映画『獣手』感想と個人的見所
※ネタバレあり
以前に『獣手』完成披露試写会の際に感想を書いたものの、限られた人数しか観られていない状態で多少なりともネタバレを含むものはどうかと公開しなかった物に、映画本公開後に改めて加筆したものになります。
『獣手』ざっくり感想
企画開始は福谷さんが心捨て去っていた時期の2019年11月。
2019年3月にビッグサマーの配信にて『岬の兄妹』の凄み、女優:和田光沙の良さを福谷さんが熱く語ったあの日が映画『獣手』の種だったと考えれば、約5年もの年月を経てやっと観客の目に触れる日が来た。
ようやく完成した物を観る事が出来たことは感慨深かったですが、忖度なく良い作品だったと思います。
映画『手』の特報で主題歌である『ツナグ』を聞いた時点であまりの良さに心やられちゃった身としては失礼ながら「エンディングでこれ流れたら大概の事は何とかなるな」という気持ちで鑑賞に挑んだ部分がありましたが、ラストカットまでにしっかりと魂揺さぶるものになっており大変反省しました。
もちろんそれ故にクレジットと共に押し寄せる『ツナグ』がまた素晴らしい物になっていましたが。
ここが凄いよ『獣手』
素人の自分には「演技力」というものやその度合いと言ったものは正直よく分からない物ではあるが『獣手』を観ると「俳優さんてスゲー」と強く感じさせられました。
本編からは脚本に春日さんが参加し物語に深みを与えてくれましたが、それらに説得力を持たせられるかどうかはやっぱキャストの力だなと。
前編はキーマンである川瀬さんのThe暴力というオーラが全てを動かしていましたが、それのなくなった後編も松浦さんがストーリーラインを引っ張り、上西さんが登場するだけで「どうも悪の親玉です」というインパクトを放って速度感が緩まない。
優しく静かな港町の風景の中で停滞し行き詰る主演2人はバイプレーヤーがもたらす緊迫感に否応が無く破滅へと追いやられていく。
そして演技力という点で言えば何より和田さんの表情。
喜怒哀楽の感情と言うのはそりゃ誰の中にも引き出しはあるのだろうが、今作における小雪が見せる絶望というよりは虚無というか「もう何もかもがイヤなのだ」という諦めの表情はどう醸し出しているのか想像もつかない。
『岬の兄妹』であの天真爛漫な笑顔を見ていればなおさら同じ女優さんなのだろうかと思ってしまう、持ちうる感情の幅の広さ。
お陰で近年公開の『女囚霊』や『映画「窒息」』でも和田さんの表情の変化ばかりを追ってしまっていた。
窒息に関しては言語のない、台詞のない映画という挑戦的な作品ながら和田さんならきっと問題なく登場人物の心情を伝えてくれるのだろうという安心感をもって観られるほど。
福谷さんが度々「家で和田さんと読み合わせをしていると延々ダメ出しをされる」というエピソードを語るが、なんかもう「頑張れ…」としか言いようがないほど女優:和田光沙は凄いのだと思う。
別段夏目さんや福谷さんの演技が下手だと思ってきたわけではないし二人とも「オラァッ!」って役の時は輝くし魅力的である。
福谷さんは近年だと『真・事故物件2』の役回りだって評価高いし、周辺監督陣も福谷さんの演技好きと言っているし。
ただ師弟二人とも落ち着いた演技の時に「オフのぉ、演技を、しています…」感が出てしまうのよなぁと感じる時があり本作のように周りが凄すぎるとそういった側面が見えてしまうのは贅沢な悩みか。
とにかく和田さんなのだ
和田さんの表情という点で個人的に見所と思っているシーンがある。
本作の感想・批評では濡れ場のシーンに衝撃を受け絶賛する声を多く目にする。
圧制者たる乾に振り回され摩耗した修と小雪は感情のすべてをぶつけあい、その吐き出した情念によって空いた心の空白をお互いで埋めるかのように求め合う。
獣のように乱暴であるが人だからこその愚かさと熱量に満ちた、ある意味でどのスプラッターやバイオレンスのシーンよりも人と獣の境目を描いているとも言える。
だが注意深く見てもらいたいのはその直後のシーンだ。
いわゆる事後のカット。
情事のインパクトが大きすぎてさらっと見逃されがちなつなぎのシーンであるが、ここの主人公二人の表情の違いがキャラの深掘りをする上でとても重要だと感じた。
福谷さん演じる修の表情は無、ゼロであるのに比べて和田さんの小雪は絶望、マイナスなのだ。
ここは前述したような演技力の差がどうのという話はさておいて、二人のキャラクターの感情値がズレている事こそが正しいと思わされるカットだ。
大枠だけを見れば本作の軸は、乾によって社会の底なき泥濘その奥深くに引きずり込まれお互いだけを支えとして逃亡生活を送ることとなった二人…と言い表せるが、果たしてその足並みは最初からそろっていたのだろうか?
修は裏社会から抜けたとはいえ何か自発的に行動することはなく、実社会から逃げ自ら底辺へと身を置き続けて生きてきた。
一方で小雪は様々な意味で生まれ変わり過去と決別し前向きに歩き出していた。
乾の再出現によって足を踏み外した二人だが、その落差は同じであったとは思えない。
なので、前半部のこのカットにおいてお互いの絶望度には乖離があってしかるべきであり、表情に現れる心理の差がそのままそれを表現しているように見えたのだ。
修はこの時点ではあまり多くを失っておらず、どこかそれまでの延長線の諦念や逃避と変わらぬ心持ちで小雪との逃亡を口にしたように思えてならない。
しかし後半に入りツナグとなったあの海岸、あのお互いを繋ぎとめるように手を取り合うシーンは間違いなく同じ場所に立っている。
つまり修は人の手を失い獣の心を植え付けられることによってそれまでの自己存在と尊厳を失い、ようやく「奪われた者」同士として小雪と同じステージの絶望へとたどり着いたのだ。
そう考えてようやく、前半から後半へと移行するあの中間クレジットは物語上や構成面での狭間というだけでなく、正しく二人がお互いしか居らず共に生きるしかないと覚悟を決め歩み始める境目であったと思えてくる。
修は情けないからこそ良い
『獣手』はとてもテンポ良く見やすい映画である。
どす黒く重たい感情面の話を抜きにして語ればであるが。
夏目監督自身も常々「長過ぎる映画は観る気が起きにくい」と言っているのもあるから納得の行く編集ではある。
本作とは全く方向性の違うホラーコメディである『心霊調査ビッグサマー』でもアドリブのやり取りを面白がって長く回してはいても、映画としてはテンポを優先し結構カットを切る印象でもある。
夏目監督や福谷さんが「ジャンルとしてはヒューマンドラマと思っているが皆にはあまりそう伝わっていない」と話していた要因の一つはそのテンポの良さにあるのかなという気もする。
人間であったり、その集合体としての小さな社会を描いた作品というのは、少し語弊があるかもしれないが「やや退屈さがある」様に思うことがある。
間というのは良くも悪くも働く要素なのかなと。
あとから見れば「切って良かったのでは」という無駄な間もあれば、キャラであったり人間関係を想像させる余白を生むこともある気はする。
劇場公開されたものは、クラファン用に事前に公開されていた前編から結構カットされているシーンがあるのだが、個人的に好きだったシーンが無くなっていた。
どれくらい好きかといえば、他にしっくりくるのがなかったとも言えるが、クラファン時に書いた過去の感想でそこをタイトル絵にしたぐらい。
完成版しか観てらっしゃらない方には見覚えのない画であると思う。
小雪が登場と同時に襲われる車のシーン、あの時に修は小雪を見捨て一度逃げ出しているのだ。
その後ろ姿である。
カットされた理由としては胸糞悪く長く見ていられない展開であるのを含め前半パートのテンポアップという点と、和田さんが福谷さんの走り方を見て「あんまカッコよくない」と感じたからと話していらした。
後半にも修が走るシーンはあるのだが、自分としてはそのカッコのつかない走り方がとても修らしくて良かったのだ。
アメコミヒーローのような疾走感ある走り方ではなく、足掻くように逃げるようにみっともなく走るその様が修というキャラの個性を補強しているように見えた。
修は主人公でありながらそれほど台詞が多くはないため、どうしても細かい所から感情や思考などのキャラを掬い上げないとなかなか全体像が見えにくい。
後半の家のシーンでお腹をさする小雪に悪態をつく場面、そのクズ発言に怒りを感じている感想を目にしたが、あそこも子供への愛情を抱えつつも不甲斐ない自分で良いのかと思い悩む僅かな”手”の逡巡を見逃すと彼の中にやっと芽生えた人らしい感情からあえて突き放そうとする言動に気づけない。
気づいてもだいぶ酷いこと言ってるからコイツダメだなの評価が覆るかというと難しいのだが。
要は何が言いたいのかはもう本人も分からんのですが、とりあえず和田さんの表情の凄さとそこから生み出される小雪の強さと、修と共に少しづつ成長していく福谷さんを注意深く観ていただけるとより作品を楽しめるということです。
結論
というかつべこべ言わず予告を見て。
そうすればきっと観たくなるはずだから。
映画『獣手』本予告
https://youtu.be/QGqqIqz7Br8?si=Ur1ZQSkiOjTSKgBV
映画『獣手』公式HP
映画『獣手』公式X
https://twitter.com/ubKXFxZYvUoamdI