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江戸川乱歩 『芋虫』を読んで

元々は丸尾末広の描く世界が好きで、丸尾末広がこの「芋虫」を漫画にしていたことから、この作品知った。

しかし、漫画版だと夫婦の情事の描写が多く、頼りの妻の心的描写さえもない、ほぼ画集のようだというレビューを見たので、それなら小説の方を読んでみようということになったのだ。
「芋虫」は登場人物が非常に少なく、旦那の心的描写もほとんどないため、妻の時子の心的描写が無いと、本当に何も分からない。

それに、実家住まいだと、もしも丸尾末広の漫画、それも芋虫の漫画が家族に見つかってしまえば、元々座敷牢に住んでいるような身分なのに、いよいよ追い出されてしまう。

そこで、小説を手に取った。

さて、「芋虫」のあらすじについて(感想にも関わるため完全な結末も含む)だが、このようなものである。

須永中尉は、戦争で四肢を失い、耳も聞こえず言葉も喋れなくなった。
残されたのは視覚のみ。
その身体で30才の妻 時子とともに暮らしている。
中尉は、口に鉛筆をくわえて筆談を行う、目や表情を使うなど以外に意思疎通を行うことが出来ず、まるで大きな芋虫のようだった。

わずかな年金では暮らしがおぼつかなかった2人は、夫の上長官であった鷲尾少将の好意に甘えて、邸宅の離れの座敷に無償で住まわしてもらうことになる。

時子はそんな鷲尾少将からも
「あの廃人を三年の年月、少しだって厭な顔を見せるではなく、自分の欲をすっかり捨ててしまって、親切に世話をしている」
と。
貞節な妻として思われており、会う度にそう言われるのだ。
初めの頃は時子の心をくすぐり、快感を与えていた鷲尾少尉の言葉も、今では自分への叱責のようにに感じられて恐ろしさすら感じるようになっていた。

なぜなら、病院で変わり果てた夫の姿を見て、人目もかまわず泣き続けていた頃の時子はもう居ないからだ。
今の彼女の心の内には情欲の鬼が巣くっている。
哀れな亭主を、ただ自分の情欲を満たすだけのために飼ってある獣のように、または一種の道具のように思うほど、変わっていたのだ。

不自由故なのか、性欲と食欲が旺盛になり、何時であろうと時子の身体と食事を欲する夫の姿に感化され、だんだんと時子の胸にも須永への嗜虐心が芽生えていく。
そして、夫を痛めつけて快楽を得るようになっていた。

須永のなかでも夫婦の営みだけが生きる楽しみとなっていき、無気力になっていったその目にしっかりと喜怒哀楽の表情が表れるようになっていた。

しかし、時たま、彼の頭の中で、常人の頃に教え込まれた軍隊的な倫理観と敏感な情欲の矛盾に葛藤する様子が見られるのだ。
妙に弱い者いじめの嗜好を持っていた時子にとって、瞳にだけ映るその僅かな感情の変化が限りなく魅力的で、情欲に迫っていた。

そんな毎日を過ごしていたある晩、時子は悪夢で目が覚める。
横を見ると、肉塊のような夫が天井をじっと見つめる不気味な姿。
目が冴えて眠れなくなった。
そして、過去の出来事が思い出されるのだった。

夫が負傷し、病院で初めて対峙し、悲しみの余り泣き崩れたこと

「両手両足を失っても命を取りとめたのは、須永中尉だけでほんとうに奇跡だ」と言われたこと

四肢の代償として、功五級の金鵄勲章が授けられたこと
親戚、知人、町内の人々から名誉、名誉という言葉が降りこんできたこと

鷲尾少将の好意で、邸宅の離れ座敷を無賃で貸してもらえるようになったこと

月日がたつにつれ、須永中尉のことなど人々から忘れ去られたこと

親戚や両親などもやって来なくなり、皆薄情者だったこと

夫が、勲章や彼の武勲を書いた新聞を持ってくるよう、時子にたびたび要求したこと

夫が名誉に飽き、食欲と情欲が盛んになったこと

時子自身も、徐々に肉欲の餓鬼となり果てたこと


そんなことを思い出してるうちに、彼女の中の野生が荒々しくなり、湧き上がる兇暴な力を押さえることができず、突然夫の布団の上に飛びかかった。夫は怒ったのか、叱責のまなざしで彼女を睨みつけたが、時子はかまわず向かっていく。夫はいつものように妥協せず、刺すように彼女を見据えていた。

そんな夫に、時子は「何だい、こんな眼」と言いながら病的に興奮し、感覚がなくなっていく。
ハッと気が付くと、目から血を流して踊り狂っている夫。

慌てて医者の家へと走りながら、時子は「夫の物言う両目を、安易な獣になりきるために邪魔なもの」「夫を生きた屍にしてしまいたかった」という自分の恐ろしい考えにようやく気づいたのだ。

医者が帰ると時子はようやく落ち着いて、夫の胸をさすりながら「すみません」と泣いて謝り、胸に指で何度も何度も「ユルシテ」と書きつづけた。
しかし、一切顔色を変えない須永の様子に、時子は取り返しの付かないことをしてしまったと泣き出し、鷲尾少将のいる母屋へと駆け込み、長い懺悔をする。

二人で須永のいた部屋へ戻るとそこはもぬけの殻。

ただ、枕元の柱に鉛筆で「ユルス」と書かれていただけ。

ハッとして須永を探しに外へ出ると、這うような、微かな音が聞こえる。
一瞬、地を這う芋虫のような姿が見えたかと思うと、次の瞬間には身体が見えなくなり、地の底からドボンという水音が聞こえたのだった。

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読みにくく、と──────っても長いあらすじだったと思う㌔、『芋虫』を読んだことのない方にも、この作品について私と一緒に考えて欲しかったキャロル、少し詳細に書いてみた。
である口調で全て書こうと思った㌔、無理。

この作品は様々な解釈に別れ、『ハッピーエンド』か『バッドエンド』かという二択でさえも意見が別れて、決着がつかない程だ。

私はこの作品の結末を『バッドエンド』だと考えた。

時子が野生を荒らげる直前、『肉塊のような夫が天井をじっと見つめる不気味な姿があり』という描写がある。
今まで食欲と性欲が盛んになったという描写はあるが、人間の3大欲求である睡眠欲が盛んになったということは書かれていないし、須永中尉が眠っている描写も1度もない。

須永中尉は眠れなかったのでは無いだろうか。

須永中尉が『芋虫』となってしまったのは、戦争で怪我をしたからであり、その瞬間は壮絶なものだっただろう。

戦争から帰ってきた者も、日本に残っていた者も、よく戦争の悪夢を見て飛び起きることがあったらしい。そして、認知症になれば、鋭い記憶が残った戦時中の話を永遠を繰り返す方もいたようだ。

須永中尉は性欲と食欲で戦争の記憶と自分が不自由な身体になった事実を、自分の中で誤魔化していたんじゃないかと思う。
時子は眠っていたから気づかなかっただけで、彼は毎日時子が寝静まったあと、時子が狂う前に考えたような『過去の思い出』と向き合っていたのではないだろうか。

戦争で四肢と視覚以外の感覚を無くし、ほぼ生きる屍のようになった須永中尉にとって、夫婦の営みと食事だけが最大の意思表示であり、生きる楽しみであったのではないか。そりゃ、筆談も出来るが、限りがある。

外に出られなくなった須永中尉にとって、世話をしてくれる妻の時子が全てで、鷲尾少尉に頂いた邸宅の座敷が世界の全てだった。

しかし、その時子によって世界の全てと繋がる手段が絶たれてしまう。
視覚が奪われてしまい、世界の全てであったものが消え、暗闇が広がる。四肢も感覚もない自分だけがそこに取り残され、脳みそだけは動いている。
蘇る数々の思い出と、自分自身の意志。

時子の謝罪に一切顔色を変えない須永。須永中尉は時子に怒っていたのではなく、自分と向き合い生き続ける気力を失い、絶望していたのではないだろうか。

そして、時子は鷲尾少尉の元へ行く。
その間、彼は何を考えていたんだろう。
時子は鷲尾少尉に懺悔を行い、常人である鷲尾少尉と向き合う事で常人の自分を取り戻そうとするつもりだった。
しかし、私が須永中尉なら「とうとう、見捨てられたか」と思ってしまう。

そうなると、時子が須永中尉の胸に書いた『ユルシテ』という文字と最後の壁に書かれた『ユルス』の意味も変わってくる。

ここで、私が考える、この物語の1番のキーマンである『鷲尾少尉』が大きく関わってくる。
鷲尾少尉は須永中尉の上司で、時子に邸宅の座敷を無償で与えてくれている。また、何度か時子の様子を見に来てくれる人である。
そして、何度も何度も会う度に、時子の「貞操」のことを褒める。

きっと、その鷲尾少尉の様子のことも須永中尉は気づいていた。
時子が鷲尾少尉に泣き縋ったり、情に訴えかけたりすれば、また話の展開は変わっていたのだろうが、時子は鷲尾少尉の褒め言葉には惹かれず、邪悪な感情が裏にあるといえ、須永中尉と向き合い続けた。

そんな妻が、初めて鷲尾少尉の元へいく。
最後の感覚である視覚を奪われた自分を置いて。

その間、須永中尉は『ユルシテ』の解釈を間違える。

『貴方の元を離れるけど、ユルシテ』

暗闇の中で胸に『ユルシテ』という文字が妻の手によって繰り返し書かれ、唯一の頼りであった時子が何度も甘い言葉を掛けられていた鷲尾少尉の元へ行く。

須永中尉は視覚だけでなく、妻 時子という世界の全てを取り上げられてしまったのだ。いや、そう勘違いしたのだ。

世界の全てが無くなった自分は死ぬしかない。
自分が死ねば、時子は気兼ねなく鷲尾少尉の元へ行くことが出来る。
そこで柱に『ユルス』と書いて、井戸へ身を投げたのである。

『自分から離れ、幸せになることをユルス』

時子は『ユルス』の3文字をどう解釈したかは分からないが、

『目を潰したことをユルス』。

須永中尉が最後に残した3文字には、もっと深い意味があるのではないかと思う。

そして、時子にとって性欲と食欲だけを欲する生きる屍だと思って『いた』モノが自分の意思で言葉を遺し、この世を去った。
『ユルス』という短く重い3文字を残して。
自身の過ちと本性に気づいた自分と向き合う機会を与えることなく。

この記憶は時子の胸に深く突き刺さっただろう。
恐らく、時子は柱に書かれた『ユルス』という文字を見る度に、永遠に須永中尉を思い出し、永遠に懺悔し続ける。
須永中尉にとって、世界の全てだった時子。
須永中尉の死によって、そんな時子の世界の全てが須永中尉に変わったのかもしれない。

それだけが須永中尉にとっての救いであり、この物語の救いでもあると私は考えた。

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一方、時子について。

表では廃人になった夫を献身的に介護をする妻に見えるが、一歩中に入れば不自由な身体の夫を痛ぶることで快感を得るような女である。

しかし、『芋虫』が赤の他人だったら、時子の嗜虐心は現れていたのだろうか、『芋虫』の世話をし続けただろうか。

一貫して、時子は須永を痛ぶり自分の性的快感を得るために飼っている獣や道具だと認識していたが、その中に須永への愛はこれっぽっちもなかったのだろうか。

先にも述べたが、須永中尉を『廃人』と呼び、時子に甘い言葉をかける鷲尾少尉に泣きついて、須永を捨てることだって、恐らくできたがしなかった。

鷲尾少尉の甘い労いと賛美の言葉より、須永中尉を痛ぶり、情事を迫ることを選んだのは事実だ。
そして、何よりも性的快感を得るためであろと、己の世話を己で出来ない須永中尉の世話を全てし続けたのは時子自身である。

時子が行う仕事に対してのリターンがどう考えても少なすぎる!

また、須永中尉の喜怒哀楽が現れる瞳のみで、須永中尉の微々たる感情の動きにさえも気づくことが出来ていた。

時子と須永中尉は、『愛』と呼ぶには不気味で汚らわしく歪だが、そんな感情で繋がっていたのではないだろうか。

その対比として、須永中尉を持て囃すだけ持て囃して、熱が冷めたら須永中尉を忘れていった親戚や両親、周囲の人々がある。

もしかすると、時子よりも、そんな親戚や両親、周囲の人々の方がよっぽど不気味で汚らわしく歪なのかもしれない。

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作品全体を通して。

こんな経験、絶対にすることも無いし、したこともないのに、こんなに登場人物に感情移入ができるのは何故だろう。

目を覆いたくなるほどおどろおどろしく、グロテスクのに、胸に迫って切なくて悲しい気持ちになるのは何故だろう。

この作品から、愛とはなにか、人間の尊厳とはなにか、結婚とは、夫婦とは、ということまで考えさせられた。
そして、読む度に解釈が変わる不思議な作品だと思った。

また、時間を空けて読んだら、違う解釈が生まれるかもしれない。とりあえず、今回の解釈を書き留めておきたかったので、記録した。

ここまで読んでくださった方がいれば、とっても嬉しいです。お付き合いくださり、ありがとうございました。


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