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立待月 最終話 (22/22)

二十二〈手紙〉

 千影へ

 利口な千影のことですから、言わなくても気づいているかもしれません。こんな手紙は必要ないかもしれません。それでもこんな手紙を書いたのは、わたしが後悔をしないためという自分勝手な理由と、もし何かに苦しんでいるなら、千影が楽になれればという願いと、お父さんがまた写真の裏に変な詩を書かないようにするためです。

 お父さんと話し合って、受験が終わるまでは、死期がせまっていることを千影に伝えないようにしようと決めていました。また、この手紙はわたしが死んでから、千影にわたしてくれるようにお願いしました。生きているうちに渡すと、あまりにも芝居がかって見える気がしたからです。

 あなたが生まれたとき、本当にうれしかった。それまでは子供が嫌いでほしいともかわいいとも思っていなかったのに、生まれてみると一転、可愛くて仕方がなかった。お腹を痛めて産んだ子だから可愛いなんて嘘ですね。だってあんまり痛くなかったんだもの。それでも可愛くて仕方がないんだからよっぽどね。この子はお父さんと一緒に、いっしょうけんめい育てていこう、そう強く心に誓いました。

 お父さんも大喜びでした。あとで聞いた話だけど、生まれて千影の泣き声を聞いたとき、ガッツポーズをして病院の中を走り回ったそうです。あのお父さんがよ? 想像できる? わらってしまいますね。まだ髪の毛があったかしら?

 はじめは平屋の古いアパートでした。電車がすぐ近くを通っていて、最初はガタゴトうるさくて嫌になっちゃったけど、千影が泣いていても電車の音のほうが大きいので、ちょっと助かった部分もありました。

 日あたりの悪い六畳間で、生まれてすぐのあなたは、畳の香りをかぎながら大きくなっていった。あなたはそのころから華奢で、からだ全体がきゅっと締まっていた。きっとスタイルのいい、美人さんになると確信しました。

 幼稚園に入ると、あなたは音楽に特別な能力をしめした。カスタネットで複雑なリズムを表現したり、ピアニカや木琴も、すごい早さで弾きこなしたり、叩きこなした。好きな曲を自分で聴きとって、ハンドベルで演奏して、幼稚園の出し物でみんなの人気をさらいましたね。保母さんたちも本当に感心していました。

 千影は本当によく笑う子でした。笑いかたは上品で、あなたが笑えばみんながつながった。ちょっとくらいのケンカなら、笑うだけで簡単に仲直りしてしまう。そうやって笑ってばかりいたせいかしらね、最初は一重まぶただったのに、だんだんとまぶたに線が入ってきて、深くなって、そのうちきれいな二重になった。それが黒い短髪にとても似合っていて、おもわずいい子いい子したくなってしまいました。

 小学校三年生のころ、いまの場所に引っ越したのは覚えてる? そのころのあなたは、幼さが生み出す美しさの頂点にあった。

 白く細い手足に、自然な黒色の髪、ゆるやかないただきを経て、細くなり薄れてゆく眉、薄紅色の薄い唇から覗く、透明感のある歯。それは親のわたしでも、ため息が出るほどでした。その頃、お父さんが写真をたくさん撮っていたのは無理もないことです。

 勉強熱心で、放課後は図書室にこもり、予習復習はもちろん、いろいろな本を読みあさっていた。担任の先生が心から感心したように話していたのを覚えています。成績は優秀で、まわりから天才だなんてひやかされることもありましたね。それにしてもこの手紙、子煩悩が過ぎますね。

 自分のことも振り返ってみようと思って、写真の整理をしていたら、やっぱり千影の写真が気になってしまいました。

 そのころの千影の写真の裏に、お父さんの字で変な詩が書いてありました。


   千影は色であり

   香りであった

   一面をおおう

   生命の群れであった


 おかしいでしょう? あのお父さんがこんなことを書くなんて。

 中学にあがったあなたは、その美しさで老若男女を問わず魅了した。でもそのせいで、あなたは消えることのない傷を負った。友達に挑発されたことがきっかけで、自分の頬を傷が残るほどのちからで、上から下にハサミで切りさいた。

 当時はあわててしまって、千影になんと声をかけていいかわかりませんでした。何を言っても、あなたを傷つけてしまいそうで。

すごい跡が残ってしまうんじゃないかって心配してたけど、いい先生が見つかって、いまはあまり目立たなくなったので安心しています。

 中学生の頃にはほとんど勉強することがなくなっちゃって、あなたは音楽理論の本を読み始めたのよね。わたしは音楽はさっぱりだけど、お父さんのレコード好きが影響したのかしら?

 ピアノで作曲をするようになって、さっき出版されたものを調べたんだけど、ピアノソナタ、オルガン曲、フルート協奏曲などを書いたのよね。譜面をひと目見て、有名な作曲家がうなっていたのはわたしの自慢です。

 高校に入ると、あなたはまた美しくなった。校門から出る千影を見に来る若い人がたくさんいて、嫌な顔をしていたわよね。去年までそんなことがあったかしら。

 悲しいけれど、顔にひとすじの傷があるという唯一の欠点がすばらしい、と言っている人がいたそうね。わたしは傷を受け入れて生きている千影のほうがどんなにすばらしいかわからない。でも、本当にあなたが受け入れているのかは自信がもてない。あなたは利口だから、みんながいちばん喜ぶ形を選ぶものね。

 雑誌の取材申し込みも、もみ手で近づいてくるマスメディアの人間たちも、あなたは蹴った。頭が良くて音楽もできる天才少女、として話題に利用されてしまうのは、わたしにはなんだか切ないように思われたの。その頃から、あなたはあまり笑わなくなった。そして、いまのあなたがいる。

 お父さんから、セイさんという人の話を聞きました。千影によくしてくれているそうで、わたしはなんだか安心しています。あなたは、お母さんにもお父さんにも、あんまり話をしてくれないから。ただ、恋をしてしまうんじゃないかって心配しています。千影がじゃなくて、もちろんセイさんがね。でも、セイさんには立派な彼女がいるそうなので、大丈夫だと思います。でも、お父さんにはいちおう監視をお願いしておきます。

 実は、先日セイさんが病院に来ました。そのとき、しあわせとはなにか、という話になったので、セイさんの定義に合わせて、いまの自分にあてはめてみました。

 わたしは、お父さんを尊重した上で、自分に自信を持つことができます。妬み嫉む対象はいないし、腹立たしく思う人はいません。会えなくても、話せなくても、近くにいられなくても、お父さんと千影との時間を心で共有することができます。後悔はありません。お父さんと千影が、自分を信頼してくれています。いるよね?

 わたしはとてもしあわせな人ですね。死にゆく人間とは思えません。そう思うと欲が出てきて、もっと生きたいなと思ってしまいますが、それは無理な願いですね。

 千影。いまあなたが本当にしたいことはなに? いましていることは、あなたが本当にしたいことなの? 

 わたしは、職業に対して偏見はありません。もし、今後大学に進み、それをアルバイトとするなら、わたしには反対する要素がない。ただその場合は、お父さんには秘密にすることね。また変な詩を書いてしまいそうだから。

 もしあなたが、なにかに悩んでいて、苦しみをごまかすため、痛みを断ち切るため、さみしさを埋めるため、迷いから逃れるため、ひいては自暴自棄になるため、そういった感情から、女を売っているのなら、そんなに悲しいことはありません。誰かに救いを求めてほしい。心を開いてほしい。もし勘違いだったら、ごめんなさい。

 千影ならもうわかっていると思いますが、千影のいまを教えてくれたのは、亜由美ちゃんです。それを明らかにしたら亜由美ちゃんが困るでしょうと言ったら「すべては汚れもせず清らかにもならないし、増えたり減ったりもしません。この肉体も、この精神も、すべて実体がないと気づいてるから大丈夫です」と言っていたわ。あの子はちょっと変わっているけれど、これからも千影の人生に深く関わってきそうな気がするの。千影もきっとそんな気がしているでしょう。

 最近、ベースをはじめたそうで、わたしはなんだか嬉しいです。いつからか、千影はまったく音楽に興味をなくしたようになってしまっていたから。かといって、無理してやるものでもないから。自然にやりたいと思ったなら、それはすばらしいことです。欽さんのお店には楽器の好きな人が集まるそうなので、面白い展開があればいいなと思っています。いつかみんなで、一緒に演奏できたらいいですね。

 欽さんは千影のような高校生でも広く受け入れてくれます。欽さんもあんな風にしているけど、本当は頭のいい人ですから、話し込めば千影にも手ごたえがあると思います。それにお父さんのお友達ですから、いざというときは、ちからになってくれるはずです。

 やくざからマジメっ子、オタクからキャバ嬢まで来る本当に不思議なお店だと思います。ヘタなところで人生経験を積むより、欽さんのところに行ったほうがよっぽど勉強になると思います。エロじじいも多いので、その点は気をつけてください。千影なら、うまいこと立ち回って、おごってもらうくらいなんでもない気がしますけどね。

 わたし、欽ちゃんのオムそばが大好きです。それをお父さんに言ったら、千影も大好きなんだってね。大好きな人と自分の好みがかぶるのは、とても嬉しいことです。いつかまた恋をすれば、そんなことがあるでしょう。好きな音楽だったり、好きな本だったり。好きな楽器だったりね。そういうちょっとしたことが妙に嬉しいのよね。

 千影が初恋? のようなものをしたときはなんとなく覚えています。わたしはお父さん以外、まともな恋愛をしてこなかったから、なにもアドバイスをすることができませんでしたが、本当は勉強ばかりじゃなくて、普通の青春を過ごすことも大事なのかなと悩んだことがあります。

 この手紙を読むころには、千影の受験が終わっているはずですね。受かっているかどうかは、ぜんぜん心配していません。あなたなら大丈夫。選んだ進路にはびっくりしたけどね。医師なんて。お母さんとお父さんの遺伝子はどこに行ってしまったのかと思ってしまいます。千影がわたしの担当医なら、ひょっとして治っちゃうんじゃないかと考えてしまいます。そんなことを言ったら、担当の先生に怒られちゃいますね。本当に先生は頑張ってくれています。

 いま出窓のところには、白いツバキの花を活けてあります。お見舞いに来た人のなかには、こんな不吉な花を見舞いに持ってくるなんてと言う人がいます。理由は知っているかもしれませんね。でもこれは、わたしがお父さんに頼んで活けてもらっているものです。千影にあまり会えないので、その代わりにじっと見ていることがあります。花言葉は、完全な美しさ。千影にぴったりの花だと思います。わたしとお父さんにとっては、千影はなにがあっても完全な美しさをもった存在です。

 わたしは、お父さんと出会うまえ、スナックでホステスとして働いて生活していました。成績不良で高校中退、中卒という千影と正反対のような底辺の学歴だったから、ほかに方法がなかった。

 仕事のあとは、飲み終わりの安いラーメンと瓶ビールを提供する店に落ち着くのが精一杯だった。そこで、お父さんと出会ったの。外には黒いスーツを粗末にまとった客引きがいて、吹かし終わって足元に投げ捨てた煙草を踏み潰す人もいれば、前かがみにポケットに手を突っ込んでいる人もいた。足をぶらぶらさせている人もいれば、軽く手足の運動をしている人もいた。

 下品さを競うように、枯れたスナックや浮ついたキャバクラが、カラオケの低音をひびかせて立ち並んでいた。スポットライトが上向きに店の看板を照らし、夜空の星たちに対抗していた。店のエントランスからは女たちの香水をないまぜにした香りが通りにあふれだし、飲みすぎた男たちの嘔吐を誘っていた。

 そんな荒んだ街のなかで、不思議とお父さんは輝いて見えた。ちょっと体格がいいから、頼りがいがありそうに見えたのかもね。

 千影を見ていると、子供の頃のことを思い出すの。いなかの山間部に建つ木造校舎の図書室に、真っ白な春の光が斜めにさしこみ、たくさんのほこりがきらきらと輝いていた。光は窓際の机と板張りの床をぽかぽかと暖め、部屋の温度にほどよく作用していた。

 小学三年生のわたしは、木製の四角い椅子に、背すじを丸めてちょこんと腰掛けていた。母が縫ってくれた白いブラウスと赤のスカートが、なによりも大好きだった。

 わたしは千影になにかしてあげられた? なにかが足りなかった? 千影は優秀だから、わたしの手助けなどなくても立派に育っていった。いつも自分で選択して、いつも間違いがない道を選んだ。それはいまも同じなのかな。

 わたしの人生が、そろそろ終わりに近づいてきたみたい。そろそろこの手紙を閉じなければなりませんね。近いうちに、あまりにも多くのすばらしい思い出が、全身の痛みに散らされてしまうのは忍びないことです。考えれば考えるほど書きたいことはあふれてきますが、いたずらに枚数を増やすのは控えようと思います。

 わたしはいま涙を流しています。千影のことを考えると、どうしても涙が出てしまいます。目を閉じると千影の姿が浮かんできて、とてもいとおしい気持ちになります。抱きしめて、小さい頃のように、いい子いい子したくなってしまいます。

 正直に言うね。

 そのわたしの腕のなかに抱きしめた華奢なからだが、ほかの誰かに抱かれるのだとしたら、それは千影の好きな人であってほしいと心から願っています。千影を心から大切にしてくれる人であってほしいと願っています。千影が素直になれる人であってほしいと願っています。

 なぜこれほど悲しいんだろう。なぜこれほど涙が出てくるんだろう。なぜこれほど苦しいんだろう。理屈なんかどうでもいいわね。涙が出るという事実だけで、もうじゅうぶんです。わたしはあなたが大好きです。わたしはあなたがしあわせになってくれることを心から願っています。あなたは、たったひとりの、なによりも大切な大切な娘です。

 千影、お元気で。

#創作大賞2024 #お仕事小説部門

第一話 https://note.com/iromachiotome/n/n634f7b3d9f01
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第四話 https://note.com/iromachiotome/n/naf327bded639
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