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『Multilingual Subject』 (C.Kramsh)⑤

毎回の記事を書く時なのですが、まず、今回書こうと思う箇所に目を通してから、前回までに書いた箇所を再読してから、新たに要約する箇所の解読に取り組みます。

昨日、パート④の最後の部分の「主体」について書いておきながら、
じつは今日、この「主体」について私がこれまで持っていた「主体」として
の学習者のイメージが少しずつ変わってきているような気がしました。

というのは今、『ディスクールの政治学 ーフーコー、ブルデュー、イリイチを読むー』(山本哲士 著、光明社、1987)と言う書籍を読んでいて、
Kramshの指す「主体」がより制度的・社会的な規範や慣習からはみ出そうとしているものなのかな、、、と思えてきたからです。

3.4 Symbolic power and subjectivity in language (P36-37)

対象文化で社会化されていない初級学習者や非ネイティブ・スピーカーは、社会化されたネイティブ・スピーカーのそれとはまったく異なる連想を行い、異なる真実を構築する。その言語を始めたばかりの学習者は、音、形、見慣れない組み合わせ、奇妙な文法構造など、言語体系をその幻想的な次元のすべてにおいて理解する。そして、そのすべてに意味を与える: フランス語の鼻音は「セクシー」、イタリア語の母音は「ロマンチック」、ドイツ語の音は「きつい」、アラビア文字は「神秘的」と解釈される。学習者の想像力が大いに働き、時代を超越した属性を備えたネイティブ・スピーカーたちの想像上のコミュニティが構築され、それが言語そのものに投影されるのである

『Multilingual Subject』 (C.Kramsh) pp36

実際、言語を文法的、社会的、文化的情報といった情報的価値に還元するような教育法は、言語学習経験の重要な側面を見逃している。多くの継承語学習者が、祖先の言語を学ぶことを放棄している。海外での生活体験から帰国した学習者の多くは、教室で目にする言語に共感できず、学習から完全に脱落してしまう。教師にとっての課題は、神話をいかに賢く使うか、学習者を従来の話し方に引き込むだけでなく、その言語が学習者にとって主体的な関連性を持つことを目覚めさせるような方法で使うかである

『Multilingual Subject』 (C.Kramsh) pp37

★教師は、学習者ひとりひとりが学習言語に対して持っている個人的な連想、幻想や主観的な思いを理解して、学習の促進につなげることがカギになるということでしょうか。

4 Perception and desire (P38-39)

言語学習者にとって、内的に生成されたアイデンティティの構築は、他者に対する精神的共感や一般的な同情感情とは異なる。本書で述べるように、主体化は常に、言語的であれ、音楽的であれ、視覚的であれ、五感が知覚するものに意味を与える象徴体系を通して媒介される。外国語の音、リズム、意味に誘惑され、ネイティブ・スピーカーが話す言語の「クールさ」に魅了され、思春期の学習者の多くは、新しいエキゾチックな世界に入り込もうとする。このように、欲望は情動に近いが、単なる感情的な反応や魂の形而上学的な照明よりも、より具体的な意味においてである。それは知覚にしっかりと根ざしているため、欲望は象徴的な形に対する美的注意や同一化から切り離すことができない。それは、学習者が新しい言語音や形を理解し使用すること、そしてそれらに主観的な意味を付与することによって引き起こされる。言語における欲望とは、言語使用者が経験する知覚の撹乱と再調整であり、そのアイデンティティは外国の象徴体系そのものを構成し、それによって構成されるものである、と言うことができる

『Multilingual Subject』 (C.Kramsh) pp37

上記のなかでも「言語における欲望とは、言語使用者が経験する知覚の撹乱と再調整であり」という部分がまだ消化不良なのですが、あとの
第2章「The embodied self」の3節3項「3.3 Emotions and feelings」(P133)
第3章「The subject-in-process」の2節2項「2.2 Desire」(P167)
を読めばもう少し理解が深まるかと思います。

5 Subjectivity, intersubjectivity, subject position(p42)

5.1 Subjectivity

日常的に使われる「主観的subjective」という言葉は、「客観的」の対極にある「偏見」や「信頼性のなさ」と否定的に同一視されることが多いが、言語経験の感情的側面を特徴づけるためにも使われ、自己の認知的・感情的発達と肯定的に結びつけられている。社会科学では、「主体subject」という言葉は、外国語文法の制約を受けるとか、言語学習者が心理学的社会言語学的実験の主体であるといったように、誰かに服従させられたり、誰かに支配されたりすることを連想させる。ここで言う「主体」とは、言語の主観的な側面や、言語を習得する過程で受ける変容についての学習者の経験を大まかに指す。本書の主要なテーマのひとつは、象徴体系としての言語が、主体としての私たちを創造し、形づくるということである。

『Multilingual Subject』 (C.Kramsh)pp43

主体(subject)は象徴的な存在であり、言語などの象徴体系によって構成され、維持される。それ(主体)は与えられたものではなく、第6章で論じるように、それ(主体)を生み出し、その(主体の)自由と自律性を破壊しようとする自然的・社会的な力を背景に、意識的に構築されなければならない。

『Multilingual Subject』 (C.Kramsh)pp43

言語は、身体、心、精神の全面的な関与を必要とし、「力」の象徴と「エンパワーメント」の認識で繁栄するグローバル化経済に奉仕させられている。他言語の知識はしばしば、経済的利益や物質的成功を追求するための「資産」とみなされる。私は、外国語を学ぶことは確かにエンパワーメントの手段であるが、おそらくしばしば想定されるのとは異なる種類のものである、と主張したい。身体、心、精神のつながりを結集することで、外国語体験は、外的な成功基準ばかりを重視することによって閉ざされてしまうかもしれない、個人的な充足の源泉を開くことができる。感情、感情、記憶、欲望を持つ主体として自分自身を認識し、受け入れる能力は、自己意識を発達させるための前提条件である。主体性とは、象徴的な形を通して媒介される私たちの意識的あるいは無意識的な自己意識のことである。この意味は、出来事に対する自分の解釈から生まれることもあれば、他者から与えられる解釈から生まれることもある。

『Multilingual Subject』 (C.Kramsh)pp44

私たちの主体性(Subjectivity)は、他者の言説を通して環境との相互作用の中で構成され、形成される。私たちは、他者という鏡を通してのみ、自分が何者であるかを知るのであり、他者として自分を理解することによってのみ、他者を理解するのである。つまり、記号を使用し解釈し、記号に反応し「再強調」し、判断を下し道徳的決定を下すことである10。
 この意味において、主体性とは、テイラーが指摘したように、フェミニストやポスト構造主義の批評家たちが「脱中心化」(Threadgold 1997: 5)と呼ぶ主体化のプロセスである(注11) 。

『Multilingual Subject』 (C.Kramsh)pp45

★Introductionで、私が一番好きな、心を惹かれるパートがここです。
外国語学習は個人的な充足を求める個人の心の深みを動かすものでありながらも、他者とのやりとりを通して改めて心を形作り、その深い部分にあったものも常に揺さぶり続けられていくプロセスなのか、と理解しています。そうした視点に立ち、言語教育者として言語学習を捉えたいと考えています(現時点では。)

今日はここまでとします。