見出し画像

『Multilingual Subject』 (C.Kramsh)⑥

同書の「Introduction」の最終パートのまとめとなります。
前提とされている知識や理解が不足しているため、行きつ戻りつして
読みながらも「ここでは何のために何についての語義、定義をしているのか?」をすら時々、見失いそうになるのですが…(涙)
進んで行くために、現時点の理解の範囲でまとめてみます。

5.2 Intersubjectivity (P46-48)

ポスト構造主義の学者たちが使う「間主観性(intersubjectivity)」という言葉は、話者同士の日常的な出会いの中で達成されるものを超えている。つまり、私たちは、私たちが創り出すシンボル、私たちが構築する意味づけの連鎖、そして私たちが他者と交換する意味づけを通して、主体として形成されるのである。それは、私たちが他者と協調して使用するさまざまな記号体系によって引き出される、共有された記憶、含蓄、投影、推論の中に見出される。この意味で、間主観性は間テクスト性(第3章参照)と同義であり、テクストとは、どのようなモダリティであれ、どのような時点であれ、どのような場所であれ、生み出されるあらゆる言説の伸張を意味する

『Multilingual Subject』 (C.Kramsh)pp47

この本での「間主観性」の定義はポスト構造主義の考え方に近いものを採用するようなのですが、ここでの定義だけではまだ正確に意味が把握できていません。のちの第3章での事例とその分析の箇所で再度理解を深めたいと思います。

5.3 Subject position(P49-52)

この訳語がまだ検討の余地があるかとは思いますが、
現時点では「主体的ポジション」と訳して理解を進めてみます。
(※言語学での「ポジショニング」の考え方とどのくらい共通点があるのか
併せて調べる必要もあると考えています。)

このあと第1章で見るように、時間の経過に伴う主体の内的な一貫性と連続性の感覚は、象徴体系とコミュニティで利用可能な理想化された認知モデルによって社会的に構築される。子どもたちが自分の感情や経験、記憶に意味を与えることができるのは、家族であり、学校であり、地域社会であり、特に言語や自己の語りによってである。主体的ポジションとは、主体が象徴体系を用いることによって、自己を言説的、心理的、社会的、文化的に提示し、表現する方法を指す。

『Multilingual Subject』 (C.Kramsh)pp49

本書では、多言語話者が、どの言語を、誰と、どの話題で使うかによって、また、異なるコードによって喚起される異なる記憶や、それぞれのコードが対談相手や読者に抱かせる異なる期待によって、同時に多くのポジションを占める可能性があることをよく理解した上で、「主体的ポジション」という用語を使って、話者が言説の中で自分自身をどのように位置づけるかを特徴づけることにする。

『Multilingual Subject』 (C.Kramsh)pp49

多言語的な主体は、単言語的な主体とは異なる言語的多様性に対処する。彼らは異なる言語において、本当に異なる考え方をするのだろうか?彼らは本当に、話す言語ごとに異なる人間なのか、それとも異なる主体的ポジションを占めているだけなのか。このような主体的なポジションと、多言語主体が自分自身や他者をどのように見ているか、またモノリンガルが彼らに期待する行動との関係はどうなのだろうか

『Multilingual Subject』 (C.Kramsh)pp51

外国語がグローバルな経済競争力と国家安全保障の必要性のために道具化されるにつれ(Kramsch 2005)、言語学習者は、より実用的でない想像力の地平に引き寄せられる。日常生活の矛盾を言語的、感情的に生き抜くために、多言語の主体は、さまざまな象徴体系が提供する形式的な記号論的、美学的なリソースを利用して、これらの矛盾を再構築し、自分自身のオルタナティブな世界を創造する。本書は、彼らの言葉に耳を傾ける試みである。

『Multilingual Subject』 (C.Kramsh)pp51

★前回のパート(⑤)でも書きましたが、追加言語を学習する多言語話者が自らの学びをどのように捉え、味わい、彼らの置かれた学習環境で学習を続けていくかということをKramshの独自の新たな視点で明らかにしようということがこの箇所でも提示されています。

これまでの言語教育観、言語学習者観とは異なる点を理解するために、私自身の人文学領域における言語学、社会学、文化人類学的な知識もまだまだ必要で、読み進めていくのも大変ですが、何とか取り組んでみます!

今回はここまでとします。