毎回の記事を書く時なのですが、まず、今回書こうと思う箇所に目を通してから、前回までに書いた箇所を再読してから、新たに要約する箇所の解読に取り組みます。
昨日、パート④の最後の部分の「主体」について書いておきながら、
じつは今日、この「主体」について私がこれまで持っていた「主体」として
の学習者のイメージが少しずつ変わってきているような気がしました。
というのは今、『ディスクールの政治学 ーフーコー、ブルデュー、イリイチを読むー』(山本哲士 著、光明社、1987)と言う書籍を読んでいて、
Kramshの指す「主体」がより制度的・社会的な規範や慣習からはみ出そうとしているものなのかな、、、と思えてきたからです。
3.4 Symbolic power and subjectivity in language (P36-37)
★教師は、学習者ひとりひとりが学習言語に対して持っている個人的な連想、幻想や主観的な思いを理解して、学習の促進につなげることがカギになるということでしょうか。
4 Perception and desire (P38-39)
上記のなかでも「言語における欲望とは、言語使用者が経験する知覚の撹乱と再調整であり」という部分がまだ消化不良なのですが、あとの
第2章「The embodied self」の3節3項「3.3 Emotions and feelings」(P133)
第3章「The subject-in-process」の2節2項「2.2 Desire」(P167)
を読めばもう少し理解が深まるかと思います。
5 Subjectivity, intersubjectivity, subject position(p42)
5.1 Subjectivity
★Introductionで、私が一番好きな、心を惹かれるパートがここです。
外国語学習は個人的な充足を求める個人の心の深みを動かすものでありながらも、他者とのやりとりを通して改めて心を形作り、その深い部分にあったものも常に揺さぶり続けられていくプロセスなのか、と理解しています。そうした視点に立ち、言語教育者として言語学習を捉えたいと考えています(現時点では。)
今日はここまでとします。