
消えるものと残るもの
絵を描くようになった。
勉強もしたことないが
適当に気分の絵の具を置いては
ナイフで伸ばしてみたりなりなんなりと
やちゃもちゃしている。
今まで幼稚園から義務教育の
カリキュラム内で美術的なものを
なにも作り上げていない気がする。
授業の時間内に
絵は描ききれたことがなかったし
造形物を作る時も
作りきれたことはなかった。
終わりがあるから
終わってしまうんだけれども
何時間使っても
それが完成されたと思うことがなかった。
ま、そんなこんなで。絵とかなんだとかそんな感じのは長いこと相容れなかったんだが、小さな頃からキレイなものが好きで。石やら木やらなんだかんだ、自分のキレイをよく集めていた。
ふとSNSで流れてきた
「これこうやって描いてます!」
みたいなのをみて描いてみたり
美術館に行くようになったり
そうなったのは最近のようにも思うし
ずっと前からのようにも思う。
それは自然の中に絵を見ていたのかもしれない。
し
音楽に同じものを見ていたのかもしれない。
美しい旋律も、激しいのも。
ふわぁっとしているものより
はっとするような感じの。
ロックもメタルもインストも好きだ。
祖母も母もジャズが好きだが
私は物心ついてから
元々クラシックを好んで聴いていた。
と、思っていたけれど
幼い頃に
執着するほど見返したVHS。
ジャズが流れるバーで
カクテルを作るマスターのシェイカーから
魔法のような美しい色が流れ出でる記憶。
"cocktail うんちゃら"とかいうタイトルだったような、なんだったかな。黒字にピーコックグリーンっぽい文字が印字されていたタイトルと記憶しているんだけど。
ずっと探しているんだよな、これ。
今そんなこともあったと思い出したけれど
なんの因果か
ジャズを弾く人に出会ったこともあって
最近はよく聴いている。
クラシックは
そこにどう在るべきを描かれているし
ジャズは
そこでどう在るんだが描かれている。
そんな気がする。
詳しくないからそう思う。
18の頃だっただろうか。
ありがたいことに、ギターをくれた人がいた。
当時は
簡単なパワーコードと
バッハの小フーガト短調の
最初しか弾けなかった(X好きだったんです)
けれど、大学に入って
「ギター持ってるのにコード弾けないの?」
的なやりとりがあり、なんか悔しくて徹夜で簡単なコードを覚えた。
それから
はじめてちゃんと弾けるようになったのは
スピッツのチェリーだったか。
あれからしばらくして
スピッツのライブに行く機会に恵まれた。
めちゃくちゃファンというわけではないが
思い入れのあるバンド。
(今はすごくファン)
歌詞がね、
どこまでも自分ごとにできるような。
他人ごとにもできるような。
そんな不思議な余白と
確実に突いてくる言葉が
切なくて痛くて
愛しくて優しく思える。
アルバムを聴き込んで
すわ、ギターで弾いてみよう
と思って弾いてみたら
なんとするする弾けることか。
そうか。
このギター、もうしばらく一緒にいるんだな。
ネックも軽く曲がって
ピックアップなんてぶっ壊れまくってるし
この間はペグの輪っかがイカれちゃったり
いろいろあるけれど。
高校生でいじけてた時も
大学生の辛かった時も
社会人になってから歯を食いしばった時も
夢かなと思うくらいな好きな人との時間も
不甲斐なさに泣いて飲み散らかした時も
ずーっと一緒にいてくれたんだな。
ありがとうな。
と思う。
弾いていなかった時間も込みで
彼がいてくれたことで
なんだかすごく救われていたのかもしれない。
そして
心が痛んでどうしようもないとき
ふとそのまんまに奏でると
力強く慰めてくれる。
絵にも近いものがある。
ナイフペインティングや
絵の具を置いて筆を滑らせたり
ただそんなことをしているだけで
浮かび上がる絵がある。
私は自分のその断片を
どうも嫌いにはなれない。
マスキングテープで四隅をとって
描いた後のテープの色こそ
私の描きたい今なんではないかと
咀嚼しながら。
ギターをつまびいては
弾けないコードにつまづく瞬間に
新しい私を見つけながら。
しばらく前にはじめたピアノにも
そんな予感を感じる。
ようやく覚えた3曲を弾くたび
自分の気持ちの込め方を知る。
どうやって気持ちを伝えていくかを。
音を眺めて
絵を聴くような
そんな輪郭をなぞって生きていたい。
なにが言いたいかっていうと
ありのままで生きるということは
自分を大切にする術をたくさん知ること。
ジャズを聴いて表現を知った。
心を打つなにかには素直に従っていたい。
消えていくのは
自分が「自分」だと思っていること。
残るものこそ
本当の自分なのかと考えている。