞かせてください。すぐにでも動けますから」
彼は座る間もなく僕に言い迫った。その様子から、やはり母親の死を引きずっていると感じた。こういうときこそ何かに集中して氣を紛らわせたいというのが本音なのだろう。しかし僕には僕のペースがある。
「まぁ、待ちたまえ」
座布団に腰を下ろし、悠斗クンが運んできてくれた水を一口飲む。それから呼吸を整え、庸平と詰めていた計画を伝える。
「いくつか案がある。一つ目は僕がプロ選手時代の、庸平は社会人野球チームに所属していた時代のユニフォームを着て例の親水公園グラウンド――先日君が庸平を三振に打ち取ったあの場所――に行き、野球をしている子どもたちに声をかけて簡単な指導をする。その中で僕らが何者であるかを明かして勧誘するというもの。二つ目は、そのグラウンドで先日のようにミニ野球を行うというもの。庸平が派手にかっ飛ばす姿をあえて見せつけることで注目を集め、集まった子や親にチラシを配布する」
「うわっ、かっ飛ばしちゃうんですか」
「そのくらいのパフォーマンスをしないと人の注目は集められない、というのが庸平の主張だ」
「水沢先輩らしいな。確かに、せっかくやるならとことんデカいことをしたいですね」
「三つ目の案はもっとすごいぞ。本郷クンの知名度を利用して大々的に人を集める方法だ。体操クラブに入会したいという人をどれだけ拾えるかは未知数だが、間違いなく多くの人に知ってもらえるだろう」
「祐輔を巻き込む……」
最後の提案では案の定、微妙な反応が返ってきた。野上クンが本郷クンのことを今でもライバル視していることはこちらも承知している。
「三つ目は、僕も庸平も君が素直に受け容れられる案だとは思っていない。あくまでも案の一つだと考えて欲しい」
「うーん……」
「やはり不満かな?」
「野球人育成機関の方は祐輔もメンバーだし、三つ目の案でやればいいと思います。だけどおれとしては、体操クラブはもっと自力って言うか、過去の偉業抜きでどれだけやれるか試してみたいんですよね。水沢先輩に提案された、いきなり野球を始めて注目を集める方がおれ的にはヒットって言うか……」
「では、野上クンは二つ目の案が好みだと?」
「三案の中からって言うなら」
「その言い方は引っかかるな。……もし、君にも案があるなら聞かせてはくれまいか?」
発言を促すと、彼は「それじゃあお言葉に甘えて」と言い添えてから口を開く。
「おれ、今回母親と最後の時間を過ごす中で氣づいたことがあるんです。……親ってのはいくつになっても子どものことを心配するんだなって。もう孫がいるような年齢になったって言うのにですよ? もちろん、おれにも子どもがいるから親の氣持ちは分かります。不器用な親であればあるほど、あれこれ手や口を出すことでしか愛情を表現出来ないんだってね。けど本当に子どものことを思うなら、子どもの可能性を信じて見守るのが正解。母親の死に目に遭ってようやくその解にたどり着いたんです。……これまで、体操クラブに携わる動機は親目線……いや、おれ目線でした。だけど今は、子どもに寄り添った目線で考えなければ意味がないと思い始めてます。せっかく永江先輩が立ち上げようとしてる体操クラブなんだから前例のないものにしたいっていうのもあります」
「その考えには同意します」
ここで悠斗クンがようやく口を開いた。
「まさにおれも、ニイニイと時を同じくして沖縄で同じような境地に至りました。親が子どもの歩く道を決めるのではなく、子どもに選ばせる。だってその道を実際に歩くのは子どもなんだから。……おれはなにも、体操クラブの主旨を否定しているわけではありません。ただ、人集めをする段階から、ニイニイの言うように子供目線で親子の触れ合いが出来るようなやり方をした方がいいんじゃないかと思うわけです」
「なるほど。子育て経験のある人間の意見は実に参考になるな。しかし、それなら具体的にどう行動する? きれい事を並べたり、派手なパフォーマンスをしたりして親の興味を引こうとするこれまでの案を否定するなら、代案を示してもらえないか?」
代案を出せと言った途端、二人は黙り込んでしまった。
「ああ、もう……。黙って聞いてらんね」
そのとき、呆れ顔の翼クンが部屋にやってきた。「勝手に入ってくるなよ」と言った野上クンの言葉を無視して翼クンは持論を展開する。
「あんたたちは子どもと関わる仕事をするって言いながら、子供のことがちっとも分かってない。夏休みが終われば、運動会、遠足、秋祭りやハロウィンといった行事が目白押しなんだぜ? どうしてそれらを利用しようって発想にならないわけ?」
『あっ……』
僕らは同時に声を発した。盲目的な僕らを見た翼クンが笑う。
「俺が体操クラブの創設メンバーならこう提案するね。運動会の前に『かけっこが速くなりたい子、集まれ!』的なイベントを開くのはどうか、ってな。悠斗はどうか知らないけど、コータローさんは元プロ野球選手だから走り方を心得てるだろうし、父さんだって暇さえあれば走ってんだから教えられるだろ? それなら体操クラブでやろうとしていることからもズレてないし、小さい子でも無理なく出来る」
「くっそぉ。翼の提案が一番ありだと思ってるおれがいるぞ……」
「翼なぁ、こう見えておれだってそれなりに走れるぜ?」
野上クンと悠斗クンはそれぞれ苦言を呈しながらも、翼クンの提案を受け容れている様子だ。かくいう僕も、である。
「翼クンの提案は完璧だ。こんなことならもっと早く意見を聞くべきだったよ」
「いつだったか、言っただろう? 直接手を貸すことは出来ないけど、アドバイスくらいはするよって。……俺だって、純粋無垢な子どもたちにはまっすぐ育って欲しいと思ってるし、あんたたちがやろうとしてる活動自体には賛同してるからな。どうせやるなら、これまでの教育機関にはないぶっ飛んだ内容の体操クラブにして欲しいもんだ。これでも期待してるんだぜ」
「言われるまでもなく、奇人変人の僕らが寄って集まってるんだ、自然とそうなっていくさ。……だろう?」
目配せすると、二人は少し困ったような顔をして互いを見合った。
「ええと、例えば仮に運動会を見据えて動き出すとして……。具体的にはどうしましょうか?」
「僕の頭の中にはいま、一つのアイディアが浮かんでいる」
じっとしていられなくなった僕は立ち上がって言う。
「とにかく、走る。それも、『みんながまんなか体操クラブ』の名を掲げて」
『えっ!』
「どうだろう? みんなでやればなんとかなりそうじゃないか?」
『えぇっ!?』
二人は僕の提案があまりにも意外だったのか、驚きの声を上げることしかできない。面白がっているのは翼クンだけだ。
「いいじゃん、いいじゃん。あー、コータローさんの友だちの水沢って人にはバットを持って走ってもらうのはどう? そしたらどっちのニーズにも応えられそうじゃん?」
「なるほど。それも面白そうだな……」
この場に庸平がいたら反論されそうだが、やはり野球しか知らない人間の頭で思いつくことには限界があると思い知らされる。そこへ野上クンが新たな案を出してくる。
「だけど、水沢先輩の案をボツにするのはやっぱりもったいないな……。第一弾は『走る』。第二弾で『野球体験会』をするっていうのはどうでしょうか?」
「庸平案にこだわるとは。やはり君も野球がしたいようだね」
「いやぁ。あんなふうに口説かれたらやりたくなりますよね。それに、何度も宣伝すれば認知度も上がるし、口コミで広がることも期待できます」
「なら、俺も園にチラシくらいは置いてもらえるよう働きかけてみるよ」
翼クンが眠そうに目をこすりながら言った。僕が「ぜひ、そうしてもらえないか」と頼むと、彼は「オーケー」と返事をし、直後に大あくびをした。
「……さて。言いたいことは言ったし、俺は寝るよ」
「えっ、もう?」
時計の針はまだ九時を回ったばかりだ。
「何言ってんの。子どもが寝たら寝るっしょ。っていうか、夜中に何度か起きるまなに付き合わなきゃなんないから、早めに寝とかないと保たないんだよな」
そう言って彼は寝る支度を始めた。
「……やれやれ、翼もいっちょ前になったもんだ。ちょっと前までめぐちゃんが好きだの、結婚したいだのって騒いでたのに、今じゃすっかり落ち着いちまってる」
野上クンの言葉に悠斗クンが頷く。
「自分を超えてほしいようなほしくないような、って感じですか……? やっぱりまだ翼との距離感が掴みきれてないって感じがしますね。ニイニイを見てると」
「おれだけじゃないさ。みんな何かしら、子育てで悩み、苦労する。だけど学ぶこともたくさんある。おれは後者の喜びを今の若い人たちにも知ってほしい。体操クラブではそういう想いも伝えていきたいんだ」
「ですね」
「……なぁ、ユウユウ。親子の話題になったところで一つ、聞いておきたいことがあるんだけど、いいかな?」
「はい、なんでしょう?」
「まなちゃんのことだ」
彼女の名前が飛び出した途端、悠斗クンの表情が硬くなった。野上クンはそのまま続ける。
「沖縄に行く前後であの子、まるで別人みたいに変わったよな? そりゃあ話せるようになったからってのもあるだろう。だけどそれだけじゃない氣がして。……沖縄で何があった? まなちゃんの祖父としてはどうしても知っておきたいんだよ」
「…………」
「おれには言えないか? 彰博には言えるのに? それは不公平ってもんじゃねえのか?」
悠斗クンはしばらくの間考え込んでいたが、観念したのか、やがて言葉を選ぶようにゆっくりと語り始める。
「……実はまなには前世の記憶がありました。魂の記憶ってやつです。……そのことを教えてくれたのは、めぐと翼の結婚式を取り仕切ってくれた宮司さんなのですが、彼女曰く、まなが話せないのはその魂が過去の記憶を手放さないからだ、と。それを知ったおれたちは前の魂のゆかりの地である沖縄を訪れ、沖縄の……霊能力者の力を借りて前世の記憶を解き放ってきた。それが真相です」
「その宮司って、鈴宮家に神を降臨させたあの……?」
「そうです」
「なるほど。にわかには信じられないけど、そうか……」
野上クンは納得したのか、深くうなずいた。
僕も、彼女に感じていた違和感の正体が分かり得心する。親近感を抱いたのはおそらくその、死者の国から舞い戻った魂と、死を求めていた頃の僕の記憶とが共振したからだろう。悠斗クンは続ける。
「除霊とか、そう言うんじゃないですよ。おれたちから魂に、『前の人生の記憶を手放してくれないか』と交渉したんです。前の人生の記憶を持つ魂は、最終的には自らの意志で野上まなとして生き直す決断をし、過去を手放しました。見方によってはおれたちが説き伏せたと言えなくもないけど、少なくともこちらの主張に納得した上での決断だったとおれは信じています。お陰様でまなは以前よりずっと穏やかになった氣がするし、日毎おしゃべりが上手になってもいます。そんな自然体のまなが好きだから、おれたち親は、あれこれ口を出さないと決めています。それが一番子どもの能力を伸ばせる方法だと思ってるんで」
彼はそこまで一氣に言うと、水を口に含んで一呼吸置いた。
彼がなぜ、実の娘ではないまなちゃんに入れ込んでいるのか。その理由がなんとなく見えてきた。彼はぼかしていたけれど、僕の勘が正しければその「前の記憶を持つ魂」と彼とは何らかの繋がりがある。あえて聞くつもりはないが、そう思った方が腑に落ちる。
野上クンも何かを察したのだろう。「『おれたち親』か……。彰博とユウユウとは長年の友人。昔のこともよく知る仲だもんな」と呟いた。
「なあ、ユウユウ。今の子育て、楽しんでるか?」
「もちろん。子育てだけじゃないです。おれはこれまでの人生で今が一番楽しいし、幸せです」
「そうだよな……。悪い、しょうもないことを聞いちまった」
「いえ。それもこれも、野上家の人たちが受け入れてくれたおかげ。本当に感謝してます。……ですよね、孝太郎さん?」
「そうだな……」
彼の身に起きたことは実際、僕にも当てはまる。
「彼ら、そして君がいなければ今の僕は存在していない。体操クラブを考案することもなければ、庸平とルームシェアをすることもなかっただろう。……そうだ。もしこのあと時間があるならどこかで軽く一杯引っかけないか? もう少しおしゃべりがしたくなった」
「おれは構いませんが、そういうことなら水沢先輩にも声をかけた方が。部屋で待ってるんでしょう?」
庸平の名を聞いて、主人の帰りを待つ犬のような顔が浮かぶ。
「あいつが僕の帰宅を律儀に待っているとは思わないが、もし一人で部屋にいるなら誘ってやるか。ああ見えて寂しがり屋だからな……」
「なら、連絡をお願いします。ユウユウはいける?」
「大丈夫です。場所はどうしますか?」
「ワライバはどうだろう。あそこなら融通が利くし、僕も氣楽に飲める」
二人はうなずくと、すぐに出かける支度を始めた。
27.<庸平>
本郷夫妻と、野球人育成機関および永江孝太郎ファンクラブの打ち合わせを終えたのが八時半。メチャクチャ腹が減っていたが、そろそろ孝太郎が帰宅する頃かもしれないと思い、夕食の誘いを断った。ところが、部屋に戻ってもあいつの姿はなかった。
「なんだよ……。まだ野上とくっちゃべってんのか?」
帰宅を待ってもよかったが、あいつの部屋で暮らす条件は、それぞれが自由な生活リズムで暮らすこと。タイミングが合えば一緒に食事をする程度の、ゆるい繋がりをあいつは求めている。
「ま、いっか……」
一人で飯を食いに行くのは慣れている。ただ、本郷夫妻と一緒だったら普段行かない店に行き、普段食べないものを食べただろうと思うだけのこと。それ以上の感情はない。
駅前には氣に入りの店がいくつかある。しかしさっきまで野球の話で盛り上がっていたせいもあり、足は自然とワライバに向いた。あそこは年がら年中、野球中継を流している。試合の流れ次第では、店主の大津と野球の話で盛り上がれるに違いない。
*
店に着くと、大津が親しげに挨拶をしてくる。
「いらっしゃい。今日はお一人ですか?」
そうだ、と返事をしようとしたまさにそのとき、孝太郎から電話がかかってきた。このあとワライバで一緒に飲まないか、という内容だった。たった今ワライバに着いたところだと伝えると、先に飲み食いしていてくれと言われ、電話は切れた。
「……あとから三人来る。酒はあるか? 一杯引っかけたいらしい」
「ビールならいつでも置いてあります。後から来る人って、永江センパイと野上センパイですかね? ビール掛けは外でお願いしますよ」
「いくら夏だからって、んな馬鹿なこと……」
言いかけて数ヶ月前、ここの店員のめぐさんから聞いた『ビール事件』を思いだした。ビール掛け、とはおそらくそのことだろう。どうやら大津にとっても記憶に残る出来事だったようだ。
「大丈夫だろ。今の孝太郎ならビールを掛けられても、大口を開けて飲み干してしまうだろうさ」
そう言ってカウンターテーブルにつく。
夜の定食を注文し、食べ始める頃に孝太郎たちがやってきた。孝太郎は何か言いたげな様子で俺をじっと見つめている。
「……な、なんだよぉ? ここで飯食っちゃ悪いか?」
「いや……。考えることは同じだな、と思っただけだ。それより……」
孝太郎はカウンター席に座る俺の隣に腰掛けるなり「とりあえず瓶ビールを二本」と告げた。
「今日は地元のクラフトビールがありますよ。安く手に入ったので。試してみます?」
「なら、今日はそれをもらおうか」
「毎度、ありがとうございます」
「それで? 話はまとまったのか?」
俺は食べる手を進めながら孝太郎に話しかけた。
「もちろん。結果を報告するために誘ったようなものだ」
孝太郎はニコニコしながら言う。
「走ることになった」
「……はい?」
「先輩、それじゃあ全然伝わらないですって」
野上が苦笑しながら言い、ことの詳細を丁寧に教えてくれる。孝太郎はその様子を、ビール片手に聞いている。
「なるほど。幼稚園の先生ならではの提案だな。お前らはそれに乗っかろうと、そういう話か」
「悪くないと思ってるんだが、庸平はどう思う?」
「確かに悪くはない。体操クラブは対象年齢が低いし、それでいいだろうよ。だけど、こっちは野球に興味のある小学生を対象にしてるからな。走ってる姿を見せるだけでどれだけ人集めが出来るか……。そうでなくても、本郷夫妻とは、先日から野球の体験会をするって方向で話を進めちゃっててな」
この場ではあえて言わないが、本郷たちは本氣で優秀な野球人を育成しようとしている。興味本位でやってみたいという人間は最初からお断り。心の底から野球を愛し、寝ても覚めても野球をしているような人間を、彼らは求めているのだ。
「祐輔ならそう言うでしょうね……」
野上は音を立ててビールを飲んでから反論する。
「だけど先輩。前にも言ったとおり、野球という枠の外に目を向けた方がいいとおれは思いますよ。祐輔はまだ野球界にいるから視野が狭い。でも先輩はもう、外にいる。だったら外から見て何が出来るか、あいつらにも提案しなきゃ」
「…………」
「おれからもひと言、いいですか?」
脇から話に入ってきたのは体操クラブ創設メンバーの一人である鈴宮さんだった。酒が入っているせいか、彼は熱心に持論を語り始める。
「この、野球人ばかりの組織になぜおれが関わろうとしたか。それはおれ自身、親と一緒にいられる喜びや応援される喜びを知っているからです。まぁ、親は子どもが夢中になってやっている姿を陰から応援することでしか繋がれないのかもしれないけど、おれはそれが純粋に嬉しかった。だから親になった今は、自分が子どもの才能を伸ばす手伝いをしたいんです。……最初から野球に限定しちゃったら伸びない能力もあるんじゃないでしょうか。翼がいい例です。あいつには音楽の才能があるのに、ニイニイから野球をするよう強いられて苦しんだ時期があったと聞きます」
「まぁ、そう言うなって。……翼から『ピアノを習いたい』って聞いたときには、さすがにおれも『ああ、やっぱりな』って思ったよ。義妹が弾く脇でよく真似事をしてたし、耳がいいなと思ってたからな。あのときは苦渋の決断だったけど、嫁さんが『やらせてみたらいいんじゃない?』っていうもんだから試しにピアノ教室に通わせてみたらあっという間に上達して……。ギターも独学で弾けるようになったし、高校で入った演劇部では一読しただけで台詞が覚えられたらしい。結果、今ではその才能を生かして仕事してるわけで、野球を無理強いしなくて本当によかったと胸をなで下ろしているよ。……そういうわけで、おれの過去の経験からしても、親の強い想いを押しつけるんじゃなくて、子どもの才能を見極められるような場を提供したい、ってのはあるよな」
「分かります」
二人は意氣投合した証と言わんばかりにグラスを交わした。
「先輩、言ったじゃないですか。野球のその先を目指すおれの精神と熱情に心動かされたって。だったら、走りましょうよ」
「だけど野上。忘れてるかもしれないが、一週間前には野球の体験会をやるって提案に同意して、その方向で計画進めとけって言ったのはお前だぜ?」
「ああ……。すんません。母親を看取ったら考えが変わっちゃったもんで」
「マジかよ……」
人の死は人生を大きく変えるほどの出来事だ、とはよく言ったものだが、野上もその一人とは……。
「庸平。もし僕らの考えに着いてこられなくなったというならいつでも離脱してくれて構わない。そもそも僕らは別の組織を作ろうとしているんだからね。だけど、君が野上クンの力を借りて何かを成そうというのなら考えを軟化させる必要がある。……飲みが足りないんじゃないか? 大津クン、庸平の空いたグラスに注いでやってくれ」
「はいはーい」
「おい、こら! 勝手なことを……!」
蓋をしようと慌ててグラスに手を伸ばすも時すでに遅し。大津が素早くビールを注いだ後だった。仕方なく、注がれたビールを一氣飲みする。そんな俺を穏やかな表情で見つめる孝太郎を見て観念する。
「あー、もう……! 分かったよ! 俺の負けだ。走る。走るよ、俺も。ただし、俺は野球少年・少女を集めたいからユニフォーム着て走るぞ! それでいいな?」
「ああ、好きにすればいい」
「くっそぉ。本郷夫妻になんて説明すりゃいいんだ……」
俺の酔った頭は大混乱していた。だけど、かろうじて冷静な部分が「この提案は絶対に受け容れておけ」と主張していてどうしても拒めなかった。それもこれも、間違いなく孝太郎のせいだ。
「両方やったらいいじゃないですか。おれは、先輩の推してる野球体験会もありだと思ってますよ」
野上が混乱するおれを助けるように言う。
「一緒にやりましょう。お互いに手を取り合えばなんとなりますって。とにかく、何でもやってみる。それが一番です」
「野上クンらしいな」
「ですね」
孝太郎と鈴宮さんはそう言って微笑み合った。
「お前ら、なんでそんなにポジティブなんだよ……」
「庸平には分からないか?」
呆れた俺を孝太郎が説き伏せる。
「僕たち三人に共通しているのは、すでに両親を亡くしているということだ。人は親を失うと、次は自分の番だと覚悟し、生き方を改める。起こる事を出来るだけ前向きに捉え、やれることは何でもやって後悔しない生き方をしようと思うようになる。……僕が言っても庸平にはピンとこないだろうが、僕らが前向きに見えるとしたら、おそらくはそういうことじゃないかな?」
「先輩の言葉に補足するなら、おれたちはまなちゃんを通じて、子供のみならず自分自身も幸せになる人生を創造したいと思ってる。だから、この先にあるのは明るい未来のはずだ! って信じて行動できるんです。そんなおれらが前向きじゃなかったら変でしょ?」
「愛する我が子のためならなんだって出来る。そういうものじゃありませんか?」
孝太郎に続き、野上、鈴宮さんが順に思いを語った。それを聞いて、俺は「我が子」にどれだけ関わっただろうか、と思い巡らす。
確かに娘は俺に懐いていてかわいかった。だけど結局野球はしなかったし、妻と離婚後、十年世界を巡っていた間に連絡も取れなくなってしまったから、今どこで何をしているのかも分からない。これまでは元氣でいてくれれば充分だと思っていたが、彼らの熱い言葉を聞いたら娘に会いたくなってる俺がいた。なのに口からは真反対の言葉しか出てこない。
「……俺にも娘がいるけど、娘とはキャッチボールをしたことすらない。野上が、野球をしてくれなかった息子とどう向き合ってきたかは知らないけど、俺は今更、そんな娘とは話すこともないよ」
「話すことから逃げちゃダメですよ、先輩。……って言いながら、おれの場合はあいつの方から歩み寄ってくれたわけなんですが、おれが息子の知る言語で話そうとしなかったから、あいつが無理をして『キャッチボールしよう』って。それがきっかけで和解することが出来たんです。とはいえ、長年の癖であいつには今でもキツく当たってしまうことは多々あります。ですが、あいつも負けてないですよ。今じゃ、お互いに言いたいことが言える。それが本当に健全な関係なんだと今では思ってます。だから先輩も、もし娘さんに会うことがあればお互いに納得がいくまで話し合ってみてください。絶対に変わりますから」
それを聞いて孝太郎とつい最近までやり合っていたことを思い出す。孝太郎は、俺がどんなに酷い言葉を浴びせてもそれを受け止め、その上で自身の考えを貫き続けた。野上もそうだった。最終的に、俺はあいつらの熱量に押されて考えを変えたが、不思議と敗北感がないのはこっちもこっちで言い尽くしたからだろう。だが本来、対話とはそういうものなのかもしれない。
鈴宮さんも、何かに思いを馳せるように遠くを見つめて言う。
「本当に伝えたい思いがあるなら、照れくさくても面と向かって伝えるべきです。二度と会えなくなって後悔しても、時間は巻き戻せませんからね……」
「……元氣出せよな、ユウユウ。そんな顔してたんじゃ……。あー……おれの母さんも浮かばれねえ」
遠くを見遣る彼から何かを察したのか、野上は自らの手で鈴宮さんの空いたグラスにビールを注いだ。
「……ニイニイこそ空元氣じゃないですか。心から笑えるようにならないとオバアの幽霊が現れますよ? 息子思いでしたからね」
「えっ、あっちの世界にいってまで心配されるのは嫌だな……。ちゃんと成仏するよう頼んでくれよ。霊が見えるんだろう?」
「現れた霊の姿は見えるけど、おれからはコンタクトが取れないんで……」
「えー、そうなの……? って言うか、今は見えてないよな?」
その後、野上たちは故人を偲ぶように亡くなった母親の話で盛り上がり始めた。
俺は大切な人を亡くした経験がまだない。いい年になっても近親者が健在だというのはありがたいことであると同時に、「死」というものが遠くに感じられる俺は精神的に未熟で、まだまだ視野が狭いと痛感させられる。
「……なぁ、孝太郎にとって『死』は特別なものじゃないんだよな? なぜだ? なぜずっと追い求めていたんだ?」
長年の疑問を口にするも、浅はかな問いだったのか鼻で笑われる。
「それは父の死後、この肉体を捨てれば再会できると、割と本氣で信じてたからだよ。僕にとって『死』は、別の国へ旅立つくらいの感覚でしかない。『異国への憧れ』と言い換えることも出来ようか。無論、一度旅に出てしまえば二度と同じ場所には帰れないわけだが、僕はもともとこの世界への帰属意識が薄いらしい。庸平を前にして言うことではないのかもしれないが、少し前までの僕はやはりいつ消えてもいいと思いながら生きていたよ」
「だけど、今は違うんだろう?」
「ああ。今は死後の世界に赴いた人の力で生かされていると実感している。そういう意味で死は特別なものではないし、今は追い求める対象でもない」
「そうか……」
「使命と言うと仰々しいが、今の僕は野上クンたちのお陰で生きる目的を見いだし、それに向かって日々歩んでいる。僕が生きてここにいるだけで価値があると言ってくれる人たちがいるうちは、死者の国への旅立ちは先延ばしにしようと思ってるよ。……とはいえ、いつ死者の国から迎えが来るかは分からないからな。庸平も、もう一度娘さんに会いたいと思っているなら早めに会った方がいい。後悔しないためにも」
「……氣が向いたらな」
そう言ってから、自分はやはりこの先もまだまだ生き続けるつもりで人生設計をしているんだなと思い知らされる。俺と、ここに集った三人とでは生きる姿勢が明らかに違う、って……。
「……人生ってそんなに短いもんかよ? 俺はそうは思いたくないな……」
「先輩。後悔先に立たず、ですよ。今やらなかったらたぶん、一生やらない。人間ってそういう生き物ですから、行動するなら絶対に早いほうがいいです」
野上が俺の呟きに応じた。
「……俺、こういう人生論って苦手なんだよなぁ。もっとこう、楽しい話しようぜ」
グラスを手に取りあおったが、ビールは一滴も残っていなかった。
「水沢センパイは、もうちょっと大人にならないとダメみたいっすね……」
大津が俺をたしなめながら、空のグラスにビールを注いでくれた。
28.<悠斗>
かつておれのそばで寝息を立てていた愛菜と、真夏の昼下がりに畳の上で昼寝しているまな。二人は別人だが、おれをほっとさせてくれる点だけは共通している。
沖縄から戻って一週間。おれが求めていたのは安らぎだったこと。そして目の前の子がおれの血を受け継いでいるかどうかは、実は最初から関係なかったことに今更ながら氣づく。
ここにいる幼子がすやすやと眠っている。それに幸せを感じるおれがいる。ただそれだけのこと。それが、生きるということなのだと改めてまなに教えられた氣がしている。
◇◇◇
ニイニイや彰博が亡きオバアの遺品を整理する傍ら、ちょうどいい機会だと思っておれも鈴宮愛菜の遺品をすべて手放す決心をした。この家で両親が管理していたわずかばかりのベビー用品やおもちゃ。家の修繕の際に発見されたそれをどうしても捨てることができずにいたのは未練があったからだ。しかし愛菜の過去と決別した今、所有し続ける意味はなくなった。
めぐや翼に相談すれば何か言われるに違いないと思い、今回ばかりは彰博にだけ打ち明けた。オバアの遺品に紛れさせて欲しいと頼むと、やつは何も言わずにうなずいたのだった。
◇◇◇
すっきりと片付いた居間は、オバアがこの家にやってくる前に戻ったかのようだった。それを見るにつけ、物には使っていた人の想いが宿るものなのだなと改めて思う。しかしそれは決して悲しむべきことではない。物に宿る氣配を感じられなくなったというだけで、共に過ごした日々の記憶は確かにおれの中にある。むしろ物への執着がなくなった分、前向きな氣持ちで思い出すことが出来るほどだ。それはニイニイも同じらしく、孝太郎さんの提案でワライバ飲みしたとき、オバア(彼にとっては母)に対する感謝の言葉をたびたび口にする姿は印象的だった。
そのニイニイたちと今度、走ることになっている。水の中を走るように泳ぐのは得意だが、正直言って陸上競技は苦手である。ついでに言うと、心臓に負荷を掛けるようなことはあまりしたくなかった。しかし翼に「走れる」と宣言した手前、迷惑を掛けない程度には走れるよう身体を慣らしておかなければなるまい。
考えた末、まなを遊ばせるついでに走ってみようと思いついた。
「まな。公園に行こうか。お父さんが走るの、見ててほしいんだ。頼めるかな」
「こーえん! いこー!」
おれの思惑など知るよしもないまなは、公園に行けると分かるや大喜びで靴を履き始めた。
*
早朝の公園にはまだ人がいなかった。八月も終わりが見えてきたが、朝から強い日差しが照りつけている。おれが準備運動をはじめると、横でまなが真似をし始めた。その様子があまりにもかわいらしくて思わずニヤける。
「おっ、まなも走るか?」
「ん!」
返事をしたまなは、にわかにおれの手を取ると引っ張るように走り始めた。おれはまなの歩調に合わせて走らざるを得ないから非常にゆっくりだ。とても走っているとは言いがたいけれど、体操クラブではこんなふうに手を繋いで走るのはどうだろうか、とアイデアが浮かぶ。
「ゆっくり走るのもいいな」
「おとーさんはもう走れるよ! だってここ、なおってるもん!」
まなが治っていると言った場所は心臓だった。驚きのあまり足を止める。まなには、おれが過去に心臓の病で倒れたことは教えていない。たとえ話したとしても二歳になったばかりのまなに理解できるはずがない……。
「治ってるって……どうして分かるんだ?」
「だって、まなたんが治したんだもん!」
「…………!!」
信じられなかった。まなの発言のすべてが。
「あ、ありがとうな、まな。とりあえず今日はブランコして帰ろうか」
なんとか言葉を返したものの、ひどく動揺していた。まなはブランコに意識が向いたのか、それ以上は何も言わずに遊び始めた。
◇◇◇
走る走らないにかかわらず、まなの言葉が氣になったおれは年一の定期検診の日を迎える前に主治医の元を訪れた。
ランニングを始めたいが、心臓が耐えられるのかどうか調べて欲しいと申し出ると、医師は「これ以上負荷を掛けるのはおすすめしません」と婉曲に禁止令を出した。
「とはいえ、そろそろ前回の検診から一年が経ちますから、レントゲンは撮っておきましょうか」
その顔はあきらかに、走るのは諦めなさいと訴えかけていた。専門知識を持つ医師だからこその発言。いや一般人でも、二度も心臓発作で倒れている人間が心臓に負荷を掛けるような行動を取ると聞けば、やめておけと忠告するだろう。しかし、おれの命がたびたび不思議な力によって救われてきたのもまた事実。まなが「治っている」と言ったのだから、きっと「治っている」。おれは自分の胸に手を当て、検査結果が出るまでひたすらに待った。
再び診察室に呼ばれたおれの目に飛び込んできたのは予想通り、現実を受け容れられない医師の姿だった。医師は看護師に何度も「これは本当に鈴宮さんのレントゲン写真なのか?」と尋ね、確認を取らせた。しかし紛れもなくおれのものだと分かるとようやくこちらに向き直った。
「……お待たせしました」
「あの、何か問題でも……?」
「ええ……。またしても奇跡が起きました」
医師は声を震わせて言う。
「あなたの心臓は傷一つない、きれいな心臓です。脈も正常ですし、これならスポーツを行っても何ら問題ない状態と言えるでしょう。……数年前、瀕死のあなたが生還したときも驚かされましたが、まさかもう一度奇跡を見せられることになるとは……。あなたはいったい何者なのですか?」
まだ奇跡を信じ切れないらしい医師は、何度も首をかしげた。
「何者なのか……と問われましても、おれはあなたと同じ生身の人間ですよ。ただ、ちょっとばかり運は良いようですが」
「もしこれが運のなせる技ならば、ちょっとどころかものすごく幸運ですよ」
「かもしれませんね。それで、ランニングはしても大丈夫ってことで良いんでしょうか?」
「構いません。ただし、あなたが二度、心臓発作を起こしたのは事実ですから、くれぐれも無理はしないように」
医師はどうしても過去のおれの姿が忘れられないらしい。許可を出しつつも最後の最後まで身体を大事にするよう念押ししたのだった。
*
家に帰るとめぐたちが出迎えてくれた。
「ねぇ、結果、どうだった?」
開口一番にそんなことを聞いてくる辺り、どうやら答え合わせがしたいらしい。
「ああ……。治ってたよ。完治ってやつだ。だから走っても問題ないってさ」
「じゃあ、まなが言ってたことはマジだったのか……」
まなを腕に抱いた翼は、そう言いながらもやはり信じられない様子だった。
「主治医の先生、メチャクチャ驚いてたぜ。また奇跡が起きたってな」
「そりゃあそうだろうな……」
「いったい何者なんだ、とまで言われたよ。あんたと同じ人間だって答えてやったけど」
「うっわ、そんなこと言ったの? 主治医の先生の顔、引きつってただろ」
「いや、呆れてたな、あれは」
「どっちにしても、心臓が正常になってよかったよね!」
めぐはホッとしたように言い、おれの胸に耳を当てた。
「あっ、ちゃんと動いてる。ドクドクって、規則正しくリズムを刻んでる。……悠くんの心臓さん、元氣になってくれてありがとう。まな、治してくれてありがとう」
「まなも、おとーさんといっしょに走りたいもん!」
まなはそう言うとすぐに翼の腕から降りて廊下を走り始めた。
「……彰博が言ったように、まなはおれたちの言葉をかなり理解してるみたいだな。って言うか、賢いを通り越して神がかってる……」
呟くとめぐが応じる。
「実際、そうなんじゃないかな……。前に春日部神社のご神木さまに触れたとき、木乃香がまなのこと『神様の申し子だ』って言ったことがあるんだけど、あれは本当だったんだって思ってるとこ」
「俺もそう思う。言葉を取り戻してからのまなの会話力は、二歳五ヶ月にしてすでに年少児並みだ。ひと月もすれば年長児か、それ以上の会話が出来るんじゃないかとさえ思ってる。遅れを取り戻そうと必死に吸収・発話してるってこともあるだろうけど、それだけが理由じゃないよな、きっと」
「これからどう育っていくのかな、あの子は」
期待に胸踊らせながら言うと、廊下の向こうからまなが「おとーさん、走ろうよぉ」と声を発した。
「よぉーし。せっかくだからお外に出て走るか。負けないぞ!」
「わーい!」
元氣に駆け寄ってくるまなを抱き留める。一瞬、忘れたはずの過去の記憶がよみがえり、重なった。
29.<めぐ>
このところ大きな出来事が続いたが、ようやく日常が落ち着いてきた。実を言うと、産後一年ほどで仕事復帰はしたものの、まなの発話の問題が発覚してからはそのことが氣になってしまい、心から仕事に打ち込めていなかった。しかし今ではそれもなくなり、以前のようにワライバでの仕事を楽しめている。
九月に入ったというのに、まだまだ暑い日が続いている。個人的には早く冷房いらずの秋がやってこないかなぁと思っているが、この頃の地球はわたしたちが住みやすい環境から遠ざかってしまっているようだ。
翼くんの勤める幼稚園では、二学期が始まるとすぐに運動会の練習をするのが通例だったそうだけど、熱中症の危険性が叫ばれるようになり、練習期間は本番前の一週間だけに短縮されることが決まったそうだ。そんな未就学児たちを対象に、屋外イベントを企画している孝太郎さんたち。実施日は天候を見て決めると聞いたが、双方が笑顔でその日を迎えられることを祈るばかりである。
◇◇◇
今日も朝から夏のような日差しが照りつけていた。店の前のプランターに植わっているミニひまわりが頭を垂れ、その隣でコスモスが元氣に咲き誇っている姿だけがかろうじて季節の移り変わりを感じさせる。
わたしがそのことを話すと理人さんは「いやいや、プロ野球のリーグ戦がもうすぐ終わるってところにおれは季節の変化を感じるけどね。ちなみに、今年の優勝は東京ブルースカイで間違いない」と言って店のテレビをオンにする。そしていよいよ始まった、永江孝太郎ファンクラブ会員向けの展示コーナーにあるショーケースを丁寧に拭き上げる。彼の使った野球用品を眺めて陶酔する理人さん。本当に孝太郎さんを尊敬しているんだなぁと思う。
*
わたしの心が穏やかになったせいだろうか。午前中は海外の野球チームの中継が流れる店内でゆっくりと時間が過ぎていく。ときどき理人さんに「中央の席に、あっちの世界からお客様」と言われてコーヒーを提供する以外、今日は来客もない。
見遣った窓に曇りを見つけ、拭いておこうかなと思ったとき、ようやくお客様がやってきた。
「いらっしゃいませ……。ええっ?!」
驚きの声を上げたのは理人さんだ。彼は読んでいた新聞を放り投げ、カウンターの外に飛び出した。
「歌手のレイカさん?! お一人でご来店……ですか? また来て下さって光栄です!!」
レイカさんは以前、ここで本郷夫妻と弟の水沢さんの四人で食事会をしたと聞いている。わたしは非番だったので詳細は分からないが、店の雰囲氣や食事を氣に入った彼女が「また来たいと言っていた」と、理人さんが自慢げに話してくれたことを思い出す。
「お昼をいただきつつ、コウちゃんの現役時代の品々を見ていこうと思ってね。展示が始まったんでしょう?」
「コウちゃん……? えっ? ……も、もしかして……?」
「そうなの。……ジャーン!」
鞄の中から出てきたのは、ファンクラブの会員証だった。
*
女性の方がいいからと、なぜか初対面のわたしが彼女の話し相手を任されることになった。たぶん、理人さんは舞い上がっちゃってまともに話せないからと言うのが理由なんだろうけど、わたしだって先日初めて生歌を聴いたことくらいしか話題提供できない。
こういう時はとにかく笑顔で接客しようと割り切り、レイカさんの脇に立つ。彼女はファンクラブ会員らしく、律儀にも持参した東京ブルースカイのキャップをかぶって展示物を一点一点、丁寧に眺めている。
「先日、庸平からファンクラブのことを聞いてね。準備が整ったら入会しようと思ってたのよ。コウちゃんにも会えるって言うし。……彼はときどき来るの?」
「そうですね、日時は決まっていませんが、割と頻繁にいらっしゃいますよ」
「へぇ……。もしかして、あなたに会いに? ……なんて、そんなわけないか」
「あー……」
女の勘なのか、あまりにも鋭い問いにどう返事をしたらいいものか悩む。すると、料理を作っているはずの理人さんがすかさず会話に割り込んできて余計なことを言う。
「めぐっちは永江センパイのお氣に入りですよ。あの人、一目惚れしちゃってねぇ……」
「ちょっと、理人さんっ……!」
「うっそ! あのコウちゃんが?! ……あぁ、それであのとき!」
レイカさんはわたしの顔をのぞき込んでから、何かを思い出したように言う。
「やっぱり来てたでしょ! 春に駅前でやったミニライブに。前の方にコウちゃんらしき人を見かけて『もしかして……』とは思ったんだけど、そばに赤ちゃんを抱いた女の子がいたから確信が持てなくて」
「あ、それ、多分わたしたちです。主人が、子供の頃からレイカさんのファンでこの機会にぜひ生歌を聴いてみたいというので一緒に行ったんですよ。あと、孝太郎さんから、レイカさんの歌声には人の心を動かす力があるとも聞いて。実際、とても感動しました」
「そう……」
レイカさんは頷きながら、展示されているユニフォームに目をやった。
「ホント言うと、庸平に頼まれてあの選曲になった訳なんだけど、最後の曲はあのときも言ったようにずいぶん迷ったのよね。でも、中年になったあたしたちにふさわしいラストの曲ってなんだろうって考えたら『サンキュー、ファミリー』しかなかった。やっぱり年月を経ればどんな人でも変わる。コウちゃんみたいな堅物であっても。……もっとも、コウちゃんがあの場に来るという保証はなかったし、あたしのファンは他にもたくさんいるから、未発表曲で驚かせたかったって言うのもあったけどね」
「孝太郎さんのこと、よくご存じなんですね?」
「まぁね。彼は頭のてっぺんからつま先まで野球で出来てる子だったけど、純粋って言うか、そういうところはかわいいなって思ったし、嫌いじゃなかったな」
「もしかして、好きだったとか?」
「それねぇ……。ずうっと昔、庸平にも言われたことあるけど、家族としては好きだったよ。あ、でも今会ったら違う印象を持つかも……」
それを聞いてわたしの「恋バナスイッチ」が入る。
「いいじゃないですか! 昔の孝太郎さんを知る人はみんな口をそろえて言いますよ。別人だって。再会したら好きになっちゃったりして!」
「えー? そんなにイイ男になっちゃったの? そう言えば先日実家に帰ったとき、母が言ってたな。庸平がコウちゃんを連れて帰ってきたけど、ものすごくいい顔になってたって。あれはそういう意味だったのかな?」
「レイカさん、ランチが出来上がりましたよー。こちらの席へどうぞー」
折しも理人さんの料理が完成し、話は一旦途切れる形となった。
「わぁ、おいしそうなハンバーグ!」
レイカさんは目を輝かせて言うと、早速椅子に腰掛けてフォークとナイフを手に取った。
「いただきまーす!」
彼女がハンバーグにナイフを入れたまさにそのとき、一人のお客様が来店と同時に大声を上げた。
「あーっ! なんで姉貴がここにいるんだよっ!」
*
姉弟だからと、隣の席に案内したのがよくなかったのかもしれない。はじめこそ仲良く話していた二人だが、孝太郎さんの現在の様子を知りたがるレイカさんに水沢さんが事実を告げた辺りから雲行きが怪しくなり始めた。
「はぁ? コウちゃんと一緒に暮らしてるぅ? 前に会ったときはそんなこと、一言もいってなかったじゃない! あんたってそういう趣味だったの? もしかして離婚したのもそれが原因……」
「こらっ、勝手に妄想するなよっ! 俺たちは姉貴が思ってるような関係じゃねえからなっ! あいつの部屋を借りるようになったのはつい最近のことだし、離婚の原因も違うっ!」
「そうなのー? ……だけど、一緒に暮らしてるってことはコウちゃんのことは何でも知ってるってことだよね? あの子、どうなの? 元氣にしてる?」
「ああ、元氣だよ……」
言い合いが一段落したところで水沢さんは水を一口と、定食のご飯を何口か放り込んだのち再び話し始める。
「あいつもあいつで新しいことを始めるために今、いろいろと準備をしているところでな。忙しくはしてるけど、朝か晩、どっちか一回は必ず顔を合わせて飯食うようにして、お互いの健康チェックをしてるよ」
「何だか老夫婦みたいなことしてるのね……」
「うっせー! 合宿のノリなんだからそれで良いんだよ。そういう姉貴はどうなん? いい年してずっと独り身で……。お袋、心配してたぜ?」
「余計なお世話。あたしは一人の方が性に合ってるのよ。良い歌詞を書くには一人じゃないと。氣が散るとね、本当に降りてこないんだから」
「あのー、歌詞って考えて書くんじゃないんですか? 降りてくる、来ないってどういう……?」
姉弟の会話に割って入るのもどうかと思ったが、わたしの疑問にレイカさんは丁寧に答えてくれる。
「うーん。なんて言ったらいいのかな。公園や森の中を散歩しているとき、それからぼーっとしているときに言葉が瞬時に降ってくるって言うのかな。イメージと言ってもいいかもしれない。あたしはそれらを書き残し、あとで歌詞としてまとめる。それを歌にすると、聴いた人たちは感動したり心が開いたりするみたいね。あたしは『神様のギフト』って呼んでるけど、実際そうなんだと思うな」
「神様のギフト……」
「たまにあたしのことを『天才シンガーソングライター』なんて大袈裟に言う人もいるけど、すごいのはあたしじゃないのよ。あたしはただ、降りてくる言葉をまとめたり歌に仕上げてるだけ。実はあたしの身体を通して神様か誰かが歌っているから感動するのかもしれない、って思うことはあるよね。実際、ゾーンに入るとそういう感覚もあるっちゃあるし」
「す、すごい……」
ライブ直後、まなが悠くんにだけ語りかけた理由が神様の言葉、神様の歌声を聞いたからだとしたら妙に腑に落ちる。
「もしかして、わたしたちが歌っても同じようなパワーがありますか?」
「どうかな……。あー、でも、あたしの歌を歌うといつも元氣が出るって言ってくれるファンはいるから、歌詞そのものに力があるのかもね。……って書いたのはあたしなんだけど」
「わぁ、すごいです!」
「ダメダメ、おだてちゃ。調子に乗るから」
水沢さんが苦言を呈すると、レイカさんがものすごい形相で睨み付けた。
「あんたねぇ、お姉さんをぞんざいに扱ったらどうなるか分かってる? ……この後、あんたと一緒にコウちゃんの部屋まで行っちゃおうかなぁ?」
「そ、それだけはやめてくれ……!」
「なんでよ? あんたは部屋を間借りしてるだけなんでしょう? ちょっと覗きに行くぐらい、いいじゃない? それとも、見られちゃマズいものでもあるの?」
「い、いや……。二人暮らしの男の部屋に、きれい好きのお姉様を招待するわけには……」
動揺しまくりの水沢さんを見たレイカさんは大笑い。それを見たわたしと理人さんも堪えきれずに笑ってしまう。
「相変わらずだね、庸平は。ちょっと揶揄っただけよ、訪ねたりしないから安心しなさい。だいたいね、あんたと違って予定がびっしり詰まってるあたしにはお邪魔してる時間なんてないのよ」
「くっ……! 俺を一体何だと……!」
反論しかけた水沢さんが立ち上がると、その頭を抑えつけるようにしてレイカさんも立ち上がる。
「コウちゃんのこと、いろいろ教えてくれてありがとう。これはお礼よ。お昼代の足しにして。それとコウちゃんに、サイン会を開く日が決まったら連絡してって伝えてちょうだい。必ずここに来るわ。彼のファンとしてね」
彼女は水沢さんの頭の上にお札を残し、颯爽と店を出て行ったのだった。
30.<翼>
仕事を終えて帰宅すると、待ってましたとばかりにめぐちゃんが玄関に飛んできた。何かと思えば開口一番、「今日、レイカが来たの!」と言うではないか。荷物を置き、靴を脱ぎながら返事をする。
「へぇ! ワライバってどんだけ有名人が来る店だよ? 来ると知ってたら俺も会いたかったなぁ」
「孝太郎さんのファンクラブに入ってるそうだから、サイン会が開かれたら必ず来るって言ってたよ。そのタイミングで翼くんも来れば会えるよ」
「それって、俺もコータローさんのファンクラブ会員にならなきゃいけないってことじゃね? コータローさんのことは人として好きだけど、あれはプロ野球選手時代のあの人のファンクラブだからなぁ……」
「喫茶店のお客さんとしてくればいいんじゃない? 喫茶店と孝太郎さんのグッズ展示コーナーは別だから」
「なるほどね……。じゃ、そん時はそうしようかな」
とは言ったものの、行ったところで遠巻きにしか見ることが出来ないんだろうな、と思う。そのくらいレイカは俺にとって憧れの人だから。
「あー、そうだ。俺も話したいことがあるんだ」
めぐちゃんの話が終わったところで次はこちらから話題を振る。
「今日職場の人から、氷川神社で行われる音楽祭の案内をもらったんだ。どうやら高校生の息子のバンドグループが出るらしくって。よかったらどう? 行ってみない?」
「あの大鳥居のある神社だよね? 行く行く! そうだ、せっかくだからその日は久しぶりに街中デートしようよ」
「いいねぇ」
そこへ悠斗がふらりとやってきて会話に加わる。
「その音楽祭とやらの日程はいつなんだ?」
「えーと、確か秋分の日だったかな。都合つく?」
「あー……。その日は体操クラブの集客イベントをしようって話になってる。ま、親子で楽しんで来いよ」
「そっか……。それは残念だな……」
「そうでもないぜ? その日おれらが走るのは街の北側。確か神社の前を通るルートだったはず。ま、近くを通ってまだイベントがやってたら耳だけは傾けるよ」
悠斗はそう言うなり両腕を振って走る真似をした。
「まさか、前世が魚の悠斗が陸を走ることになるなんてな……」
「ああ……。人生、わからないもんだな……」
「だけど、無理すんなよ? 心臓の状態はよくてもまだまだ残暑は厳しいから」
「大丈夫。万が一何か起きても助けてくれる人がいる。おれは簡単には死なないよ」
「さっすが悠斗。守護されてる人間の言うことは違うぜ……。たくさん人が集まるといいな。健闘を祈るぜ」
「ま、氣楽にやるさ」
そう語った悠斗は何だか楽しそうだった。
*
前日まではまだ夏の氣配が残っていたが、秋分の日は朝から秋の匂いがした。空氣が入れ替わったかのように氣持ちのいい秋空が広がっている。これなら屋外のイベントも存分に楽しめそうだ。
バスを乗り継ぎ、俺たち親子は目的の神社を目指した。バスの時間の関係で、音楽祭の開始よりずいぶん早くに着いてしまったため、神社にはほとんど人影がなかった。
「静かだねぇ。なんだか心が洗われるー」
そう言ってめぐちゃんは深呼吸した。まなも真似して両手を広げた。
「そう言えばこのところずっと忙しくて、静かに過ごす時間を取れてなかったな……」
二人に習って俺も深呼吸する。何度か繰り返すうち、めぐちゃんの言うように何だか身体ごとすっきりしたように感じられるから不思議だ。
「あれ? もしかして、めぐ?」
そのとき後ろから聞き覚えのある声がした。振り返るとそこにはエリ姉とアキ兄の姿があった。
「えっ、なんでパパとママが?」
驚きの声を発するめぐちゃんの目の前に一枚のチラシが提示される。
「あなたたちもお目当てはこれでしょう? 私も翼くんと同じ職場ですもの。他に予定もなかったし、せっかくだから行ってみようと思ったっておかしくはないでしょう?」
「あー、そう言えば……」
言われて、職場の人が誰彼構わず配っていたのを思い出す。自分のことしか頭になかったから氣がつかなかった……。
「俺たちはバスで来たから早く着いちゃったんだけど、そっちはどうしてこんなに早く? 開始時間まで四十分くらいあるぜ?」
腕時計で再度時間を確認すると、アキ兄がにこやかに笑う。
「僕らはデートも兼ねてるから。今日のコンセプトは初デートで巡った寺院を再訪すること。実はもうすでに一カ所巡ってきてる」
「それって、わたしたちとおんなじ!」
「なるほど……。やっぱり親子は似るのかな……。あー、そういうことなら僕らはこの辺で失礼した方がいい? デート中だったんじゃ、お邪魔だよね?」
「いや。せっかく出会ったんだし、俺は構わないけど。まなの面倒を一緒に見てくれるんなら」
俺の言葉にアキ兄たちは顔を見合わせたが「そういうことなら」としばらく行動を共にすることで合意した。
*
近隣にも神社はいくつかある。そこを見てから戻ってきても充分間に合うと言うことでしばらく散策することにする。案内役はアキ兄。彼の趣味と言えばチェスとカクテルを飲むことだとばかり思っていたが、実はこの街の歴史に精通しているらしく、行く先々で知識を披露してくれた。それを聞くうち、自分が生まれ育った街には様々な歴史が詰まっており、俺たちはそのお陰で今を安心して生きられるのだと、感謝の念が湧いてくる。
「すごいなぁ、アキ兄は。本当にこの街が好きなんだね」
「僕は思うんだ。きっと僕の魂はずっとずっとこの土地で生き死にを繰り返してきたんだろうなって。大学に通っていたときは一度離れたけど、離れてみてやっぱりここが好きだって改めて思ったよね。だから、エリーと家庭を築くならこの街って決めてたし、秋祭りに合わせて帰郷した日にプロポーズしたんだよ」
恥ずかしげもなくさらりと言えるアキ兄が格好良かった。一方のエリ姉は照れくさいのか、「うんと昔の話よ」と言って赤らめた顔を天に向けた。
「そう考えたら何だか壮大な話だよね。わたしたち全員がここで出会い、今もこうして繋がってるんだもの」
めぐちゃんが言うと、まなが「そーだねぇ」と、いかにも分かったふうに返事をした。それがあまりにも自然だったので思わず頭を撫でる。
「賢いなぁ、まなは。パパたちの話、ちゃんと分かってて返事してんだもんな」
「ん! みんな、つながってる! かみさまに、ありがとーだね!」
神様、という言葉を聞いた俺はぎょっとした。俺だけじゃない、この場にいた全員が、だ。やっぱりまなは特別な役割を持って生まれてきたのでは……。そう思わずにはいられなかった。
「……ああ。神様に、感謝しないとな」
「ねぇ、あっちから音楽祭の開催を告げるアナウンスが聞こえない? そろそろ戻りましょ」
時計を見ると、いつの間にか音楽祭の開始時刻が迫っていた。
*
氷川神社に引き返すと、ちょうど開会の挨拶が終わったところだった。司会者が「さぁ!」と氣合いを入れる。
「本日は高校生バンドの音楽祭ではありますが、母校の後輩を応援したいと言うことで、なんとなんと! スペシャルゲストが駆けつけてくれました! こちらの方々です! 拍手でお迎え下さい!」
アナウンスと同時に元氣よくステージに上がってきた人物を見た俺は目を疑った。
「えっ……? はぁっ……? レイカ……?」
戸惑っている間に、エレキギターの演奏と共にレイカの歌声が聞こえ始める。ろくすっぽ歌詞など頭に入ってこない俺の横でエリ姉がぽつりと言う。
「そう言えばレイカって、デビュー前はアマチュアバンド組んでたって聞いたことある。後ろの二人はそのときの仲間なんじゃないかしら?」
「ええっ、そうなの?! 初耳なんだけど!」
「レイカさんってああいうアップテンポの曲も歌えるんだね。天才はやっぱり違うなぁ!」
感心しているめぐちゃんの隣では、アキ兄に肩車されたまなが大喜びで手を叩いている。ぽかんと口を開けているのは俺だけだ。いや、混乱している場合ではない。これはきっと神様の計らい。だったら、楽しまないと!
「めぐちゃん!」
俺はとっさに彼女の腕を掴み最前列に導いた。そして恥ずかしさも忘れて思い切り両手を振る。めぐちゃんも同じようにする。と、こちらに氣づいたレイカが小さく手を振ってくれたように見えた。
「レイカさーん、最高ー!」
子供になったような氣分で思い切り叫ぶ。すると、間奏に入ったところでレイカから思いも寄らない発表がある。
「皆さんにお知らせがあります! わたくしレイカは三十年ぶりに『サザンクロス』を再結成、十月より活動を再開することとなりました! 引き続き、応援をよろしくお願いします! それと、次に登場する母校、城南高校の『new wind』は一押しのバンドグループなのでぜひ聴いていって下さい!」
発表があった直後、周辺は一氣に盛り上がった。しかしパッと見た感じ、ここにいるのは十代、二十代の若い子ばかり。とてもレイカの歌を知る世代とは思えなかったが、彼らにとってレイカがいくつなのかとか、どんな歌手活動をしてきたのかとかは関係ないのかもしれない。一、二分でも、レイカの歌声を聞けば実力は分かる。それだけで年長の彼女を受け容れ、応援できるのだとしたら、その精神は見習わなければならないだろう。
レイカの歌はあっという間に終わり、間を開けずに次のグループ『new wind』がステージに登場、演奏が始まる。しかし俺の耳にはやはり彼女らの歌声や演奏は届かなかった。予期せずレイカを目にし、バンド再結成の発表を聞いたのだから無理もない。
「ぱぱ。たのしも!」
頭の上から声がした。いつの間に来たのか、隣にはアキ兄に肩車されたまなの姿があった。見つめ返すとまなが再び言う。
「いまが、だいじ!」
「あぁ、そうだな……。まなの言うとおりだ……」
どうやら俺は現実の忙しさのせいで頭でっかちになっていたようだ。音楽を聴くのに頭を使う必要はない。心で、身体で感じる。それが音楽。
ならば! と、初めて聴く女子バンドのリズムに合わせて身体を動かす。そのうちに氣持ちよくなってきて、俺もギターをかき鳴らしたくなる。
(家に帰ったらギターを弾こう。そして新しい曲を作ろう。昔みたいにめぐちゃんのために。そして今度はまなのためにも……)
見上げた空。赤い鳥居の向こう側に、丸みを帯びたハート型の雲が浮かんでいた。今ここに生かされていることに改めて感謝の氣持ちを抱く。隣にいるめぐちゃんの手を握り、温もりを感じた俺は、聞こえてくる音楽にじっくりと耳を傾けたのだった。
31.<孝太郎>
風に乗って麗華さんの歌声が聞こえた氣がした。まさかと思ったが、隣を走る庸平が「あー、やってるやってる」と無感情に言うのを聞いて確信に変わる。もしかしたら庸平経由で僕らが走ることを聞いた彼女が歌で応援してくれているのかもしれない、などと考える。
体操クラブの周知と会員集めを目的に今、僕らは街中の歩道を走っている。経由地には子供が集まりそうな総合公園や広場、児童館や商店街が含まれており、それぞれの場所で走り方の指導会を行う予定だ。すでに数名から声を掛けられチラシを渡したが、この足でいきなり実施すると聞いても「面白そう」とか「行きます!」などと言ってもらえたのは嬉しかった。たとえそれがその場だけの返事だったとしても、第一の目的は僕らを知ってもらうことなのでまったく問題はない。いいものを提供すればそれに比例して人も集まる。これは現役時代に痛感していることだし、僕らが知恵を出し合って作る体操クラブは自ずと良いものになるという自信もある。
*
市街地から少し離れた場所にある総合公園に着いた。今日は夏の暑さも和らぎ、からっとした晴天。秋らしさを求める人々、とりわけ親子の姿が目立つ。
「ちょっと休憩ですかね……」
やや疲労感が見える悠斗クンは、額の汗を拭き取って水分補給を始めた。野上クンも同様にペットボトルの水を一氣に喉に流し込んでいる。
「先輩も今のうちに水分補給しといた方がいいですよ」
「何を言っている? 僕には水を飲む時間すら惜しい。見たまえ、あそこに楽しそうに遊ぶ親子がたくさんいる。彼らに僕らの存在をいち早く知ってもらいたいとは思わないか?」
「えっ、だけど……」
僕にペットボトルを差し出しかけた野上クンは手を引っ込めた。それを合図に僕は猛然と走り出す。現役の頃のように毎日ハードな練習をしているわけではないから多少の衰えは感じるものの、まだまだ走れる。
「くそっ、孝太郎に負けてたまるかっ!」
触発された庸平の声が後から聞こえた。次いで、野上クンと悠斗クンが「しょうがないなぁ……」と言いながらもついてくる。
大の大人が四人。それも、うち一人は社会人野球チームのユニフォームを着てじゃれ合うように走る姿は、端からはきっと滑稽に写るだろう。だが、これでいい。大人が全力で楽しんでいれば子供は自然と興味を持って輪に加わる。幼稚園教諭の翼クンがそう言うのだから間違いない。
その教え通り、程なくして三、四歳の女の子と二歳くらいの男の子が一緒になって周囲を走り始めた。父親らしき男性が「すみません……」と頭を下げながら近づいてきたが、ここですかさず野上クンがこちらの目的を話し始める。
「実は自分たちは今、かけっこが早くなりたい子向けにアドバイスをしようと思ってここへやってきてるんです。もし、お子さんが園に通っていて運動会が近いなら、ぜひどうです? こう見えて我々は元高校球児。しかもこちらのお二方はなんと野球で生計を立てていたほどの実力者。走ることに関しては超一流なんですよ」
いきなりそんな話をされた男性は戸惑っていたが、僕を見て顔色を変えた。
「……も、もしかしてあなたはあの、永江孝太郎さん……ですか? え、でもまさか、元プロ野球選手がこんな場所にいるはずが……」
「いかにも、僕はあなたがいま口にした名の人物です」
「ええっ!! 実はわたしの父が長年、東京ブルースカイのファンでして……。永江選手の活躍はずっとテレビや球場で拝見しておりました。引退試合も見に行きましたよ。……あの、握手をしてもらっても……?」
男性が手を差し出したので、僕は快く握り返した。喜ぶ男性に僕から本題を告げる。
「僕のことを覚えていて下さって光栄です。しかし今は『みんながまんなか体操クラブ』の創設者。もはや『選手』ではありませんし、野球界とも何ら繋がりはありません」
「みんながまんなか体操クラブ?」
「親子が一緒になって身体を動かすことで絆を深めるのが主目的のクラブです。昨今では習い事が盛んのようですが、親御さんに問いたいのは、子どもをスポーツクラブや各種教室に入れること自体に満足していませんか、と言うこと。子どもが健やかに育つために一番必要なのは親と過ごす時間だというのが僕らの考えです。……見て下さい。あんなふうに、大人が一緒になって公園を駆け回る。ボール遊びをする。ストレッチをする。……どうでしょう? 子どもの笑顔が一層増えると思いませんか?」
僕らが話している脇で野上クンたちが彼の子どもに走り方のコツを教えている。子どもはキャッキャと歓びの声を上げ、「おとうさんも走ろうよー!」と言って手招きしている。
「よーし……!」
父親が歩き出したとき、子どもの一人が今度は「あ、おじいちゃんとお兄ちゃんだ!」と言って遠くの人物に手を振った。
呼ばれた二人は笑顔でこちらに駆け寄ってきた。祖父を呼んだ女の子が僕を指さして嬉しそうに言う。
「おじいちゃん、この人知ってる? おじいちゃんが好きな野球チームの人なんだって!」
「えっ?」
おじいちゃんと呼ばれた男性は僕の顔をじっと見つめたかと思うと、父親の時同様、いや、それ以上に驚いて取り乱した。
「どうして永江先輩がこんなところに……。って言うか、そっちにいるのは野上先輩と水沢先輩じゃないですか……。ユニフォームまで着て、野球でも始めるんですか……?」
先輩、と呼ばれた僕らは互いに顔を見合わせ、目の前の男性を凝視する。
「もしかして……三浦……?」
野上クンが躊躇いがちに問うと彼は「はい、お久しぶりです。ご無沙汰しております」と言ってはにかんだ。
三浦クンは高校野球部時代の後輩で、僕より二つ下。僕が主将として指揮を執っていたときはレギュラーではなかったが、野上クンが主将を務めた年には彼の俊足のお陰で甲子園に出場できたと聞く。
「ここで会ったのも何かの縁だ。実はおれたち、こういう活動を始めるところでさ……」
久々の再会にもかかわらず、野上クンはざっくばらんに話しかけながらチラシを渡した。三浦クンはチラシに目を通すと「野球じゃないんですね」と言ってまた笑った。
「これを考えたのって野上先輩ですか? 荒れてたおれを受容してくれた先輩らしいコンセプトだなあと思ってしまったのですが」
「いや、発案は永江先輩だよ。まぁ、ここ数年で色々あってな……」
「えっ、野球の鬼の永江先輩がこれを……?」
「驚くのも無理はないよな。まぁ、話すとものすごーく長くなるからここでは話さないけど、もし体操クラブに興味を持ってくれたなら入会してくれると嬉しいな。……あー、でもその様子じゃ、水沢先輩の野球人育成機関の方がいいか。その子に野球、教えてるんだろ?」
孫とキャッチボールをしていたのだろう。三浦クンの手にはグラブがはめられている。彼はこくりと頷く。
「そこにいる息子にも野球は教えたんですが中学止まり。せっかく孫が野球に興味を示しているのに教えられないって言うんですよ。だからまぁ……さび付いた身体に鞭を打って春頃から少しずつ教えてるわけなのですが、如何せん久々なもので感覚は鈍ってるし、体力的にもキツいし。ってことで、来年小学生になるタイミングでどこかの少年野球クラブに入れようかと思ってたところなんですよ。……水沢先輩のほうはもしかして……?」
「おうよ。こっちはガチだぜ。聞いて驚け。創設メンバーはなんと、あの本郷祐輔と春山詩乃だ」
「ええっ!! すごい顔ぶれじゃないですか! ぜひ詳細を聞かせて下さい!」
「お父さん、興奮しすぎだろ……」
三浦クンの息子が落ち着き払った様子で言うも、彼の興奮は冷めそうにない。三浦クンから体操クラブのチラシを押しつけられた息子は深くため息をついた。
「お見苦しいところをご覧に入れてすみません……。父は普段、あまり感情を表には出さないのですが、懐かしい方と再会してテンションが上がってしまったようで……」
「いえ、ここへ来たもう一つの目的も果たせそうなので、こちらは何ら問題ありません」
「なら、よかったです。……話が逸れてしまいましたが、あなた方の体操クラブの件はわたしが興味を持ちました。実は、子どもたちがこんなにも初対面の方の前でにこにこしている姿を見るのは初めてで驚いているんです。嬉しそうな子どもを見れてわたしも嬉しいですし、仕事に出ている平日に見れない笑顔が、クラブに参加することで見れるなら入会するのもありかなと思い始めているところです」
「ありがとうございます。そう言っていただけてうれしいです」
「あのー。先ほど、運動会で走る子どもにアドバイスをしに来たとおっしゃいましたが、わたしにも指導していただくことは可能でしょうか……」
「それはどういう……?」
男性の申し出の意味が分からず返事に困っていると、話を聞いていた野上クンがフォローしてくれる。
「もちろんオッケーですよ。園の運動会って、お父さんも走らなきゃいけませんものね。いきなり走るとマジで危ないっすから、数回でも絶対に練習すべきです。やりましょう!」
「ああ、そういうことか……」
さすがは二児の父。経験者は分かってる。父親が走る練習をする横で幼児に指導する悠斗クンも子どもの扱いが分かっているから「お父さんとどっちが速く走れるかな?」などと声を掛けている。その様子は実に微笑ましい。
クラブの発足を前にして、もう僕が目指す親子の触れ合いが眼前で行われている。何もクラブに依らずとも、こうして心が通じ合うだけで本来は充分幸福を感じられるのに、多くの人はそんな当たり前のことさえ忘れてしまっている。なぜか。
それは、世の中を知る過程で僕たちが時間ややるべきことに追われ、氣づけば忙しさに殺されてしまうからだ。
人はそろそろ、追われ流される人生にピリオドを打たなければならない。ただここに存在し、自然と共にゆっくり「今」を感じられる心の余裕を取り戻さなければならない。
「ねぇねぇ、オジさん。あたしたちもいっしょに走っていい?」
幸せに浸っていたら、いつの間にか別の子どもが数人、僕を囲むように集まっていた。
「もちろん、いいとも。僕が速く走れるコツを特別に教えてあげよう」
「やったー! おしえておしえて!」
目を輝かせる子どもたちを見て、僕も童心に返ったような氣持ちで指導を始めた。
32.<庸平>
人生、うまくいく時ってのはとことんうまくいくものらしい。まさかこんな形で後輩と再会し、自分たちの組織に興味を示してもらえるとは思ってもみなかった。
積もる話がしたいと言うことで三浦とは後日、改めて会うことになった。場所はもちろん、ワライバだ。ここには三浦と同級の大津がいる。いきなり連れて行って驚かせてやろうと、大津には何も告げず、いつものようにふらりと昼飯を食いに行く。
「いらっしゃいませ」
大津はいつものように挨拶してきたが、同伴者を見るなり目の色を変えて飛んできた。
「三浦、お前、生きてたのか?! って言うか、なんで水沢センパイと一緒なんだよっ!」
驚きのあまり声が裏返っている大津を見て笑う。作戦大成功だ。しかし他の客の前で呼び捨てられた三浦は嫌悪感を顕わにする。
「……相変わらず口が悪いな。一緒にいちゃ悪い理由があるのかよ?」
「良い悪い以前の話だよ。どうしたら三十年以上も音信不通のお前とセンパイとが出会えるんだ? おれはてっきり死んだものと……」
「勝手に殺すなよ。実は先日、たまたま遊びに行った公園で先輩に会ってな。これも何かの縁だと思って、改めて会う約束をしたってわけだよ」
「で、会う場所がここ……?」
「それについては水沢先輩に聞いてくれ。どうしてもここがいいって言われたから来ただけだよ、おれは」
「いやぁ、大津も会いたいだろうと思ってな」
笑いが止まらない俺はクスクスと笑いながら言った。
「おれは別に。三浦とはろくな思い出がないし」
「こっちだっていい思い出なんぞないが、それはウン十年も前の話。もうそんな過去は忘れて、純粋に元野球部のよしみで仲良くしたっていいんじゃねえか?」
「……ここに座りな」
握手を求められた大津は、不満げな表情ながらもいつも自分が立つカウンターの正面席を指し示した。
*
食事が提供されるまでの間、俺たちは高校卒業後の経歴を打ち明けあった。三浦のほうは大学を卒業後、しばらく教職に就いていたが学校のやり方に限界を感じ、自身で学習塾を開業、今に至っているという話だった。
「だから同じなんですよ、永江先輩のやろうとしていることと。おれの方は学習のサポートと言う形だけど、結局のところ子どもの心に寄り添いたいっていう根っこの部分は一緒だと思うんです」
俺の方に身体を向けて熱弁する三浦に、カウンターの向こうから大津がぼそっと呟く。
「勉強を押しつけられて荒れ放題だったのに、結局は学習塾の先生やってるとはねぇ……」
「勘違いしてもらっちゃ困るけど、おれは勉強が嫌いだったわけじゃない。おれが熱中していた野球を、もっと言うと十七までのおれの人生を否定した親が許せなかっただけだ。……親に向けられなかった怒りを部のメンバーに向けちゃったことに関しては本当に申し訳なかったと思ってる。……って言っても、あれからおれだって改心したし、ちゃんと甲子園行きの切符をこの手で掴んだんだから責められるいわれはないぜ?」
「三浦も野上センパイのお陰で改心した、ってところが嫌なんだよ、おれは」
「嫌だって言われても事実は事実だろ」
「お前ら、どんだけ野上を尊敬してんだよ……」
思わず突っ込みを入れたが、かく言う俺もあいつには考えを改めさせられた口なので、二人が神のごとく崇める理由は充分すぎるほど理解できた。
「水沢先輩、もし少年野球クラブの運営面で困ったことがあればいつでも言って下さい。微力ながらお手伝いさせていただきます」
三浦はそう言って名刺を差し出した。
「……氣持ちは有り難いが、入れさせたいのはお前の孫だろう? どうしてそこまで入れ込む?」
「それが夢だというなら応援したいってだけのことですよ。自分はしてもらえなかったんで」
俺の問いに、迷いなく言い切った彼が格好良く映った。三浦はなおも続ける。
「誰だってそうでしょう? スポーツでも勉強でも何でも、自分が夢中になって突き進んでいるときに背中を押してもらえたら嬉しくなる。親の考えで子どもの夢を、青春を打ち砕くなんてもってのほかです。おれは学習塾を開いていますが、テキストを丸覚えさせたりはしません。なぜ勉強するのかを常に自問自答させ、今知りたいこと、深く学びたいことを中心に学習させています。そんなんじゃ学校の勉強の足しにならないという意見ももらいますが、自発的に学ぶ子は結果的にほかの教科の点もいい。なぜって、その子らは自分の夢を叶えるために学んでいるからです。……先輩だってそういう思いで少年野球クラブを作ろうとしているんじゃありませんか? 先日の説明ではそのような感じを受けたのですが」
「ああ、そうだよ」
三浦が語ったことは、そっくりそのまま俺の考えと言っても良かった。
「孝太郎にも言われてんだ。決して心をなくすような指導はしないでくれと。まぁ、本郷たちは結構厳しめのメニューを考えてるようだけど、いくらプロ野球選手になる夢を掲げたところで野球が嫌いになっちまったらそこでおしまいだからな。そうならないためにも、仲間同士の交流を密にしたり、野球以外のことにも目を向けさせたりして楽しみながら技術の向上を目指せればいいなと俺は考えてる」
「素晴らしいですね。それなら安心して孫を入会させられます」
「三浦。言っとくけど今聞いたのは、永江センパイと野上センパイが説得に説得を重ねた上で軟化させた内容だからな。最初なんて野球のプロフェッショナルという名の戦闘マシーンを量産するような計画で……」
「おい、こら。さすがにそれは言いすぎだぞ」
口の悪い大津に釘を刺したが、反省する様子はない。
「だけど、実際そうだったでしょう? 永江センパイと一緒にやることにこだわってたし」
「……野球人なら誰でも一度は最強のチームに所属して頂点に立ちたいと思うものじゃないか? 孝太郎と再会したばかりの俺はどこにでもいる野球人だったからそういう頭しかなかったが、『野球のその先』を見ていた孝太郎と野上にあれだけしつこく言われれば、頭の硬い俺でも考えを変えるよ」
「あの頃から思っていましたが、いい関係ですね。部長と副部長は。自分にもそういう友人がいれば人生、少しは違っていたかな」
「三浦にもいるじゃないか。ほら、目の前に」
大津を指さしてやると、二人は全力で否定した。
「ないない!」
「あり得ない!」
「だけど、三十数年ぶりに再会したんだぜ? これを機に親しい関係を築いたっていいんじゃねえか? さっき三浦も言ってたじゃん。元野球部のよしみで仲良くしようって」
『…………』
二人は決まりが悪そうに目を合わせたが、ため息をついた大津が一枚の紙を差し出した。
「いつでも来いよ、うちは誰でも歓迎する店だから……」
それは一杯分のコーヒー無料券だった。
「言っとくけどこれ、誰にでも配ってるわけじゃないからな!」
「有り難く受け取らせてもらうよ。コーヒーだけじゃなく、飯も食いに来る。なんだかんだで居心地がいいし、何より飯がうまかった。ごちそうさまでした」
券を受け取った三浦はそう言って両手を合わせた。
「大津を含め、K高野球部のメンバーが高い志を持って生きていると分かって嬉しかったよ。おれたちが、これからを生きる若い人たちを育てたり支えたりすればきっと明るい未来が待ってる。そんなふうに思うよ。だからお互い、頑張ろう」
「……三浦ってそんなこと言うやつだったっけ?」
「時の経過がおれを変えたのさ。……野上先輩にもまた会いたいな。連絡取れる?」
「取れるけど、そんなことしなくたって会えるよ。あの人も良くここに来るから」
大津の言葉が聞こえたのだろうか。直後に噂の人物、野上路教が導かれるように来店した。
33.<悠斗>
あんなに走ったのはおそらく高校のマラソン大会以来だろう。にもかかわらず、元野球部の面々と同じペースで走ることが出来たのは奇跡としか言いようがなかった。それもこれもまなのお陰……。心臓の鼓動を感じるたび自分が生かされていること、そして救われたこの命を全うしなければ、と思うのだった。
◇◇◇
心臓が全回復したこともあり、しばらく離れていたプールを訪れた。まなの発話開始、そしてオバアとの暮らしを終えたのを機に、減らしていたコーチの仕事もついに辞めたのでひと月近く泳いでいなかった。
泳がなくても案外生きていけると氣付いた直後は寂しさも感じたが、今はそのエネルギーを走ることや体操クラブ開業の準備に充てているので身体の調子は存外いい。それでもやはり、久々に水の中を自由自在に泳いでみると、ここが自分の居場所だ、と思わされる。氣付けば一時間、休みなく泳ぎ続けていた。
*
ひとしきり泳いだら喉が渇いてしまった。ソフトドリンクをがぶ飲みしようと自販機の前まで来てみたが、考えることはみな同じなのか、おれが飲みたいと思うソフトドリンクは軒並み売り切れていた。
飲めないと分かったら余計に喉が渇いてきた。窓の外に目をやると西に傾く太陽が見えた。時刻は午後六時を回ったところだ。
「バーは開店してるな……」
スマホを取りだしたおれは彰博に電話を掛けて呼び出すことにした。
*
彰博はすぐにやってきてくれた。バーの前で落ち合うと、妻の映璃に怒られたと言いながらも「君が誘ってくるときは何か話があるときだから」と急な誘いに乗ってくれた理由を教えてくれた。
「生憎だが、今日は本当に思いつきだ。何なら映璃と一緒でも良かったのに」
「そうなの? ……ま、エリーがいると話しづらいこともあるだろうから、このまま二人で飲もう」
おれの言葉を信じ切れない様子の彰博は、おれの背を押し入店を促した。指示されるまま、重たいドアを押し開ける。
「あれっ?」
入店するなり、懐かしい人物に出迎えられて彰博と顔を見合わせた。前マスターの今野氏が、かつてと同じ姿で立っていたからだ。
「お久しぶりです。お元氣でしたか」
穏やかな口調も以前とまったく同じだった。
「いやぁ、それはこっちの台詞ですよ。今日はどうしたんですか?」
「今夜はマスターが休みでしてね。代わりに私が店に立っているというわけです。それにしても、今宵限りという日にお目にかかれるなんて思ってもみませんでした。本当に幸運です」
偶然とは言え、特別な日にやってきたようだ。彰博も「思いきって君の誘いに乗って良かった」と喜んでいる。今野氏に「いつものお席へどうぞ」と案内され、少し若返ったような氣分で腰掛けながら喉の渇きを潤す一杯を注文する。彰博も同じカクテルと軽食を頼んだ。
彼が背中を向けると彰博が話しかけてくる。
「……ところで、最近はずいぶんと調子が良さそうだけど、新しい仕事はうまくいきそうなの?」
「ああ。メインで動いてくれてるのはニイニイと大津さんだけど、秋のうちには開業できそうだ。おれも、心臓の具合が良くなったから最近は本格的に走り始めて体力づくりをしてるよ。そうだ、お前も入会しろよ。まなと触れ合いながら、自分の健康増進にも繋がるぜ?」
「うーん……。素晴らしいクラブだとは思ってるんだけど、如何せん兄貴がいると思うとやりづらくてね……。僕だけ厳しく指導されそうで……」
「大丈夫だって」
「いいや、悠は兄貴の本性が分かってない。僕がこれまでどれだけ貶されてきたと……」
他愛ない話をしているところへ今野氏が直々にカクテルを運んできた。
「ジントニックでございます。お食事はもう少しだけお待ちくださいませ」
「ありがとうございます」
「ああ……。かわいい女の子ですね。野上様のお孫さんですか?」
今野氏は、彰博がかばんに付けている写真付きキーホルダーを指さして言った。客の持ち物から話を広げるテクニックは、おれも今後活用していかなければいけないのかもしれない、などと思いながら二人のやりとりを聞く。
「ええ……。二歳と半年になります。最近はおしゃべりが上手になって、遊びに来ると本当に賑やかですよ。職業柄話を聞くのは得意な方ですが、娘も、ここにいる鈴宮もおしゃべりなのでこの頃は耳が忙しいです」
「いいじゃありませんか。それだけ野上様が話し相手として信頼されている証なのですから」
「そうですね。幸いなことに、娘夫婦は改築した鈴宮の家で暮らしていて自宅からすぐの距離なんですよ。なんだかんだで今の環境は氣に入っています」
「本当に信頼なさっているのですね、鈴宮様のこと」
「まぁ……。今は世話の焼ける息子だと思って接しています」
「息子……! そんなにも親しいご関係とは羨ましい……」
視線を向けられたおれは、照れくささを隠すように反論する。
「いやいや、友人から格下げですよ……。今じゃ言われ放題でヘコむことも多いんですから」
「そう仰いながらも嬉しそうですよ? 鈴宮様もそんな野上様がお好きだからこそ、一緒にカクテルグラスを傾けるのではありませんか?」
「勘弁して下さいよぉ」
顔の前で手を合わせると、今野氏は「失礼致しました。それではごゆっくり」と言ってカウンターの向こうに帰って行った。
「ふぅ……。聞いたか? おれがお前のこと、好きだってよ。笑っちまうよな」
「うーん……。好き、という言葉はとても万能だし理解しやすいワードだけど、ウン十年の付き合いを経てたどり着いた感情を『好き』のひと言で表すのは不可能だろうね。とはいえ、僕らだって互いに抱いている感情を適切に表す言葉を知らないんだから仕方がないよ」
「それもそうか……。ああ、やっぱり暑い日はロングに限るな」
この話に終止符を打つべく口にしたジントニックがおいしくて一氣に飲み干してしまう。彰博も同様に、二くち、三くちで飲みきる。程なくして料理が運ばれ、それを食べながらほろ酔い氣分で思考する。
確かに氣持ちを言葉で伝えるのは大事だと思う。だけどありふれた単語を連発するくらいなら言わない方がマシだ、とも思う。そういうのは言わなくたって伝わるもんだ。いや、伝えたいからそばにいるとも言えようか。とりわけ、言語能力の低いおれは言葉より行動で示す方が氣持ちを伝えられる。例えばこうして飲みに誘うように。
「僕が君とグラスを傾ける理由はただ一つ。君の本音を聞くためさ」
おれの内言を聞き取ったかのように彰博が言った。
「そんなにおれの本音が聞きたいかよ……」
「何しろ君は、大事なことほど内に秘めてしまうからね。義父としては世話を焼かずにはいられないのさ」
「ふん……。お前だって同じだろうが」
「だからだよ」
「…………?」
「僕らは人生で挫折を味わえば味わうほど同じ轍を踏むまいと臆病になってしまう。反論さえも恐れ、黙してしまう。それが自分の首を絞める行為だとも知らずに。……奇しくも、僕にそのことを教えてくれたのは君だった。君がここに誘い、本音を聞き出してくれなければ、僕はいまでも透明な壁越しに君と接していただろう。……顔を合わせていれば、いつも会話をしていればわかり合えるなんて幻想だよ。人はどこまでも自分を偽れる。ニコニコしながら胸の内では毒を吐いている人なんて、ざらにいる。僕が、そうだった……。だけど今はやめた。たとえ酒の力を借りたとしても、君の前では素の僕でいたい。だから君にも、素の君をさらけ出して欲しいと思ってる」
「ふん……。めぐとの結婚を勧められた頃から、少なくともおれは、お前には本心を言ってきたつもりだけどなぁ」
「それが僕のエゴから来た発言だったと打ち明けたのは、母が君の家で世話になりたいと言い出した日だった……。その母も亡くなったんだよね……。未だに信じられない……」
オバアのことが話題に上り、あることを思い出す。
「そういえば、もう秋の彼岸は過ぎたのか……。今年はまだ両親の墓参りをしていなかったな……」
亡き愛菜のことが頭にあるうちは欠かさずしていた墓参りだが、今年はまなとの実生活と沖縄訪問、そしてオバアの死が続いたこともあってすっかり忘れていた。少しばかり焦りを感じていると彰博に提案される。
「次の週末でよければみんなで一緒に行くというのはどうだろう? 実子の愛菜ちゃんとの過去にケリを付けることができた報告は、みんなでした方がいいんじゃないかな?」
「そうだな……。愛菜の死にとらわれていたことは両親も心配していたし、めぐや翼にも世話になったからな。もちろん、お前や映璃にも。……墓参りに行くなら、お袋が好きだった和菓子を墓前に供えよう」
「ああ、あそこの和菓子は僕の母も好きだった。本当においしいよね」
「って言うか、この街の人間はみんな好きだろう?」
「そうだね」
「……この街に戻ってきて本当によかった。あの日、お前がおれの話を黙って聞いてくれた恩は一生忘れない」
「大袈裟だなぁ……」
真面目に言ったのに、彰博はクスリと笑った。
「お礼なら、酒癖が悪いと知っていながらいつでも受け容れてくれるこのバーに言ったほうがいいね」
「それは言えてる」
おれは早速、今野氏を呼んだ。長年の礼を言うと、彼もまた「お礼を言われるようなことは何も……」と謙遜した。
「引退前にも申し上げましたが、感謝しているのは私の方。ですが、鈴宮様がこのバーに救われたとおっしゃるなら、私もバーテンダー冥利に尽きます。また時々こうしてシェーカーを振るのも悪くないかな、などと思ってしまうほどに有り難いお言葉です」
「ぜひそうしてくださいよ。そしたらまた二人で飲みに来ますから」
「考えておきましょう。……グラスが空いていますね。次のカクテルはお決まりでしょうか?」
「それじゃあ……」
「マティーニを二杯。リンススタイルで」
おれが一瞬考えを巡らせた隙に彰博が勝手に注文した。
「お、おい……」
「かしこまりました。銘柄のご指定は?」
「ビーフィーターで」
「承知しました」
今野氏は困惑するおれなど氣にも掛けずに注文を受け、カウンターの奥に下がっていった。
「……ったく。勝手に頼みやがって」
「君が今野さんにお礼を言うのを聞いて、せっかくだから君と最初にここで飲んだカクテルを頼もうと思ってね。悪くはないだろ?」
「えっ、覚えているのか……?」
「君に潰されたカクテルの名はちゃんと覚えてるよ」
「…………」
数分経つと、マティーニが運ばれてきた。
「もしかして、今野さんも覚えていたんですか? このマティーニがおれと彰博の最初の一杯だったことを」
疑問に思ったことを思いきって聞いてみると「いえいえ。私は注文通りに作るだけ。思い出に残るかどうかはお客様がお決めになることですよ」と、にこやかに返された。
「とはいえ、お客様の思い出作りのために酒を提供してきた私にとって、『あの時のあのカクテル』を注文されるときほど嬉しいことはありません。もっとも、引退した今は孫子との思い出作りに専念していますけど、今日は特別です」
「孫……」
先ほどはこちら側の話だったが、次は今野氏の孫の話になったので、すかさず体操クラブの宣伝をする。今野氏は「面白そうですねぇ」と興味を示してくれた。
「鈴宮様も新しい人生を歩まれているのですね。孫と相談してみます。早いもので、初孫はもう四歳。元氣が有り余っていて困っていたところです」
「そういうお子さんは大歓迎です。ぜひいらして下さい」
「では、次は私が鈴宮様のお世話になりましょう。お手並みを拝見させていただきます」
「お手並み……」
絶妙は返答をされて言葉に窮する。その様子を見ていた彰博が端でクスクスと笑い、グラスを持ち上げる。
「悠。君の前途を祝して杯を上げようじゃないか」
「……まぁ、何はともあれ、飲むか」
傾けたグラスが交わり、澄んだ音が響く。口の中に広がるジンの味は当時と変わっていないはずだが、おれが飲み慣れてしまったせいか、確かにあの頃感じたはずの飲みにくさはもはや無く、時の経過を感じさせた。
あの頃元氣だった両親はもう、いない。こんなふうに酒を飲むこともついぞ無かった。しかし実の親と出来なかったことは、彰博の両親を通じて叶えることが出来た。恵まれた後半生は彼らなくして語れない。
(お袋、親父。おれが幸せに生きてる姿を墓前に見せに行くよ。『家族』を連れて……)
のぞき込んだグラスの中に映った自分が一瞬、あの頃の親父の顔に見えた。
◇◇◇
市内の大きな霊園に鈴宮家の墓はある。朝から残暑が厳しいが、汗を垂らしながらも墓を掃除し、花や線香、供え物をする。
「まなたんのジューチュもあげる!」
おれたちの真似をするかのように、まなが自分用のリンゴジュースを墓前においた。その無邪氣さに全員ほっこりする。まなにはまだ、おれの両親の写真を見せたことも話したこともない。しかし、まなの前世である鈴宮愛菜は会ったことがあるので、もしかしたら墓に眠っているのが鈴宮愛菜の祖父母だということが魂レベルで分かったのかもしれない。おれの考えすぎかもしれないけれど。
「大勢で来たからびっくりしてるだろうな。……今日は両親の姿は見えないの?」
翼に言われて辺りを見回す。が、それらしき影は見当たらない。
「最近はまったく見なくなったから、もう成仏したんじゃないかな。もしかしたら、まなが生まれ変わるタイミングで両親も次の人生を歩み出したのかもしれない」
「なるほど。そうだといいな」
「たとえ成仏したとしても、悠が生きている限り悠の中でご両親も愛菜ちゃんも生き続ける。私の育ての祖父母が私の中でまだ生きているように」
映璃の言葉が妙に心にしみた。
「映璃は強いな……。そうやってちゃんと家族の死を前向きに捉えている」
「家族がそばで支えてくれるおかげよ。私一人だったらおそらく乗り越えられなかった。……悠だってそうでしょう?」
「ああ……。そうだな……」
最初こそ色々あったが、ここにいる野上家の面々がいなければ今のおれはいなかった。母の病死後、父と一緒に暮らすこともなかっただろうし、「新しい家族」を持つこともきっと、なかった。
「あー、おとーさんがないてる!」
「えっ……」
まなに指摘されて思わず頬を触る。てっきり汗だろうと思ったのに、出所をたどると目から流れてきたものだと分かった。その時、めぐが墓前に向かって言う。
「悠くんのお父さん、お母さん、そして愛菜ちゃん。悠くんはもう大丈夫です。野上家の一員として、わたしたちが一生支えていきます。だから、安心してください。今日はその報告です」
「めぐ、ここでそんな報告をしなくても……」
「いいじゃん。今言いたいんだもん。悠くんにはいつも助けてもらってるし、悠くんのいない生活なんて考えられないからねー」
「そうだぜ。まなのもう一人の父親って意味でも、悠斗は野上家には欠かせない人間だよ」
「翼まで……。今日は鈴宮家の墓参りだぞ? 何で野上家の話になる?」
「君のご両親にも、悠が我が家の一員だってことをきちんと報告するため……かな?」
娘夫婦の言葉をとりまとめる形で彰博が言った。
「ったく……。お前らは……」
母の病氣の知らせを受けて帰郷した頃のおれは「愛菜の命一つ救えない、こんなおれに何の価値があるのか」と自分を責め続けていた。しかしそのおれを受容し、後々まで家族同然に扱ってくれた彰博一家がおれの荒んだ心を癒やしてくれた。彼らにはどれだけ感謝してもし尽くせないほどの恩義を感じている。言葉で伝えるのが苦手なおれでも感謝を伝える方法があるのだとしたら……。
おれは涙が伝った顔を一同に向けて言う。
「……ここでこんなことを言うのは場違い、いや、罰当たりかもしれないけど、今言うよ。いつの日にかおれの命が尽きても、どうかこの墓には入れないで欲しい。やっぱりおれにとって大事なのは『今』だから。お前らとの暮らしがすべてだから。おれの口から、お前らと一緒の墓に入れてくれ、とは言わない。だけど、おれの魂がここにあるうちはずっと一緒にさせてほしいんだ……」
ぎょっとするような発言に最初は驚きの表情を見せていた一同だったが、おれの真意を汲み取ったのか、彼らは何も言わず静かに頷いた。
「いいとも。僕が君を我が家に引き入れた張本人だからね。君の想いは僕がちゃんと引き受けるよ。そのためには、死の直前まで今の関係性を維持しなければいけないけれど」
「大丈夫。お前とうまくやるコツは心得てる」
グラスを傾ける仕草をすると、彰博も空中でグラスを交わす仕草をしてみせた。
「まなたんも、かんぱいするー!」
翼に抱っこされたまなが「かんぱーい!」と言いながら腕を伸ばす。それに続くように映璃とめぐ、翼も同様の仕草をする。
「あー! みてパパ、ママ! ひいじいとひいばあがいる!」
「えっ……」
まなの言葉におれたちは顔を見合わせた。
「見えるのか……?」
「ん! あっち!」
まなが指さした方を見ると、墓石の脇に、確かに両親の姿があった。思わず一歩踏み出す。が、父はそれを制するように手のひらをこちらに向けた。
『己の弱さを認め、必要があれば周囲に助けを求める……。それが出来るようになったお前はもう弱い男などではない。それに氣付かせてくれたこの家族を、今を大事にしなさい。父さんたちのことは時々心の中で思いだしてくれればいい。愛菜ちゃんと同じように』
『そうよ。だいたいね、あんたが死んでこの中に入る頃にはだーれもいないんだから、ただ寂しいだけよ。寂しがり屋のあんたのそばには、寂しさを紛らわせてくれる誰かがいてくれた方がいいと思う。同年代のパートナーがいない代わりに、あんたにはこんなに素敵な家族がいるんだもの。絶対にそうしなさい』
「何だよ、久しぶりに出てきたと思ったら……。おれがこの墓に入らないって宣言するのを聞いても寂しがらないのかよ?」
『寂しがったところで、お前を引き留められないことは分かっているさ。何しろ、ずっと見守ってきたんだからな。……生かされていることに感謝して、達者で暮らせよ』
「ああ……。そっちもな……って言うのはおかしいか」
『そんなことはないわ。実はあたしたち、これを機に生まれ変わるつもりでいるの。だからもしかしたら、この世のどこかでまた会えるかもしれない。会っても氣がつかないとは思うけど、きっとまた悠斗に会えるってあたしは信じてる』
『父さんだってそう信じているさ。だから悠斗は悠斗の好きに生きなさい。いいな?』
「分かった……」
返事をしたら鼻の奥がツンとしてきた。目頭を押さえると、案の定、母親に指摘される。
『あーあ、また泣いちゃって、みっともない』
「う、うるせぇ……。こいつらの前ではいいんだよっ……!」
「まなたんが、いい子いい子してあげるからだいじょーぶ!」
どうやら亡き両親の声がはっきり聞こえるらしいまなが、泣いているおれの頭を撫でようと、翼に抱かれた位置から手を伸ばした。
『野上まなちゃん。悠斗のこと、よろしくね』
『お父さんと仲良くな』
「ん!」
両親の言葉に、まなは力強く頷いた。それを見て安心したのか、二人は手を取り合い、「またいつか会う日まで」と言い残して消えていった。
34.<めぐ>
秋も深まってきたある日、ついに「みんながまんなか体操クラブ」が始まった。わたしたち親子はもちろん入会しているが、今日に限り、見学と言う形で両親も一緒だ。
場所は駅から徒歩三分の、ビルの最上階。うちの家族しかいなかったらどうしようかと思ったけれど、行ってみて驚いた。そこには予想を遙かに上回る親子がいたからだ。
「さぁて。これだけ自由に動き回る子どもの興味をどう惹くつもりなのか……。コータローさんのお手並み拝見っと」
幼稚園の先生をしている翼くんは腕を組み、孝太郎さんに目をやった。
「アドバイスはしてあげなかったの?」
「多少はしたけど、こればっかりは実践あるのみだからなぁ」
「そうね。何しろこのくらいの年齢の子は、その時の氣分によって言うことを聞いたり聞かなかったりするからね」
隣にいるママも同じようなことを言ってまなを抱きあげた。
周囲のざわつきがピークに達した時、室内のスピーカーから大音量で音楽が流れ始めた。と、走り回っていた子どもたちの動きが止まる。その瞬間に伯父の声がマイクを通して室内に響く。
「ようこそ、みんながまんなか体操クラブへ。さぁ、いよいよ始まるよ! まずはこの曲のリズムに合わせて踊ってみよう。みんなの好きなダンスでいいよ。跳んだり跳ねたり。さぁ、やってみよう!」
手本を見せるようにステージに立つ孝太郎さんと悠くんが手拍子をしながら飛び跳ねる。はじめはみな周りを氣にしていたが、子どもたちが自由に動き始めると次第に親たちも身体を動かし始めた。
「うんうん。いい感じじゃないの」
孝太郎さんの様子を見て満足したのか、翼くんは何度も頷きながら自身もリズムに乗って跳ね始めた。わたしの身体も自然と動き出す。だって、孝太郎さんがあんなにも楽しそうにしているんだもの。それほどまでに彼の笑顔がまぶしい。
初めて出会ったときの孝太郎さんは「死への願望」があったせいか、笑っていてもどこか冷たい印象があった。家に招くようになってからもすぐに笑顔が増えたわけではなく、心の底から笑っていると感じられるようになったのは、まなが生まれて以降だ。わたしは、まなが孝太郎さんの笑顔を取り戻してくれたのだと確信している。孫ほど年齢は離れているし、ここに至るまでにはいろいろなことがあったけど、二人は互いにいい影響を与え合っている。だからこそ、目の前で笑顔を振りまく孝太郎さんの姿に心を打たれるのだと思う。
みんなの意識が一つになったところで曲が止まった。次は何が始まるのだ? と一同がワクワクして待っているのが伝わってくる。そこへ今度は孝太郎さんがマイクを握り、簡単な挨拶をする。
「本来ならば会員の皆様には厚く御礼を申し上げるところですが、子どもが主役のクラブですから、ここでは堅苦しい挨拶は抜きにします。今日は初回ですし、とにかく我が子、我が孫と触れあって下さい」
その言い方が堅苦しいですよ、と伯父が指摘し、どっと笑いが起こる。より緊張がほぐれたところでまた音楽が流れ始める。
「さぁ、みんな。先生たちに合わせてやってみよう。出来るかな?」
今度は悠くんが声を掛ける。孝太郎さんと伯父が親子になりきってストレッチを始めると、周囲にいる親、祖父母と子どもたちは真似をして身体を動かし始めた。
「運動不足のじいじには結構キツいなぁ……」
軽い運動にもかかわらず、早速根を上げはじめたのはパパだ。その声が聞こえたはずはないが、「久々に身体を動かすという方は決して無理をしないで下さい。あくまでも親子の触れ合いが目的ですから」と悠くんからアナウンスされ、思わず笑ってしまった。
しかし、無理をしなくていいと聞いたからか、パパくらいの年齢の人たちにも笑顔が見え始め、氣付けば会場全体が和やかな空氣に包まれていた。
*
予定されていた一時間があっという間に過ぎ、集まった親子はまだまだ身体を動かしたい様子で会場を後にした。わたしと翼くんとまなは孝太郎さんたちに今日の感想を伝えるために残った。
「よかったよ、すごく。園でもあんなに子どもの氣を惹きつけるのは難しいよ」
翼くんの高評価を聞いて孝太郎さんは微笑んだ。
「曲の選定は悠斗クンがしてくれたんだ。スイミングスクールにいた頃の経験を活かしてくれてね」
「なるほど。適材適所ってのはまさにこのことだな」
「孝太郎さんの人望で人が集まり、伯父さんがメインで司会をし、悠くんが選んだ曲に合わせて身体を動かす……。本当に、それぞれの得意が合わさってこのクラブが成り立ってるんですね。孝太郎さんたちが心から楽しんでいるのが伝わってきたから、こっちも自然体で楽しむことが出来ました。みんなが真ん中って感覚も味わえたし、とにかくすごく良かったです!」
「ここまで来れたのは君たち親子の協力があってこそ。感謝しているのはこちらの方だ。ありがとう」
「おれからも礼を言うよ、めぐちゃん」
話に加わってきたのは伯父だ。
「めぐちゃんのおかげで永江先輩を死から引き離すことが出来たうえに、野球以外の生きる目的を持ってもらうことが出来た。本当に感謝してるよ」
「いえ。孝太郎さんの目を覚まさせたのは、わたしじゃなくて伯父さんの方ですよ」
「いんや。その笑顔を向けてくれなければこの人は死んでたって今でも思うよ。これからもこの人のために笑いかけてやって」
「もちろんです。伯父さんも孝太郎さんのこと、支えてあげて下さいね」
「ああ、任しとき!」
伯父はそう言いながら、胸を叩くような仕草をした。
「それじゃあ、わたしたちはこれで……」
主宰の三人に一礼し、帰宅しようと背を向ける。と、まなが孝太郎さんの手を取った。
「こーたん、いっしょにかえろ?」
孝太郎さんは小さく息を吐き、まなに目線を合わせるようにしゃがみ込んだ。
「ごめん。僕はもう少しここでお仕事があるんだ。一緒には帰れない」
「やだー! いっしょにかえるー!」
拒まれたまなは大騒ぎだ。
「まな、今日はパパとママと三人で帰ろう」
「やだー!」
言い聞かせようとするが、なかなか聞き入れてもらえない。「ならば」と孝太郎さんが一つの案を持ちかける。
「仕事が済んだ後でまなちゃんの家に行く、というのはどうだろう? 最近はこっちの準備が忙しくて訪ねていなかったし、君たちさえよければ久々に食事もご一緒したい」
「こーたん、うちにくるの? なら、まなたん、おうちでまってる!」
「いい子だ。それじゃあ、またあとで」
「わーい! パパ、ママ、かえろ!」
だだをこねていたのが嘘のようにコロッと氣が変わったまなを見てため息を吐く。
「……あの、大丈夫なんですか? 忙しいのに、まなのためにそんな約束をして。水沢さんが部屋で待ってるんじゃ……?」
わたしの言葉に彼は首を横に振った。
「庸平の心配は無用だ。それより僕はまなちゃんの機嫌を損ねる方が氣がかりだよ」
「あんまり甘やかさないで下さいよー」
「仕方がない。僕はまなちゃんが好きだし、まなちゃんと触れあうためにこのクラブを立ち上げたと言っても過言ではないのだから」
「まなたんも、こーたん好き!」
「それは嬉しいな。今日は楽しかった?」
「ん! またくるー!」
「よしよし。体操クラブのプログラムは、まなちゃんのおじいちゃんたちも一緒に考えてくれてるから次回も楽しみにね」
「ん!」
「やれやれ……。自分の笑顔が大人を喜ばせることを本能的に知ってるよなぁ、まなは。いい性格してらぁ」
終始ご機嫌のまなを見て、翼くんも呆れ顔で言うのだった。
35.<翼>
昼食を買って帰宅すると、悠斗がコータローさんを連れて帰ってきた。彼が来たと分かるなり、まなが玄関に走って行く。その手には大好きなおやつパンが握られている。
「こーたん、はい、どーぞ!」
「やぁ、まなちゃん。約束通り遊びに来たよ。……お昼ご飯はこれかい?」
まなのパンを受け取ろうとするコータローさんを制するようにめぐちゃんが言う。
「いえいえ! 大人は近所のパン屋さんで買ってきたパンがありますからそれを。出来合いで済みませんが」
「構わないよ。何を食べるかより、誰と食べるかが大事だから」
「よかった……。こちらへどうぞ」
めぐちゃんに促されたコータローさんは居間に足を向け、座布団に腰を下ろした。するとまながやってきて、今度は目の前にあった惣菜パンを掴んだ。
「こーたん、あーん!」
どうやら食べさせてあげるつもりのようだ。
「ありがとう、まなちゃん。いただきます」
「ごめんよ、コータローさん。まなは今、誰彼構わずこうやって食べさせようとする年頃なんだ……」
「かわいいじゃないか。僕は構わないよ」
コータローさんはまなからパンを受け取り、引き続き食べながら言う。
「僕も結婚して子どもがいれば、このくらいの年の孫がいたんだろうなと思うことがある。しかし同時に、こうして子どもと関わる機会があれば血の繋がりは関係ないな、とも思う。年の差さえも。特にまなちゃんは、二歳とは思えないほど精神年齢が高いから一緒にいるのが楽しいよ」
「コータローさんの口から結婚って言葉が聞けるとは思わなかったな。聞いた話では、めぐちゃんが初恋の人だって」
「ああ。君の前では言いにくいが、めぐさんは僕の心を鷲掴みにした初めての女性と言っていいだろう。それ以前の僕は、死よりも心惹かれるものがなかったからね」
「恥ずかしいけど、そう言ってもらえて嬉しいです」
そこへ、恋愛話好きのめぐちゃんが加わる。
「わたしは孝太郎さんの想いには応えられませんが、例えばレイカさんなら話が合うんじゃないでしょうか。ファンクラブに入るくらいには孝太郎さんのことが好きみたいだし!」
「麗華さん……!」
そう言ったコータローさんは大声で笑った。
「めぐさんまで僕らをくっ付けたいとは。庸平も妙な妄想をしては勝手に心配していたが、そんなに僕らを会わせたいなら会おうじゃないか。その代わり君らも同席したまえ。僕らがそういう間柄ではないことを目の前で証明して見せよう」
「えっ?!」
思わぬ発言に、持っていたパンを落としそうになった。確かに会いたいとは思っていたけど、直に会えるなんて想像もしていなかったからだ。
「俺もレイカに会っていいの?! って言うか、そんなに簡単に会えるものなの?!」
「僕が会いたいと言えばあちらはすぐに会ってくれるだろう。何しろ、あちらも会いたがっているんだから。しかし、二人きりで会うことは麗華さんだって想定していないだろう。彼女にはいずれ、僕の新しい家族を紹介したいと思っていたんだ。ちょうどいい機会だよ」
「そういうことなら会ってみたいです」
ここまで黙っていた悠斗が急に話に乗ってくる。
「歌手のレイカと孝太郎さんがどんな会話をするのか、ちょっとばかり興味があるんで」
「興味を持つのは構わないが、君らが想像するようなことは起きないと思うよ」
「それならそれでいいんです。ただ、孝太郎さんがおれたち『家族』をどう紹介するのか、聞いてみたいんですよ」
「では、悠斗クンが納得するような文言を考えておくことにしよう」
「楽しみにしてます」
「まなたんも!」
やはり俺たちの会話を理解しているのだろう。まなが自分も同席すると主張するかのように手を挙げた。
「もちろんだよ。麗華さんにはまなちゃんが僕の大切な家族だと紹介するからね」
「ん! ゆびきりげんまん!」
「ああ、約束だ」
二人は小指を絡ませ、まるで恋人同士のように微笑み合った。その様子がかつてのめぐちゃんと悠斗みたいに見えてぞっとする。
「コータローさん。まなのことが好きだって言ってたけど、まさか将来的に娶りたい……なんて言わないよな?」
「ははは。いくらまなちゃんと氣が合うと言っても、孫ほど年が離れているんだ。心配には及ばないよ」
その言葉に安堵しかけた矢先、悠斗が茶々を入れる。
「分からないぜ? めぐの子だからな。めぐがおれを好きになったように、まなも孝太郎さんのことを好きになって口説きにかかる可能性はゼロじゃないと思うけど?」
「おいおい、めぐちゃんと悠斗でも三十歳離れてるのに、まなとコータローさんの年齢差って言ったら……」
(父さんが悠斗の六つ上、コータローさんはそれより一つ上だから……)
真面目に計算してはじき出した彼の実年齢に改めてぞっとする。
「いやいや悠斗、冗談でもそういうことは言うもんじゃないぜ!」
「そうか? まなを大事にしてくれるなら、おれは孝太郎さんでもいいと思ってるけど」
「えっ!! ……ちょっと悠斗。この話はコータローさんが帰った後でじっくりしよう」
「二歳の娘の将来を話し合うのは早すぎるような氣もするけど、まぁ、いっか……」
真面目な顔をして語る俺たちを見た二人は、またしても見つめ合って笑うのだった。
36.<孝太郎>
約束したわけではないが、僕にとっても彼女にとっても再会は必然だ。想い合っている、と言う表現は正しくない。氣にし合っている、と言う方が僕としてはしっくりくる。
会おうと思えばすぐにでも会うことは出来た。それを先延ばしにしてきたのは僕だが、野球から離れた僕の第二の人生がいよいよスタートした今、会わない理由はなくなった。すべての環境が整った今こそが会うタイミング。彼らの言葉でそう確信した僕は、彼らと共に麗華さんと会う決心をした。
庸平に麗華さんへの連絡を頼むと「俺も同席する」と返された。想定内の反応。僕はすぐに「遠慮してくれ」と突っぱねた。
「なんでだよっ!」
「庸平がいるとややこしくなることは目に見えてる。今回はこれまでのお礼と世話になった野上家の人たちを紹介するのが目的だから、君には連絡役だけをお願いしたい」
「ちっ……」
「嫉妬することはない。僕の居場所はここだし、君との暮らしはこれからも続けるつもりだからね。そんなに氣がかりなら、麗華さんに会った日の晩はどこかのレストランを予約しておいて一緒に食いに行くのはどうだ?」
庸平は嬉しいような恥ずかしいような、訳の分からない顔をした。
「……何で俺の考えてることだけはズバッと言い当てるんだよ。まぁ、いい。お前の言葉を信じよう。ただし、そう言ったからには姉貴には俺と晩飯食いに行くことは黙っとけよ? ついてこられても困るからな」
「約束は守るよ」
「よし、それでいい」
安心したのか、庸平はようやくスマホを取り出し、麗華さんにメールを送信してくれた。
◇◇◇
双方の都合がついたのは年末。それも十二月三十一日だった。その日は大津クンに頼んで午前中いっぱいワライバを貸し切りにしてもらい、ゆっくり話せる環境を確保した。自宅で会ってもよかったが、部屋の場所を知られたくないという庸平の言い分を尊重する形となった。
*
「年末はひとりぼっちの寂しい人がたくさん来る時期なんですけどねぇ……」
開店時間に店を開放できない大津クンがわざとらしく言った。
「君の奉仕の精神には感心するが、相応の礼金は支払ったのだから目をつぶってもらいたいものだ」
「はいはい、分かってますよ」
「ああ、落ち着かないなぁ……」
何度も時計を見ながらそわそわしているのはめぐさんと翼クンだ。いつでも会える状態で椅子に腰掛けてはいるが、さっきからずっとキョロキョロしている。それに対して悠斗クンとまなちゃんは、この状況を楽しむかのように笑い合っている。
「そろそろ約束の時間だ」
僕が呟くと同時に店のドアがゆっくりと押し開けられた。香水の匂いがふわりと店内に流れ込む。麗華さんだとわかると、座っていた彼らは一斉に立ち上がって会釈をした。麗華さんも一礼し、続いて僕の前に立つ。
対面した僕らは数秒見つめ合った。沈黙を破ったのは麗華さんだ。
「久しぶりね」
「お忙しい中、時間を作って下さってありがとうございます」
「それはお互い様でしょう? ……生きて会えて良かった」
ホッとしたように微笑んだ麗華さんは右手を差し出した。その手をそっと握り返す。
「ご心配をおかけしたなら申し訳ありません。しかし今の僕はあの頃とは違います。毎日、命ある限り生きようという意識で過ごしています。それもこれも、彼らが支えてくれているおかげ。本当に感謝しています」
僕は同席している彼らを指し示した。
「紹介します。僕の家族です。めぐさんのことはご存じだと思いますが、彼女の夫の翼クン、その娘のまなちゃん、そして友人の悠斗クン一家には日々、世話になっています」
「ああ、あなたたちが堅物のコウちゃんを一八〇度変えた人たちね? 一体どんな手を使ったのかしら? あたしにも教えてくれない?」
その目が翼クンに向けられる。彼はしどろもどろしながら「えぇっと……。俺たちはただ、コータローさんをまるっと受け容れただけです……」と小さな声で答えた。普段とはまるで違う様子に思わず笑う。
「いつもと同じでいいんだよ、翼クン。麗華さんなら分かってくれる。サインだって、欲しければもらえばいい」
「えっ……。そうは言っても、やっぱり緊張するよ」
「僕に対しては最初からタメ口だったのに?」
「いや、あの時は……」
「ふふっ、何だか本当の親子みたいね。仲が良くて羨ましいな」
僕らのやりとりを聞いた麗華さんがクスリと笑った。
「彼のことは息子のように、めぐさんのことは娘のように想っているのが伝わってくるわ」
「確かに年齢差はそのくらいありますが、どちらかと言えばきょうだいのように接しています。彼らから教わることは未だに多くて本当に頭が上がりません」
「へぇ。コウちゃんにそこまで言わせるなんて……。すごいのね、あなたたち。これからもコウちゃんのこと、よろしくね。ところで……ちょっとだけ、二人きりで話せる?」
「二人きり……?」
想定外の展開に言葉を失う。思わず同伴の彼らに目をやるが、彼らもまた僕の予想が外れたと知って戸惑っている様子だ。僕らが沈黙していると大津クンが提案する。
「それじゃあ、こうするのはどうです? めぐっちたちには少しの間近くの公園で子どもと遊んでもらって、戻ってくるまでの間センパイたちは二人きりで話す。だけど、完全二人が不安なセンパイのためにおれが店主として見張る、と。悪くはないでしょ?」
「分かった。その提案を呑むわ。あなたたちもそれでいい?」
麗華さんに問われた三人はうなずき、まなちゃんを連れて一旦外へ出ていった。
四人が出て行ってしまうと店内が急に静かになる。普段は付けっぱなしのテレビも今は消されている。
「あー、こういう空氣苦手。テレビ、付けちゃおっと」
僕の氣持ちが分かったのか、大津クンはわざとらしくそう言いながらテレビをオンにした。スポーツ中継が流れ始め、いつもの店内の雰囲氣になると少し落ち着いた。更に氣を遣うように大津クンが言う。
「ええと。何か飲み物でも?」
「それじゃああたしは紅茶を。ミルクは無しで」
「僕はいつものコーヒーを」
「かしこまりました」
注文を取った彼は、普段よりも大袈裟に動きながら飲み物の支度に取りかかった。彼が下を向いたのを合図に麗華さんが話し出す。
「……ごめんね。どうしても確かめたいことがあったから」
「二人きりじゃないと出来ない話……なんですか?」
「うん。ひょっとすると、彼らの仲を悪くしちゃうような話だから」
戸惑う僕を見た麗華さんはしかし、言い淀むことなく話し始める。
「……大津さんから、コウちゃんがめぐさんに一目惚れしたって聞いたときは信じられなかったけど、さっきのあなたの顔を見て確信したわ。やっぱり若い子に惹かれたってことなの? あたしはずっと、コウちゃんは詩乃ちゃんのことを密かに想い、詩乃ちゃんもそれと知ってて一緒にいるんだと思ってたんだけどな」
春山クンの名前が出て、周囲の人間にはそう見えていたんだと改めて知る。特に麗華さんは僕らの高校時代を知っている――正確にはその時代しか知らない――ので、長年そう思い続けていたとしても何らおかしくはない。しかしながらそれは誤解だ。僕は真実を、言葉を選びながら丁寧に語る。
「春山クンが僕を現実世界に引き留めてくれた人物であることに間違いはありません。そのことに関しては感謝もしています。ですが、彼女がそばにいてくれた理由は僕へのあこがれです。それ以上の感情はないと思っていますし、僕自身は彼女のことを一友人、あるいはかつての仲間としか思っていない。それが真実です。……一方、めぐさんは自然な笑顔で僕に接してくれた初めての人。そこには何の意図も感じられず、それが本当に心地よかった。彼女と過ごす時間の中で僕の意識は死から生へ向いていき、今に至ります。……二人の違いが麗華さんには分かりますか?」
「んー、なんだろう?」
「春山クンは僕を『野球人、永江孝太郎』として見ている。対するめぐさんは『ただの永江孝太郎』として僕を見てくれる。めぐさんだけではなく、彼らといるとき、僕は何者でもない、裸の僕でいられる……。その心地よさを思いだしたとき、彼らのことをもっと知りたいと思い、この街で暮らすことを決めたのです」
「何者でもない、ただの永江孝太郎、か……。なるほどねぇ」
麗華さんは腕を組み、何度か頷いた。そのとき、注文した飲み物が提供され、大津クンが意味ありげに微笑んだ。
麗華さんの疑問に答えたので、今度はこちらから用意していた文言を告げる。
「ただの永江孝太郎からひと言、言わせてもらいたいことがあります。初めて歌を聴かせてもらったときから言えなかった、感謝の言葉です」
「感謝?」
「ええ。麗華さんの歌は僕に生きる希望を与えてくれました。高三の時、麗華さんが歌を聴かせてくれなければ多分、今の僕はいない。だから、本当に感謝してるんです」
「そう。あたしの歌がコウちゃんの役に立ってよかった。実をいうとあの頃、あたしも進路に悩んでいたんだ。だけど、コウちゃんや庸平が甲子園を目指して頑張る姿に励まされたのを覚えてる。歌手としてやっていこうと決めてからも、コウちゃんがプロ野球の世界で活躍する姿を見てはいつも元氣をもらってた。……そういう意味ではあたしもコウちゃんに感謝してるんだ」
「野上家の人たちに教わったことがあります。それは、僕の命は、僕のものであると同時に僕と関わりのあるすべての人のための命でもある、ということです。実は生きているだけで僕には価値あるのだと氣付いたとき、僕を支えてくれる人々、ファンのためのクラブを作ってもいいと思えるようになりました」
「そのファンクラブを提案したのがレイカさんの弟ってのが、またねぇ……」
大津クンが合いの手を入れると、麗華さんは再び「なるほどねぇ」と言ってうなずき、考え込むかのように押し黙った。
言いたかった想いを伝えた僕も、続く言葉は出てこなかった。そもそも、こうして二人きりで話すつもりはなく、野上家の面々を交えた楽しい会合を想像していたのだから無理もない。
どうしたものかと思い店内を見回す。と、麗華さんが持参したギターに目が留まった。心の中で「これだ」と叫ぶ。
「……聴かせてくれませんか。『サンキュー、ファミリー』を。改めて歌詞をなぞりたくなりました」
「分かったわ」
僕がそういうのを待っていたかのように麗華さんは即答した。
「ギターを弾いても構わない?」
「問題ないですよ。うちは何でもオッケーな店なんで」
ギターの使用許可を求められた大津クンは、両腕で大きく「丸」の形を作り、テレビを消した。ギターをケースから取り出し、立ち上がって肩から提げた麗華さんは、何度かかき鳴らした後でこう告げる。
「思い出すわ。あたしがコウちゃんを呼び出して『ファミリー』を歌った日のことを。あの時もコウちゃんのためだけに歌ったっけ」
「『サンキュー、ファミリー』も僕のために作ってくれたのだと思ったんですが? そういう内容の歌詞だったと記憶しています」
「そうね……。この歌を歌うとき、頭の中にはいつだってコウちゃんの姿が浮かぶわ。そのコウちゃんが、今は目の前にいる」
麗華さんは一度深呼吸すると小さな声で「歌うわね」と言った。
「お願いします」
僕は返事をし、目を閉じた。それを合図とするかのように麗華さんが歌う。
#
巻き戻せない 時の中で
君の顔 浮かんでは消える
緑の風が 撫でる髪
君のにおい 連れてくる
共に生きた日々
君もわたしも
同じ時の 波に乗り
生きてきた 今日まで
がむしゃらに
何者にも
ならなくてもいい
今ここにいる
それがすべての証拠だから
#
早すぎる 時の中で
君は 何を思っているの?
青い空の下で
走る君の姿 光る汗
それぞれ生きた日々
君もわたしも
同じ時の 波に乗り
生きていく これからも
ひたむきに
何も
できなくなってもいい
今生きている
この奇跡に感謝しよう
#
いるよ、近くに
君を想う ファミリー
#
歌おう 君のために
たとえ声が 届かなくても
君の未来が ひらくように
ラララ
新たな道を進む君へ
忘れないで
家族がいることを
#
さっき二人でしていた話と完全に重なる歌詞。やはり麗華さんは僕を想ってこの歌詞を書き上げたのだと思わずにはいられなかった。
「麗華さんは僕のことを今でも家族だと思ってくれているんですか?」
歌が終わると同時に尋ねた。麗華さんはため息交じりに小さく笑う。
「……コウちゃんのことを忘れた日はなかったよ。心の片隅にはいつもコウちゃんがいたし、あなたのために歌い続けてきたと言ってもいいくらい。でも……コウちゃんが新しい家族を持った今、あたしが家族を名乗る資格は失われたのかもしれない……。だってコウちゃんはもう、あたしが歌で支えなくても生きられるようになったのだから」
「それは違うと思います」
そう言ったのは、公園に遊びに行っていたはずの翼クンだった。意外にも早く戻ってきたことに驚いていると、そばにまなちゃんが寄ってきて「こーたんもあそぼ!」と声を掛けられた。なるほど、彼らは僕を店から連れ出すために戻ってきたのか。
めぐさんが慌てて駆け寄ってきたので「大丈夫」と言って、まなちゃんを膝に載せる。僕が促すと、翼クンは一つうなずいてから話を続ける。
「困ってるときだけ助け合うのが家族じゃないと俺は思います。一緒に住んでるとか、血が繋がってるとか、それが家族の条件でもない。互いに信頼し、思い合い、支え合う。それが出来てれば、いつだって誰だって家族と言っていいんじゃないでしょうか。そもそも家族って括る必要すらないと俺は思っていますけど。一緒にいたいからいる。会いたいから会う。それで充分じゃないですか?」
レイカさんは目を丸くした。そして胸の前で手を合わせた。
「ありがとう。あなたの言葉、響いたわ……。コウちゃんがあなたたちのことを『家族』だと誇らしげに紹介してくれた理由がいま、はっきりと分かった。……いい家族を持って、コウちゃんは幸せ者ね」
「ええ……」
「そっかぁ……。ならあたしも、コウちゃんとは繋がっていていいんだね……」
麗華さんは安心したように天井を見上げ、微笑んだ。
「素敵な話をしてくれたお礼をさせてもらえない? サインでも歌でも、何でもするわ」
「えっ!!」
目の前まで歩み寄られた翼クンは、いま堂々と語っていたのが嘘のように動揺した。
「パパ! お歌、うたって! まなたんとママのうた!」
「ええっ……?!」
まなちゃんの提案に、翼クンはますます狼狽えた。
「へぇ、あなたも歌えるの? ぜひ聞きたいわ。もしギターが弾けるなら貸してあげる」
「いやぁ、弾けるっちゃ弾けるけど……。い、いいんですか……?」
「もちろん!」
麗華さんからギターを手渡された翼クンは顔を真っ赤にしながらも、そっとギターを鳴らして調律を始めた。
「プロの前で歌えるなんて、メチャクチャ光栄です。作り途中の歌なんですが、娘のリクエストなんでそれを歌います」
「タイトルは?」
「To you dear、愛する君へ」
翼クンは一度呼吸を整え、すうっと息を吸い込むと、静かに歌い出す。
#
覚えていますか? 初めて会った日のことを
忘れはしない 君の瞳に映る光
僕は恋したんだ
歌うことしかできないけれど
伝えたい この声で
空に差す Sun shine
舞う鳥よ 届けておくれ
この想い 愛する人へ
永遠に捧げる 君に My life
一緒にいれれば幸せなんだ
笑い合えれば最高なんだ
ほかに何もいらない
大好きな君と
真っ白な地図 未来を描こう
#
翼クンの澄んだ声が店一杯に響き渡る。目を閉じて聴き入っている麗華さんの表情からプロも満足する歌声だと分かる。膝の上でニコニコしているまなちゃんも、悠斗クンの隣でうっとりしているめぐさんも嬉しそうに身体を揺らしている。
なぜこんなにもみなが心穏やかになるかといえば、言葉に想いが乗っているからだろう。翼クンにも麗華さんにも想いを伝える力がある。ゆえに僕の心も動いたに違いない。
もし僕にも誰かの心を動かす力があるのだとしたら、それは言葉ではなくやはり行動だろう。不器用な僕はがむしゃらに努力することしか出来ないが、そういう姿に感動を覚え、生きる支えとする人もいると知ったからには、今後も僕のやり方を、自信を持って貫けばいい。
歌が終わると真っ先に麗華さんが拍手を送った。
「とてもいい声ね。素晴らしかったわ! ほかの歌も歌って欲しいくらい!」
「恐縮です……。一曲でご勘弁を……」
翼クンは本当に恥ずかしそうにうつむいてギターを返した。
「ねぇねぇ、こーたん、おそと行こーよぉ!」
歌が終わるのを待っていたかのようにまなちゃんが僕の膝から降り、手を引いた。
「おまたせ、まなちゃん。それじゃあ行こうか」
「ん!」
歩き出した僕らを見て、親であるめぐさんたちがドアを開ける。
「ああ、やっぱり子どもってかわいいね……」
呟いた麗華さんはギターを椅子に立てかけた。
「……まなちゃん、あたしも行っていい?」
「ん! いっしょにあそぼ!」
話しかけられたまなちゃんは嬉しそうに麗華さんの手を握った。
「うわっ、絵になる光景みっけ」
大津クンが指で作ったフレームの中に僕らを収めた。
「実年齢考えたら孫なんだろうけど、二人とも見た目が若いから親子みたいに見えるっす」
そう言われた僕と麗華さんは顔を見合わせた。
「うふふ。ってことはあたしたち、夫婦ね?」
「…………! 大津クンの言葉を真に受けないで下さいよ……」
「さっき、あたしたちは家族だって確認したばかりじゃない? 夫婦も家族でしょう?」
「参ったな……」
反応に困って半分うつむくと、麗華さんは庸平を揶揄うときと同じような顔で笑った。
37.<庸平>
約束の時間。レストランに現れた孝太郎はホッとしたように笑い、なぜか俺の肩に手を置いた。
「やはり君の顔を見ると安心する。ここの予約を入れておいて正解だったよ」
それを聞いて、姉と何かあったな、と直感する。
「……つけられてないだろうな? とにかく、席に着こう」
「ああ……」
年末も押し迫った今宵に予約したのは、孝太郎の自宅マンション近くにある小さなレストラン。本来であれば年末休業中のところ、あいつのファンだというオーナーに頼み込んで特別に開けてもらっている。オーナーが「貸し切り」の札と鍵を掛けたのを見届けると、孝太郎は心底ホッとしたように息を吐いた。
「……姉貴に何を言われたんだか。その顔を見る限り、余程ひどい目に遭ったようだな」
「麗華さんが揶揄うのは君だけだと思っていたんだが、甘かった……。今夜は麗華さんが仕事だったから良かったものの、一日空いていたら今頃は彼女の部屋に連れ込まれていたかもしれない」
「はぁっ……?!」
椅子に座りかけた俺は慌てて立ち上がった。
「ど、どういう意味だよっ?! ちゃんと説明してくれっ!」
「ああ、話すよ。とりあえず落ち着け」
「落ち着いていられるかっ!」
「庸平が座らないと料理を運んでもらえないじゃないか。見ろ、オーナーが困惑している」
振り返ると、確かに困り顔のオーナーが立ち尽くしていた。
「す、済みません。取り乱して……」
深呼吸をしてなんとか心を落ち着かせる。店内のジャズミュージックに集中し、ようやく平静を取り戻した俺は、前菜が提供されたところで改めて聞く。
「……ちゃんと落ち着いたぞ。いったい何があったってんだ?」
「野上家の人たちと接する中で僕の境遇が羨ましくなったのか、はたまた彼女自身も家族に囲まれて暮らしたくなったのか……。いずれにせよ、僕を『夫』と表現するのは冗談でもやめてもらいたいものだ」
「夫ぉ……?!」
「すべての元凶は大津クンにある。まなちゃんを間に僕と麗華さんが両脇に立ったら、まるで親子のようだ、などと……」
「それで姉貴が調子に乗ったわけか……。ったく、この前会ったときには独り身が楽ちんだって言ってたのに……。やっぱり俺も一緒に行くべきだったな」
「それには及ばない。後のことはちゃんと悠斗クンたちに任せてきたからね」
「え?」
膨らみかけた風船の空氣が急に抜けたみたいに拍子抜けする。孝太郎は種明かしとばかりに説明する。
「どうやら麗華さんもまなちゃんを甚く氣に入ったらしくてね。今後も会いたいという麗華さんの言葉を聞いて、それじゃあ交流を深めましょうという話になったようだ。無論、忙しい麗華さんがどれほど彼らと会う時間を作れるかは分からないが、彼らと会い続ければあの麗華さんも最後には再教育されるだろう」
「再教育……! こいつはいいや!」
俺は手を叩いて喜んだ。数分前まで感じていた苛立ちは消え失せ、祝杯を挙げたい氣分になる。
「そうだ、ワインでも飲もう。好きなのを頼んでくれ。今メチャクチャ機嫌がいいから酒代は俺が持つ」
「ほう。ならば遠慮なく」
満足そうに頷いた孝太郎は早速オーナーを呼ぶと、料理に合う白ワインを注文した。
「時に庸平」
オーナーが去ってすぐ、孝太郎が思い出したように言う。
「このあと初詣に行かないか? この街に来てから、まだ一度も神様にご挨拶していないだろう? 僕が案内してやるよ」
「初詣? それは年が明けてからするもんじゃねえの?」
「本来は除夜の鐘を聞き、年が明けると同時に参拝するものだと野上家の人たちに教わってからはそれに習うようにしているんだ。まなちゃんが生まれてからは一家の代表である悠斗クンに誘われて参拝していたが、今回は君と行きたい。なんと言っても同居人だからね」
まさか孝太郎の口から「神様にご挨拶」などという発言が飛び出すとは……。しかし、この頃の孝太郎に心の余裕があるのは、神仏を信仰する時間を持てているからなのかもしれない、とも想像する。
「お、おう。それなら行こうか……。案内頼むわ」
戸惑いながらも返事をすると、孝太郎は目を細くしたのだった。
◇◇◇
一旦帰宅し、日付が変わる頃に部屋を出る。普段なら少ない人氣も今日は昼間のごとくいる。そして彼らはみな同じ方を目指して歩いて行く。
「みんな初詣客なのか……? 結構多いんだな」
「僕も初回は驚いたが、この時間に神社を訪れる人がみな厚い信仰心を持っていると思ったら嬉しくないか?」
「確かに」
「……もっとも、今のは悠斗クンの台詞だけどね」
「前から感じていたけど、鈴宮さんのこと、ずいぶん信頼してるんだな……」
「そりゃあ、悠斗クンと翼クンはかつての僕を殺してくれた人物だからね。彼らが今の僕を作ったと言っても過言ではないし、未だに教わることは多い。本当に感謝しているんだ」
「えーと……。翼クンってのは確か野上の息子だったな? なるほど、孝太郎がこれほどまでに変わった理由も見えてきたぜ……」
「どうだ? 君も彼らと交際すれば新たな境地に至れるかもしれないぞ?」
「…………? それって、姉貴と一緒に再教育されるってこと? 絶っ対にお断りだね」
全力で拒否する俺を見た孝太郎は大口を開けて笑った。
*
目的の神社に近づく頃にはかなりの人でごった返し、参拝するには列に並ばねばならないほどだった。
順番が近づくにつれ、俺はこれまで何回神社で手を合わせただろうか、と思い巡らす。が、家族と一緒に数回来たことがある程度で、正式な参拝方法も知らないことに氣付く。そもそも「神頼みなんて」という意識だから、知ろうとさえしてこなかった。しかしそれは孝太郎も同じだったはず。
「……なぁ、どうして毎年参拝するようになったんだ?」
手を合わせる前に聞いておきたかった。孝太郎は迷わず答える。
「僕を生かそうとする何者かの力を感じるようになったからさ。それが神なのか死んだ両親の霊なのかは分からない。いずれにしてもこの世の者の力じゃないことは確かだ。ならば僕は、彼らの意向に沿うよう生きなければならないし、生かされているおかげで今の平穏な暮らしを体験できる。そのことに感謝したいと思うのは自然なことだろう?」
「お前は本当に変わったな……」
「今からでも遅くはない。庸平だってやってみたら分かるさ。そりゃあ悠斗クンみたいに本当に幽霊が見えるようになる人間は希有だろう。事実、僕には見えやしない。それでも……肌で感じられるようにはなったと思ってる」
「肌でって、どう感じるんだ?」
「言葉で説明するのは難しいが、日々護られている感じがするんだ。そのせいもあって心は穏やかだし、生きることが楽しい」
「そうか……。とはいえ、見えないものの存在を信じる……。なかなか難しそうだけどな……」
「なに、今この瞬間、僕と二人きりでいられることに感謝するだけでいい。それこそが神の計らいなのだから」
「おっ、それなら出来そうだ」
確かに、孝太郎の大ファンである俺が彼を独占しているこの状況は奇跡としか言いようがない。それを神様が用意してくれたのだと言われれば納得も出来る。
参拝の順番が回ってきた。書いてあるとおりに礼拝し、神に感謝の言葉を伝える。
(最高の友人といつも一緒にいられる環境を用意して下さり、ありがとうございます。これからもどうぞ、よろしくお願い致します……)
自然と、何度も頭を下げていた。目を開けると、孝太郎も熱心に手を合わせている。その横顔にしばし見惚れていると、視線に氣付いた孝太郎がちらりと俺を見「行くぞ」と言って先に歩き出した。
向かってくる人をすいすい避けながら神社の外に歩いていくあいつに声を掛ける。
「おい、みくじは引いていかないのか?」
「僕がそういうのに一喜一憂する人間だと思うか? それに、運試しなどしなくても君と僕はどうせ、ツイてる」
はっきりと言い切ってしまうところが孝太郎らしい。
「そうだな。これまでのお前の人生を考えたら、ツイてないわけないよな……」
「そうだとも。それに、もし人生に行き詰まったときにはちゃんと助言をくれる家族がいる」
「野上たち?」
「もちろん彼らもそうだが、君も含まれてるよ。……今年もよろしく」
「……ああ。こっちこそ」
差し出された手を力強く握り返す。その手は思いのほか温かかった。
38.<悠斗>
夕べは除夜の鐘の音も聞かずに寝た。そのせいか、日の出前に目が覚めたおれは、いい機会だと思って一人、朝日がよく見える橋まで歩いてみることにした。
元旦の朝の空氣は肺を凍らせるほど冷たい。白々と明ける空を眺めながら歩いていると、白い息を吐きながら橋の方へ駆けていく子どもたちに出会った。あとから親らしき男女がついていく。その姿にほっこりし、つい頬が緩む。
「早く早く! お日様が昇っちゃうよ!」
子どもに急かされた親は「はいはい」と返事をし、小走りで子どもの元に向かう。東の空が明るくなってきたように感じたおれも彼らについて走って行く。
橋の上にはすでに多くの人が集まっていてカメラを構えていた。そろそろか、と東の空に目をやると、雲間からオレンジ色に輝く一筋の光が差した。それは一瞬のことで朝日はたちまち広がっていき一帯を照らす。
「おおっ!」
初日の出を目にした人々は一斉に歓喜の声を上げた。中には朝日をバックに写真を撮る人もいる。
そんな中、おれは一人、太陽に向かって手を合わせ拝んだ。凜とした空氣の中で日の出に立ち会ったら何だかありがたく感じたのだ。いや、それはおれが忘れていただけで、魂は太陽の神聖さを覚えているから自然とそうしたのかもしれない。
まだ低い位置にあるというのに、日の出から数分後の太陽は力強く輝いていた。その太陽光を含んだ神聖な空氣を胸いっぱいに吸い込み、吐き出す。身が清められたように感じたおれは、さっぱりとした心持ちで太陽を背にし、家路についた。
*
「おかえり」
家に戻ると翼が出迎えてくれた。
「日の出を見てきたの? 俺にも声を掛けてくれたらよかったのに」
「普段忙しくしてるお前は、年始の朝くらいゆっくりしたほうがいい。それに日の出なら二階の空部屋から見えるはずだよ。どこから見たって、初日の出は初日の出だろ」
「それもそうか」
納得したらしい翼はさっときびすを返し、二階へ上がっていった。後を追うと、まなを抱いて自室から出てきためぐと鉢合わせた。
「おはよう、悠くん。そんなに厚着してどうしたの? 外に行ってたの?」
「ああ。初日の出を拝んできたんだ。めぐもしたらいいよ。そっちの部屋から見える」
言い終わると同時に、「めぐちゃんたちもおいでよ」と翼の呼ぶ声がした。部屋に入ると、開け放たれた窓の正面に朝日があった。
「うわあ、まぶしい!」
「まぶちぃ!」
めぐとまなが同時に言った。眩しさに耐えられなかったのか、まなはめぐの腕から降りるとおれの足に縋って目をこすりつけた。
「まなには刺激が強すぎたかな……。だけどな、まな。これが太陽の力、生命の源だ。よーく覚えておくんだよ」
難しかったらしく反応はなかったが、翼が氣を利かせて「ほら、まな。お日様にご挨拶だよ」と抱き上げ、再び日を拝ませた。
「お日様を浴びると元氣が出るんだって。だからまなもお日様の力をもらおう。……段々目も慣れてきただろ? 身体もぽかぽかしてきただろ?」
「しゃむい!」
素直なまなは、寒がってすぐに翼の腕から降りてしまった。
「ママ、ごはん!」
「はいはい、お腹が空いたよね。今日はおせち料理だよ。まなも少し食べてみようか。パパとママが手作りしたからおいしいよ、きっと」
「おせち、おせち!」
まるで歌うようにまなが言った。その様子がおかしくて三人揃って笑う。
*
階下に降りたおれたちは、おせち料理がつまった重箱を一段ずつ居間のテーブルに並べた。それらの作り方はすべて昨年亡くなったオバアに教わったもの。今にもその辺からのっそり現れて「詰め方が違うわよ」と言ってくるような氣がしてならないが、もうその声は聞けない。
大人は御神酒を、まなはジュースをお猪口に注いで掲げる。
「この杯は亡きオバアのために。献杯」
静かに杯を上げ、一口で飲みきる。まなだけは「カンパーイ」と言っておいしそうにジュースを飲み干した。
「さて……。一晩経った煮物の味はどうかな?」
出来映えが氣になる翼は、早速煮染めのいくつかを皿に取って口に放り込んだ。
「うんうん、上出来!」
「あっ、味が染みておいしくなってる! よかったぁ、ちゃんとおばあちゃんの味を再現できてる!」
めぐも椎茸を食べながら満足そうに言った。
「まなたんにもちょーだい!」
「はいはい。どれがいい?」
「おまめ!」
「えー? 煮染めじゃないの? せっかく上手に出来たんだけどなぁ」
「まぁまぁ……。そうだ、雑煮も作ろう。悠斗、ストーブの上で餅を焼いてくれる?」
「了解」
翼に言われて餅を並べる。
「まなたんもやるー!」
「それじゃあやってごらん。ストーブが熱いから氣をつけてな」
「ん!」
こんな調子で正月の朝はのんびりと過ぎていく。
*
オバアが亡くなってから初めて迎える年。年末までは、しんみりと喪に服すつもりでいたが、亡き両親の思い出話でもしながら新しい年を迎えよう、というニイニイの発案により新年会が催されることとなった。場所はニイニイ宅だ。
「喪中だけど、どんちゃん騒ぎが好きだった両親と話が出来るならきっと、こうしてくれって言うと思ってな。そういうわけだから遠慮はいらねえ。例年通りワイワイやってってくれ」
居間の片隅に置かれた小さなテーブルにはオジイとオバアの写真が置かれている。生まれ変わりを望んでいた二人がここに現れることはもうないのだろうが、こちらを見て微笑む生前の写真があるだけで見守られているように思えるから不思議だ。
「そうですね。二人ならきっとそれを望むはず。楽しくやりましょう」
「兄貴。企画してくれてありがとう。お礼に今日は一本差し入れを持ってきたよ」
話に加わった彰博は手に持った酒瓶を掲げた。それは、バー・三日月でも飲んだ地元発のクラフトジンだった。
「ジン? おれはビール派なんだけどなぁ」
「まぁまぁ、そう言わずに。実は最近、自宅でカクテルを作るようになってね。せっかくの機会だから兄貴にもごちそうしてやろうかと。大丈夫。今日作るのは和食にも合うジントニックだから」
「お前がカクテルを? 素人にうまい酒が作れるもんかねぇ?」
「その口ぶりは馬鹿にしてるね? そんな反応をしたことを後悔させてあげるよ」
「あのさぁ、新年早々兄弟げんかはやめてくんない? ほら、じいちゃんとばあちゃんが見てるよ?」
翼に突っ込まれた二人は同時に写真に顔を向け、急に肩を組んだ。
「……喧嘩じゃねえよ、なぁ?」
「そうそう。こんなの、日常茶飯事だよ。親も、僕らがずっとこんな調子だってことくらい分かってると思うよ、多分。……ってことで早速、どう?」
「おう。それじゃ、一杯もらうとするか」
並んで台所に向かう二人を写真の中のオジイとオバアがじっと見つめている氣がした。
「彰博、おれにも作ってくれよ。ニイニイ、一緒に飲みましょう」
先に行った二人を追いかけてそう言うと、少し離れたところで見ていた翼のため息が聞こえてきたのだった。
*
新しい年を節目とする。それを疑ったことのある人は少ないだろう。こうやって「年始だから」と集まっては酒を酌み交わす。それはそれでいい。だけど今朝の日の出を見ておれは、目覚めるたびに新しい一日が、命が、与えられたと考えて生きようと改めて思った。なぜならこうして生きていることは当たり前でも何でもなく奇跡だからだ。
まなの発話のことで沖縄を訪れている最中にオバアが息を引き取ったように、死はこちらの都合などお構いなしにやってくる。父親が急逝したときもそう。なんの心づもりもないおれにそれは覆い被さり、目の前を真っ暗にした……。
「悠、どうしたの? 怖い顔しちゃって。僕の作ったジントニックは口に合わなかった?」
グラスの中の酒とにらめっこをしていたら、彰博がおれの正面に腰を下ろした。
「いや、こいつはうまいよ。そうじゃないんだ……」
「君の心中を当ててみようか。そうだな……。今の君は、兄貴がビールを飲み散らかしている様を見てうんざりしている。もう、ああいう飲み方は出来ない。飲むなら静かに人生を語り合う飲みがいい……と。どうだろう?」
「いい線行ってる」
「じゃあ、君が氣に掛けているのは母のことか。一年前は確かに存在していたのに、今はもういない……」
「ああ、そうだ。だからこそ、今日この日の出会いを、起きたことを、会話を、大切にしたい……。そんなことを考えていた」
「君らしいね。それを聞いて母も喜んでいると思うよ。……ありがとう。君と、今日もこうしておしゃべりが出来ることに僕も感謝しているよ。……そうだ、ちょっと庭に出ない?」
「ああ」
彰博に誘われて小さな庭に出る。そこにはオジイとオバアが暮らしていた家から引き取ったみかんの木があった。立派に育った木を植えるスペースがなかったために、それは巨大な植木鉢に植え付けられ、庭のシンボルツリーのごとく鎮座していた。
彰博はその木に成っているみかんをふたつ、家主の許可なく捥いで、そのうちの一つをおれの手に載せた。
「このみかんを、今は亡き両親の仏前に供えよう。そして最後にみんなで食べよう。それが今、生きている僕らに出来る最善の行為だと僕は思う」
「そうだな……」
握ったみかんはかたく引き締まっており、オジイの手を思い起こさせた。みかんに付いた傷はオバアの笑った顔を思い起こさせた。
「オジイ、オバア。おれもいつかそっちに行くから、その時はまたおしゃべりしましょう」
「そんなこと言ったら、まだ来るなって怒られるよ」
彰博は半分呆れた様子で言い、再び室内に入った。おれもやつに続いて入り、仏壇の前に立つ。
みかんを供え、手を合わせているところへ皆が集まってきた。
「あぁ……。そう言えば今年のみかんはまだ味見してなかったな。相変わらず酸っぱいんだろうけど、今年は両親にまず出来映えを確かめてもらうとするか」
ニイニイが未開封のビール缶を持ったまま合掌した。その様子を見た翼が一言いう。
「父さん、そのビール、じいちゃんにも飲ませてあげなきゃ」
「おう。ほら、親父。今日は正月だ。どんどん飲んでくれ」
プルタブが開けられたビール缶はそのままオジイの写真の載ったテーブルに置かれた。その後、誰からともなく二人の昔話が始まり、花が咲く。
二人はもうこの世に存在していない。でも、今日だけは確かにここにいる。おれたちの心の中に……。
おれは少なくなったジントニックの入ったグラスを片手に、ふたりの写真の隣に座った。
「オジイ、オバア、一緒に飲みましょう。さて、今日は何を話しましょうか……」
独り言のように語りかけると、目の錯覚か、写真の中の二人が微笑んだような氣がした。
(じいちゃんもばあちゃんも幸せ者だよ。ありがとう、ありがとう……)
「……今、おじいちゃんの声がしなかった?」
「じいちゃん……?」
「親父……?」
声を聞いたのはおれだけじゃないようだ。みな一斉に、オジイの姿を探すように辺りを見回している。
「悠斗、じいちゃんの姿、見える?」
「いや、見えない。だけど、おれにも聞こえたよ。オジイの声が、はっきりと」
「そうか……」
見えない、と聞いて少し残念そうな翼だったが「見えなくても、いるよな、きっと」と言っておれの隣に腰を下ろした。
「正月に限らず、いつでもこっちの世界に遊びに来てくれよな。悠斗と二人でじいちゃんの酒の相手するからさ。ってことで、乾杯」
「じゃあ、わたしはおばあちゃんと乾杯しよーっと」
「まなたんもー!」
乾杯の輪が広がり、室内が一層笑顔で溢れる。
(この、心満たされた時間。この瞬間に感じたことをすべて魂に刻んでおこう。いつの日にかこの身体が失われても覚えていられるように……)
笑い合うめぐとまな、そして翼をまるごと抱きしめる。
「うわぁ! お酒がこぼれちゃう!」
「キャハハッ!」
「どした、悠斗?!」
「……語彙力ゼロのおれに出来る、精一杯の愛情表現。これからもよろしくな」
腕の力を強めると、三人がそれぞれに言う。
「大丈夫。悠くんとはこれからもずうっと一緒だよ」
「ん! いっしょ!」
「ああ。悠斗の愛情、ちゃんと受け取ったぜ」
三人の言葉と体温が、肉体と魂に染み渡る。胸の内が、芯が、じんわりとあたたかくなる。ああ、おれはいま、生きている――。心臓の鼓動を感じながら改めて思うのだった。
第四部 完
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第一部・第二部の一気読みはこちら
第三部の一気読みはこちら
本作は続編を執筆予定。気に入って下さった方は、ほかの作品もぜひ読んでみてください🥰
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