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あの時変われなかった私でも、今なら変われると思うんだよ。

「子供4人と世界一周!」

12月に日本を出発したTから、便りが届く。

ほとんどは、インスタグラムやフェイスブックの投稿で。まれに、メッセージで。

彼の人たらしてきな魅力や、以前カンボジアでツアーを主催していたというつながりで、行く先々でたくさんの人が助けてくれたり、昔の仲間のお世話になっているようで、彼にしかできない、本当に素晴らしい毎日を過ごしているようだ。

投稿のほとんどは彼目線の子供たちの笑顔や困った顔。たまーに自分も入った写真もあるけれど、それはなんだかぎこちなくて(すまん)決め顔のピース写真なんかほとんど(というか全然)なくて、いつも子供たちそれぞれの自然な姿が映っていてほほえましい。必然、服装やなんとなく映り込む背景の雑多な雰囲気やBGMのように聞こえる外国語から「ん??南国かな?」くらいはわかるけど、世にいう世界一周の絶景!グルメ!みたいな雰囲気は皆無なのが彼らしくて、とてもいいなあ、と思う。


なぜなら、彼の旅の目的は
「子供たちに一生の思い出を作る」
それだけだからだ。


色々なトラブルをこえて、少し落ち着いた深夜の日記に、こんなことが書いてあった。

***
きっと一人旅なら、もっともっと自由で楽だと思う。
子ども4人大人1人の旅は本当に面倒くさい。

1人1人やりたいこと、行きたいところ、食べたいもの、欲しいもの、体調が全部違う。争いも絶えない。

それでも本当に子どもたちと旅に来れてよかった。
4人全員と旅をする機会はこれが最初で最後だと思う。

(中略)

子どもたちより、自分自身が変わって来ていると思う。
夜中に一人になって、日記を書いて、子どもたち一人一人を愛おしく感じながら寝る毎日。

今は一生の思い出の真っただ中。

自分は今生きていて
子どもたちは今生きていて
世界中の人が今生きている

地球は素晴らしいところだ

(引用おわり)
****

子供4人。大人1人。

投稿からは毎日、大変そうで、でも楽しそうで、苦労はあっても、旧交を温めたり、人の優しさあたたかさに触れて、この旅を満喫している、という様子が伝わってくる。

でも見えないところでは、想像以上に大変すぎるくらいに大変そうで、毎日誰かの体調が悪くなったり、やれパスポートなくしただの(見つかったらしい)やれ携帯忘れただの(なんと国境まで厚意で持ってきてもらったらしい)、飛行機にチェックインできないだの、ビザがないだのなんだの、私だったら絶対に「もう帰る!」って投げ出しちゃいそうな状況の連続だ。気が休まる隙が全くないじゃないか!


元々、どんな危機もなんとかしちゃうような、生命力がけた外れに強いタイプの彼だけれど、年齢も性格も全く違う子どもたち一人ひとりの要望に応えてあげて、体調に気遣って、安全に気を配って、子どもたちが「世界って本当に優しさにあふれている」「人生は素晴らしい」「自分は世界に愛されている」ということだけを受け取れるように奔走して、


とてもじゃないけど、自由に楽しむなんて、そんな気分じゃないと思う。


24時間毎日一緒にいて、自分のやりたいことより子どもを優先する。
これって、本当に、本当に、子どもたちを愛していないとできないことだ。


***

ふと、思い出す。

24時間毎日一緒にいて、自分の命の全てを、子どもに捧げるなんて、絶対にムリだと思っていたけれど、3人の娘が生まれて1年ずつの授乳期間は、間違いなく子供たちの命や要望最優先の毎日を送っていたということを。

そして本当はそれは、私という自己中な人間を、根本から変えるために起きた神様からの贈り物だったんだと思う。

だけど、その時、本当の意味で私は変わることができなかった。


自分の時間を大切にしたい、自分の人生をどうするかが一番大事だった。もちろん、子どもたちは大切。でも、まずは自分なんだとうそぶいて、やりたいこと探しに忙しかった。「ママになっても」を合言葉のように、家事の分担は当然、時短効率化はうまくなったと思う。仕事もそう。


日々働いていると子供と過ごす時間はそんなに長くはない。そんな短い時間の中でさえ、ついつい「後でね~」とか、「自分でやりな~」とか言ってしまうし、どうにかして一人の時間を確保したくて部屋にこもったり、一人で散歩にでかけたりしてしまう私。


ただ時間の使い方に「子育て」が加わっただけなのに、自由が奪われた気がした。要領の良さや時間の使い方はうまくなったけれど、自己中な意識は何も変わらなかった。

自分が失われそうで怖かった。
自分がなくなっちゃいそうで。

今思えば

その時点では、失うほどの「自分」なんてまだなかったのに。
そもそも自由な生き方なんてできてなかったのに。

本当に「自分」で生きてれば、
何があっても、失われることも奪われることもないのが、
「自分」であり「自由」なのに。

****

変わりたい
変わりたい
と私たちは言うけれど。


何かができるようになりたい、自由になりたい、自信を持ちたい、行動できるようになりたい、そんな風に思うけど。


そんなもの、できるようになっても大したことなかった。
自分の人生にちょっと楽しさや生きやすさが増すだけだった。


本当に人生を変えるのは

むかついても
大変でも
機嫌悪くても
貧乏でも
自分がどんな状態であっても

愛しているということを
カラダで表現することなんだと思う。


「自由に生きる」とか「自分らしく生きる」「思い通りに生きる」が、まるでゴールのようにあがめられているけれど、思いどおりに生きるなんて、ある意味簡単だ。

むしろ、本当に大切な人のやりたいことを叶えてあげる
それこそが自分が人生をかけてやりたいことなんだと腹を括って

愛しているということを
カラダで、まなざしで、暖かさで、声で、そして、相手の気持ちに応えることで表現し続けるということ。

それができるのは、
誰かの顔色を伺ったり、人目を気にしたり、評価されようとか期待に応えるという段階はもちろん「自分がやりたいこと」「自分の思い通り」という段階をはるかに超えてこそ、はじめてできる偉業なんだと思うんだ。

***

「今は一生の思い出の真っただ中」

そうだ。

わたしも今まさに
一生の思い出の真っただ中。

人生という旅の「子育て」という国を旅する真っただ中だ。

「子育て」という国の旅は、本当の意味で自分を変えるために、いつもいつもいい感じの試練(笑)を与えてくれる。

「子供はほっといても育つ」と無視することもできれば、「自分の思い通りに!」と無理やり抑えつける方法もあるけれど、「愛する」と決めて真正面から受け止めて感じる苦労はそのうち喜びとなって、一生忘れられない、計り知れないものになるはずだ。

彼からの便りは、それを濃厚に思い出させてくれた。

きっと、今ならできるはず。

私は、10年以上をかけてやっと、「自分を創る」という段階を終えたんだと思う。

子どもたちと一緒に創るこの時間を、大切に大切に過ごしていきたいと、思うよ。

ということで、今日は雪で休校になった三女と雪遊び(笑


ありがとね。気を付けて。



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