棄却可能性
前回は「イメージと現実の現われは弁別しうる」という話であった。それは何によって見分けられるのかということだが、まず候補の一つ目として「棄却可能性」を検討してみたい。
ここでの「棄却可能性」とは、「現われを棄却することができるかどうか」という意味である。
その意味で、イメージの方が棄却可能性が高く、これによって私たちはイメージと現実を見分けているのではないかということだ。
これはつまり、イメージの現われが仮に現実のそれと違ったときに、イメージの現われを棄却できるということである。
たとえば目を閉じていてくしゃみの音を聞いた時に思い浮かべたの人が女性で、目を開けた時に見えたのが男性の見た目をしていたとしても、「あの女性はどこに行ったの?」ということには(あまり)ならない。つまりイメージの現われは棄却することができ、場合によっては別のものに書き換えることができる。これはイメージの現われが柔軟で流動的なことと関係していると考えられる。
逆に現実の現われは簡単に棄却することができない。
これについては以下のような反論が考えられる。
目を開けた時に見えた人が男性の見た目をしていたとして、しかし(どうにかして確認すると)その人は生物学的には相対的に女性である、という場合は、現実が棄却されたのではないか?というものだ。しかしこれも、その見た目から推測された「この人は男性である」というイメージがまた棄却されただけの話であり、その人の男性に見える現われそのものは棄却されていない。とはいえ少し見る角度を変えた瞬間にその見た目の現われも一変する可能性はあるわけで、棄却可能性がないわけではない。逆に言うと、棄却可能性が低いと感じられるものを、相対的に「現実」だと判断しているともいえる。
あくまで棄却「可能性」と言ったのは、それが「できるかどうか」のゼロイチではなく、連続的な度合いだからだ。たとえば長編小説やマンガを読んでいてある登場人物に深く感情移入したとき、それを読み終わったり連載が終了した後も、彼らのイメージは強く残り、誕生日になるとその生誕を祝ったり、また劇中での死を悼んだりと、あたかも彼らが「実在」するかのように振る舞う。心霊スポットなども同様である。幽霊の現われを見たわけではなくとも、様々な断片から幽霊のイメージが現われ、それは中々拭い去ることができない。これらのとき棄却可能性は低いと言え、現実との境目がきわめて曖昧な状態となる。
先程、
と言ったように、「イメージの現われ」と「現実の現われ」があるのではなく、イメージの現われのうち棄却可能性が低いものを相対的に「現実」として採用するということなのかもしれない。
しかし、これでは「何によって現実とイメージを見分けているのか」という問いから「何によって棄却可能性を判断しているのか」という問いに言い換えられたに過ぎず、分かったことはイメージのうちで現実度の濃淡(=棄却可能性の高低)がある、ということだけだった。
ということで、次回こそは棄却可能性を生む要因について考えていきたい。