好きな言葉 Ⅰ
1
『サモアの思春期』などで有名なアメリカの文化人類学者、マーガレット・ミードの言葉。未来とは今である、というシンプルなフレーズだが、「いま」として知覚されるこの一瞬一瞬の堆積がわたしたちの時間を形作るという自明の理を思い出させてくれる。
この言葉と出会ったのは、小学校6年生のとき。下級生から贈られた「卒業を祝う会」の招待状に書かれていた。一通ごとに違う名言が書かれており、わたしにはこのミードの言葉の日本語訳を記したものが渡された。当時はミードのことなんて知らなかったし、知る意欲も持たなかった。斜に構えていた当時のわたしは、よく知られた名言はすべて使い尽くした下級生が一生懸命調べた(卒業を迎える先輩の背中を押しそうな雰囲気のある)マイナーな言葉なのだろうと思っていたのかもしれない。
大学に入学して社会学と教育科学を専攻し、その課程で文化人類学を学んだとき、ミードに出会った。最近参加した学会では、エージェンシー研究の文脈で、アメリカン・インディアンにおけるアイデンティティ概念を論じる際、ミードが参照されていた。
大学入学後にミードの思想を学んではじめて、この言葉が鮮烈なものとして感じられた。関心というのはやっぱり既有知識に左右されるものなのだろう。そういう経緯で、なんだか縁の深さを感じている言葉である。
なお、初期キリスト教西方教会最大の教父であるアウグスティヌスも、過去や未来は存在せず、現在だけがあるという時間論を自伝『告白』のなかで展開していたらしい。過去や未来は人間に知覚されるものであるが、それは存在するから知覚されるのではなく、知覚対象としての性格を持つからであるということだ。現在の自分の意識に蘇る期待が過去であり、現在の自分の意識が期待ないし予期するのが未来であるのだという。
2
米国の第32代大統領夫人であり、国連代表や婦人運動家としても有名であった、エレノア・ルーズベルトの言葉。毎日、あなたが恐れていることを一つ行いなさいという、優しさと厳しさに満ちた言葉。
わたしがこの言葉に奮い立たせられた日は数え切れない。迷ったら怖いと感じる方を選ぶことで得てきたものも多かった。この言葉がscaresという動詞に託す恐怖感は、未知なるものへの恐れに近いと思っている。未踏の道に踏み出す人に贈りたい言葉だ。ただし、元気のないときには別の言葉からエネルギーをもらってほしい。
3
わたしの最大のレファレント・パーソンである、ベルギー生まれの英国人女優で人道主義者としても著名なオードリー・ヘプバーンの言葉。わたしは大学から教育関連のボランティアを初めて4年目になるが、ボランティアという行為を行うにあたってはこの言葉を大事にし続けてきた。
与えること、生み出すこと、生産すること、地に根差した眼を持つこと。それらの営みを日々の片隅にでも取り入れなければ、生活の辻褄が合わなくなるような気がしている。いまのわたしたちは、一方向の生活を送っているのだろう。
就職活動をしているとき、就職後のわたしが明日死を迎える状態になったとして、ベッドの上で何を思うだろうかと考えた。東京の喧噪のなかで心身を病みながら「稼働」することが、自分にどれほどの幸福をもたらすだろうかと考えた。一人がひとりとして生きられるように――生きるようにデザインされた東京で、一人分の人生を全うするだけでいいのだろうか。
その点、ボランティアはわたしに一人分以上の人生を生きさせてくれる気がする。ボランティアは分かち合いの文化であり、当事者目線を合言葉に分与された身体は他者との共生を具現する。ボランティアをしたとて資本主義構造から逃れ切ることはできないが、少なくともその存在が生まれ、存続していること自体、資本主義システムへの抵抗を示している。
与えることは生きること。この言葉が託された構図が、givingとlivingの集合論的包含関係をどのように捉えているかは推し量るしかない。しかし、わたしの感覚では、生きることは与えることにほど近い。
4
こちらもオードリーが大事にしていたとされる言葉だが、どこかのサイトで、オードリーのオリジナルではないという説を読んだこともある。
年を重ねると、自分に二つの手があることに気づく。ひとつは自分を助けるための手。そして、もうひとつは他者を助けるための手。
ボランティアをしていたNPO団体でわたしが直面した課題の一つが、「人を頼れない」ことだった。この課題はわりと今も課題として残されている。人を頼れないのは自分を信じられないからかもしれないが、そんなときはこの言葉を思い出し、相手の持つ他者を助けるための手を信じることにしている。同時に、わたしにも2本の手があることを思い出す。
「手を取り合う」という言葉を考えた人は天才だと思う。わたしも困ったときには誰かの手を取りたい。そして、困っている人を見かけたときにはその手を握れる自分でありたい。
5
炉の炎が青色になるとその温度も最高に達することから転じて、学問や技芸が最高の域に達することを指す言葉である。
わたしはこの言葉を少し自分なりに解釈して、見た目は落ち着いて穏やかであっても、中身は鋭く燃えているさまを目指したいときに思い出している。
外柔内剛と言ってもいいかもしれないが、孤独な情熱を愛したい。あるいは、熱狂と静寂の双方に揺れ動く可能性を楽しんでいたい。イメージは、ガーシュインのラプソディー・イン・ブルー。
シンクタンクで調査研究・政策提言に励んだり、欧州の大学院で公共政策の修士課程を修めたり、国際機関に勤めたりしながら、目的のない旅をしたり、寺社の保護活動をやったり、生物図鑑を眺めたり、静かなジャーナリングをしたりすることによって満たされる生活がしたい。
わたしとして生きる人生の目的地は鋭く、険しく定めても、生き様そのものは清流のように柔らかで透徹した響きを持ってありたいと思う。
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