至高の笑い vs 笑いのドリップ
昨年コロナが本格的に拡大し始めた頃、知り合いの医師からメールがきた。手洗い、うがい、食事、運動等のアドバイスの最後に、「笑いを忘れないように」と付け加えてあった。
ハッとした。メンタル管理は心掛けていてもすぐに忘れてしまう。笑う余裕を持つことは簡単ではない。
笑いに関して、開高健さんのエッセイに次のように書いてある。
無償で、自然で、人をくつろがせ、血をわきたたせながら聡明の高さへとび、一晩や二晩では消えることがないという笑いがないものだろうか。
『開高健ベスト・エッセイ』開高健・小玉武 編
究極の笑いである。人々はこういう笑いを求めている。一過性の泡沫的なものではなく、連鎖的に浸透していく笑いである。誰かが簡単につくりだせる笑いではない。
私にできることは、小さな笑いを人にプレゼントして喜んでもらうことである。
手始めに、家族に美味しいお茶をいれてあげることにした。ふつうの急須では芸がないので、お茶のドリッパーを使ってみた。
「刻音」(ときね)を使うと、お茶の繊細な味を楽しむことができる。味とか旨みとか、人間の本性に訴えるものには、人間は鋭く反応する。
目論見どおり、ファミリーメンバーはお茶を飲みながら、いろいろなことを感じ、あれこれ想像し、私に印象を伝えてくれる。
そして、お茶を味わった後、笑ってくれた。
笑いをドリップする私のささやかな試みは、おおむねうまくいったようだ。
最後に、「笑いの思想」とでもいえるような開高さんの言葉で締めくくる。
あらゆる種類の硬直にたいする緩和、いかに精密、苛烈なイデオロギーや信仰も蔽いきることのできないひそやかな人間の本能の脱出行為、それが笑いであって、諦観であると同時に人権宣言でもあるのだが、・・・
『開高健ベスト・エッセイ』開高健・小玉武 編
「ひそやかな人間の本能の脱出行為」、「諦観であると同時に人権宣言」などという表現に触れると、思わずニヤッとして、自然に笑いが生まれる。魂の解放といいかえてもよいほどしっくりくる。この笑いは私の心にしばらく滞在し、笑いの神経を刺激し続けるだろう。