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あれから30年《阪神淡路大震災の記憶》


1995年1月17日火曜日、5時46分52秒。
阪神淡路大震災から30年という月日が流れた。
目が覚めた瞬間のことから事細かく、
いまだにはっきりと覚えている。
この先も決して、忘れることはない。


当時私は中学生、
もちろんその時間私は深い眠りの中にいた。

5時46分その瞬間、家が飛び上がったような
ドンと突き上げるような振動があり、
その瞬間ベッドの頭のあたりに置いてあった
ポカリスエットが、頭の上に降ってきて飛び起きた。
幸い残り僅かでびしょ濡れのベタベタにはならず
少し髪が濡れてベタつく程度で済んだ。

突き上げるような振動のあと、
これまで体験したことのないような、
まるで、家というよりは地面、いや地球そのものが、
のたうち回っているかのようにぐわんぐわんと、
大きく激しく動いていて、その激しい揺れで、
本棚の本や棚の中のものは全て落ちていった。
当時は大きな地震なんてそんなに頻発しておらず
地震に対する知識もあまりなかった。
大地震が起こるとどうなるのかなど、
私はまだその時、何もわかっていなかった。

けれどあまりにも激しい揺れに、このまま家が
崩れてしまうのではないかと、恐怖で足がすくんだ。
何秒間だったのかは分からないけれど、
それは果てしなく長い時間に思えた。
あとで知った情報では、15秒間だったそうだ。
私の人生において最も長い15秒間だろう。

父が私の部屋の前でドアノブをガチャガチャと動かし
私の部屋のドアをドンドンと叩きながら、
『大丈夫か!怪我してないか!ドアが開かない!』
そう叫んでいた。
姉の部屋のドアは開いたようだけれど、私の部屋の
ドアが開かない…?とよく見ると、ピアノが
揺れで動いてドアを塞いでしまっていた。
『大丈夫!怪我はしてない!ピアノが塞いでるから
ピアノをどかしたら部屋から出る!』
父にそう返事をし、ピアノを数センチ押し退けて
ドアを開け、部屋から出てリビングへ行った。
キッチンは食器棚から飛び出した食器が割れていたし
家中に物が散乱していた。

今のようにスマホなどは普及していない時代、
何がどうなっているのか全く分からず、
情報が入ってくるのを待った。
1月の、寒い寒い明け方のこと。
私の家は、避難しなければいけないような
状態にはならず、それは本当に幸いなことだった。

ふと外を見ると家の前の道路がひび割れていて驚く。
まるでこの世の終わりを描いた映画のようだと、ぼんやりと思った。


テレビで神戸の映像が流れるころには、
もっと悲惨なものを目の当たりにすることになった。
瓦礫と化した神戸の町、燃え盛る家々。
この下にお母さんが、子供が、家族が、いるんです!
助けてください!と泣き叫ぶ人を見ては、
とめどなく涙が溢れ落ちた。
こんなことあっていいわけがないと、
神も仏もあったものかと、中学生ながらに
誰にもぶつけようのない怒りと悲しみに震えていた。


死者6734人、重症者は1万人を超えていた。
全壊した住宅は10万を超え、
半壊した住宅は14万を超え、
293件の火災が乾いた空気の中燃え広がり、
鎮火まで2日もかかり、その景色はもはや
地獄絵図としか言いようのないものだった。
年配の方々はみな、戦時中のようだ、
空襲のようだ、と言っていた。

観測史上初の震度7だったと言われているけれど
その後の震度7を見ている限り、
そんなわけないのではと、正直今でも思っている。
阪神高速道路は635メートルに渡り横倒しになった。
その後の同規模の地震で、 高速道路がそこまで
崩れ落ちるようなことはなかったからだ。
当時は今ほど精密に観測ができなかったのでは
ないだろうかと、今でもみんなそう口にする。
震度8や9や、いや10あったのではないか…と。
私もそう思っている。


当時神戸に母方の親戚がいて、
私と母で物資を持っていくことになった。
リュックとキャリーに入れられるだけ入れて、
電車が通っているところまでは電車で、
残りはひび割れた道路を何時間も歩いて行った。
ひび割れた道路は、そんな人たちで溢れていた。
先ほども書いた通り、スマホもない時代、
安否を確かめることすらできず、連絡が取れない以上
直接探しに行くしかなかったのだ。
変わり果ててしまった神戸の町を歩きながら、
信じられない、どうしてこんなことがと
中学生ながらに心が粉々になる思いだった。
私は今、何を目にしているのだろうと、
これが本当にあの神戸の町なのか、と。


これらの記憶は、毎年毎年欠かさずに繰り返し
思い出してきたことだから、もう自分自身に
刻み込まれた記憶となっていて、この先永遠に忘れることはないだろう。


日本列島は地震プレートがぶつかる場所にあり
世界で起きるマグニチュード6以上の地震の
約20%が日本で起きているのだとか。
日本に住んでいる限りはこれからも、
地震と生きていかねばならない。

大きな災害が起こるたびに、
避難所での沢山の問題が議論されたりするけれど、
災害時避難所で身を寄せ合い生きていかねば
ならない時に、他者を思いやれずどうするのか。
人と人が助け合わずしてどうして生きていけるのか。
私たちそれぞれ1人1人が、
人間として大切なことを魂に刻まねばならない。

災害時の問題や課題はこれからも山積みだろう、
避難所での様々な問題、ボランティアの難しさ、
助ける方も、助けられる方も、難しいことは多い。
けれど人間、助け合わねばどうしようもないのだ。

1月17日も、3月11日も、1月1日も、それ以外も、
自分たちの住む土地で大災害が起きた忘れがたい日、
人と人は助け合わねばならないことを、
人は互いを思いやり支え合わねばならないことを、
そしてそんな時、そんな場面で、
人の道に背くようなことを許してはいけないことも、
改めて深く深く魂に刻む日に私はしていきたいし、
その時その時、自分に何ができるのかに、
向き合って生きていきたい。



神戸新聞NEXTより
倒壊した阪神高速道路。
同じく神戸新聞NEXTより


見出し画像の写真は、2022年9月に
長居公園(チームラボ ボタニカルガーデン)にて
撮った写真です。


それではこの辺で。

今日も1日おつかれさまでした。
最後まで読んでくださってありがとう。

また気が向いたら、来てくださいね。


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