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【令和6年能登半島地震】その時、目の前に青い閃光が走った

令和6年元日に起きた能登半島地震
私は、震度6強を観測した七尾市の実家で被災しました。

前職では防災・減災の仕事に携わっており、一応防災士の資格も取得している私。
また、普段から登山やキャンプなどのアウトドアを趣味としていることもあり、それなりの備えもしていました。

自宅の防災グッズの一部


しかし、今回被災したのは能登にある実家
遠くの自宅にある備蓄なんぞすぐには役に立たない。

普段とは違う状況下での被災について、
ある程度想定はしていたものの、全く準備はできていませんでした。

今なお救助活動が続いており、インフラ復旧も長期化を余儀なくされている能登半島地震。

幸いにも私は大きな被害を受けずにすみましたが、
地震当日に経験したことや感じたことを記しておきたいと思います。

1.これはただ事ではない

北陸にしては珍しく穏やかな気候だった元日の夕方。
能登にある実家でこたつに入ってのんびりとお正月を満喫していたら、スマホの緊急速報が空気を一変させました。

一度大きな揺れが来た後、すぐに収まったかと思いきや数分後にさらに大きな揺れが。
これはシャレにならんと思い、母・兄と大きなダイニングテーブルの下へ避難。

今まで経験したことのないほど大きな横揺れが続く中、母を支えながらふと目を上げると、
見慣れた窓の外の風景も信じられないくらい大きく揺れている。
そしてふと、電柱のそばで青い閃光が走るのが見えました。

「あー、電線が切れた。こりゃ停電するな。」

妙に冷静にそう思ったのを覚えています。
あの大きな揺れを思い出す時、まず思い出すのはあの青い光。
ただ事ではないと感じさせられた瞬間でした。

そうして揺れが収まると、部屋中に物が散乱している様子が見て取れました。
テーブルの上にあった鍋や食器、棚の中の文房具や本。
全てがそれぞれの役割を失って、無惨に床に散らばっている…。

そして物を片す間もなく、今度は津波警報
我が家は海から1kmも離れていないので、ひとまず家の屋上に避難することに。

2.正常性バイアスの恐ろしさ(大津波警報)

屋上に避難している間、スマホが鳴り続ける。
仕事で家にいなかった父とはすぐに連絡が取れ、無事が確認できました。
津波の心配もない場所にいることが分かってひとまず安心。

しかし、遠方にいる弟から「七尾湾で5mの大津波予測が出ている」との情報が。

本当に5mならここにいれば大丈夫。
でも、もし東日本大震災の時のように想定以上に高い津波が来たら…?
もっと高い場所に逃げた方が安心だけど、津波到達予測時間は迫っていている。
本当に大丈夫だろうか?」と恐怖に襲われました。
LINEで次々と全国各地の友人から安否確認のメッセージが来て、大惨事の当事者であることを実感させられます。

ふと屋上から街を見下ろすと、川の付近をのんびり歩いている人の姿が目に入りました。
もし大きな津波が来たら、川のそばは即アウト。
市役所の屋外スピーカーでもずっと避難を呼びかけているにも関わらず、
全く危機感を覚えていない様子の人々。

うちの親もそうだけど、この辺りの人は七尾湾に津波が来ないと信じきっている。
これまでも「歴史上、津波は来たことがない」「内海だから大丈夫」などの言葉をたくさん耳にしてきました。
これも正常性バイアスの一種なのだろうと思います。

※正常性バイアスとは
予期しない事態にあったとき、「そんなことはありえない」といった先入観や偏見を働かせて、「事態は正常の範囲」だと自動的に認識する心のメカニズムのこと。

kaonai

防災士の研修で習ったことを思い出し、「津波が来るぞー!逃げろー!」と叫んでみるものの、距離が遠すぎていっこうに声は届かない。

結果的には、幸いにも七尾湾の津波は大きな被害を出さずに済みました。

でもそれはあくまで今回たまたま被害がなかっただけの話。

ふと、大好きなCOTEN RADIOで知ったガンディーの言葉を思い出しました。

歴史を学んで分かるのは、今まで歴史で起こったことがないことが、未来永劫起こらないとは限らないことです。

マハトマ・ガンディー/ COTEN  RADIO#56

過去から教訓を学ぶことは大事だけど、過去に甘んじてはいけない。
私たちは常に最悪の事態を考えて動く必要があると感じました。
今回珠洲や能登町を襲った津波の被害を、決して他人事とは思ってはいけない

3.暗闇が、やってくる

津波の危機が一旦過ぎ去った頃、夕闇がそこまで迫ってきていました。

我が家は幸いにも建物の損傷がそこまでひどくはなかったため、家の中で生活を続けることはできました。
ただ、インフラは全滅していたので暗くなる前に明かりなど準備する必要があり、ここからは時間との勝負。

家の中は地震の影響でドアが開かなくなっている箇所もあり、必要なものを集めるのにも一苦労。
なんとか懐中電灯など見つけても、電池が切れていたり壊れていて使えないものも。

正直、実家の準備の無さには驚かされました。
まだ私が子供だった頃、母は防災リュックなどを準備していた記憶があったので、今もそれなりに準備をしているものと思い込んでいました。

まして、能登にはこれまでも地震が頻発していたのに…。
「あれは奥能登の話。」と他人事のように考えてしまうのも正常性バイアスが働くためなのでしょうか。
ちゃんと親と一緒に防災グッズを準備しておくべきだったと反省。

なんとか明かりを確保し、余震が続く中夜ご飯を食べていると父が帰宅。

父が働くお店の中も物が散乱しており、従業員の人たちは近くの中学校に避難しているとのこと。
食べ物や毛布を用意し、父と兄とで一緒に届けに行きました。

父と兄が戻ってきた後、この日は家族4人固まって就寝。
夜中も大きな余震が続き、熟睡できませんでした。
だけど、家の中で暖かい布団の中で寝られるだけで本当にありがたかった。

翌朝、近所を歩くと見慣れた街が姿を変えており、予想以上の被害の大きさに言葉を失いました。
ずっと平和で穏やかだった街が、こんなことになるなんて。
住んでいた人のことを考えると、倒壊した建物にはとてもカメラは向けられなかった。

まずは家族全員怪我もなく無事だったことに感謝。
そして、お正月の時期でたまたま兄と私が帰省しているタイミングで本当に良かった。
(兄は数年ぶりの帰省だった。男手は本当に重要。)

普段実家に1人でいる母は、携帯も車の免許も持っていないので、これが離れている状況で起こった地震だったら…と思うとゾッとする。

そして、今後の教訓として活かさないといけないことも多々。
ひとまず、実家と車の中の防災グッズ常備は必須!

実際に被災してみて、本当に必要だった防災用品、あまり必要でなかった防災用品なども別途まとめたいと思います。 

まずは、大変な避難生活を送られている方々が一刻も早く日常に戻られることを祈りつつ、毎日できることをやって引き続き元気に過ごしたいと思います。

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