意見するのも愛情と責任
昨日の某政党の総裁選挙。
長年にわたる幾度となる挑戦となる候補者が実を結びました。
ぼくは率直に驚きと変化を感じました。
人間はどうしても集団の中にいると、同調していきたくなるもので、周りの顔色をうかがいます。
そして、なるべく自分が強い方の集団に身を置きたくなるものです。
立場的なものもあったのかもしれませんが、ずっと、厳しく内部にも意見し続けてきた方なのだろうと感じていました。
もしかすると、集団の中にいると、煙たがられたり、良く思わない人もいたのではないでしょうか。
しかしながら、多くの票が投じられたということは、その信頼、信託があったということなのでしょう。
その後の記者会見を拝見しました。
「自分が」というよりも、「自分たちの政党が」どうあるべきなのか、それを何度も口にされていたのが、とても印象的でした。
「自分が長になったときには、この団体をこんな風にしていきます」みたいな軽い論調ではなく、
『自分たちがどうあるべきなのか』を長年にわたり、議論し、検討してきた、と述べられておられました。
ニュースでは、「そんなん言って良いんかな?」とぼくが感じているほどの、いわゆる内部批判のようなものも多く見受けられてきました。
それは、単なる野次や文句ではなく、『自分達がどうあるべくか』、その信念をもっての意見だったのだろうと感じます。
その会見でも、自分達の政党への、強い愛着と責任を感じました。
(この記事で、この方や、この政党についてどうのこうの言うつもりはありません。念のため、申し添えておきます。)
さて、この学びを自分に置き換えたとき、
『意見』できているのだろうか?と感じます。
ぼくをリアルな世界で知る人は、「いやいや、入門さん、めっちゃ意見してるやん」と思われるかもしれませんが(笑)
若かりし頃は、もっともっと意見していたように思います。
もちろん、若気の至りのようなものがあったのだろうとは思いますが、その頃と今を比べると、『愛着』と『信念』のようなものは薄らいでいるように、自省します。
周りから変に思われないように、
出る杭や、はみ出した人と思われないように、
『思っていても意見しない』という人は、圧倒的に多いと思います。
自分の思うとおり、願うとおりに、進まなくても良いのか?
自分が関与・参画せず、進んでいっても良いのか?
関わる一員として意見をするのも責任ではないのか?
ぼくはそんな風に思います。
意見をすることも『責任』。
とぼくは思っています。(だから色んなところでガシガシ意見しますが)
でも、今回学んだことは、
今となっては、随分と遠慮がちになっている自分に気付きました。
愛情と責任をもって、
意見を示していきたいと思います。
貴重な時間のなか、この記事をご覧くださってありがとうございます。
冒頭のイラストは、ia19200102|noteさんの作品を使用させていただいています。ありがとうございます。
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