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元ITエンジニアの私が20代で起業して業界革命をしようとした理由。

私は20代~50代までの40年間を10年単位でテーマを持って取り組んでます。

20代で、起業をするためハードワークする
30代で、自ら苦労を買い茨の道を選択する
40代で、事業のベースを創りあげる
50代で、もうひと勝負する
60代で、次世代に託し新しい人生を歩む

人生の50年ビジョン

今回はそのファーストステージである20代のエピソードを書きたいと思います。

20歳の私が未経験でエンジニア業界へ

「アイティッテナニソレオイシイノ?」
という位、ITのことを何も知らなかった20歳の私が、IT業界を選んだ理由は3つある。

一つ目は、当時2000年頃はネットバブルと言われ、Yahooやサイバーエージェントなどが躍進していたのを見て、これからはITの時代になるだろうと直感したのと、ITって響きが単純にカッコいいと思ったこと(笑)
二つ目は、一つの会社だけではなく、様々な会社のシステムを見たいと思っていて、顧客先に常駐するというこの業界モデルならそれが実現できると感じたこと。
三つ目は、多様なエンジニアが集まっている会社であれば、様々な人と切磋琢磨できて飛躍的な成長が期待できると思ったこと。

私自身は20代でまた起業したいと考えていたので、様々な人との接点があり圧倒的に成長できる業界が良いと思って就活をしていたところ、運良く上場企業に入社することができた。そこからエンジニアとしてのキャリアをスタートさせたのだが、業界特有の横文字オンパレードで、元々英語が大の苦手だった私は追い付くので精一杯だった。ただやるからにはとことんやろうと、若さも活かしてハードワークに取り組み、気付いたら4年で13のプロジェクトに携わっていた。エンジニアとして一見順調そうに見えたが、その頃から私の中で「何かが違うかも」という違和感が芽生えてきていた。

帰属意識と大企業病

その違和感とは、この業界特有の帰属意識の低さだ。当時私は顧客先常駐のエンジニアだったのだが、会社に帰る機会もないし、情報共有もほぼ無く、新しく入ってくる社員の顔も儘ならない状況だった。私自身は、他プロジェクトに携わっている社員と情報共有したり、切磋琢磨しながら成長していけることがこの業界の良さだと感じていたのに、外に出たら(常駐したら)、ほとんど情報共有がされず周りとのコミュニケーションも皆無だった。当時の私は何でも思ったことを言うタイプであったので(今も変わらないが)、これに対してもガンガン提案をしていた。

「月に1回帰社する機会をつくりましょう!」
「社長からはビジョンを!」
「事業部長からは現況共有を!」
「活躍した社員を褒める場として表彰を!」
「会議後はラフコミュニケーションができる場として飲み会(¥0)を!」
「そうして帰属意識が高まるとコミュニティも生まれます。それを通じて新しい活動を生み、会社がより成長する仕組み(文化)をつくりましょう!」と。

上長は帰属意識の低さは理解していたし、変われば良いと思っていたと思うが「予算化が必要だから事業部長決裁で企画書が必要」とか「全社的にすると社長決裁で実現できたとしても半年以上はかかる」とかマネジメント陣が出来ない理由ばかり言って、めんどうな面持ちであることは明らかだった。本気で会社を変え業界を変えようと思っている人たちではなく、どこか他人事で今の立場を守ろうとか、当たり障りなくうまく回していくのが正しいとしている雰囲気がまん延していた。(全てを否定するわけではなくそういうケースも大事なことはある。が当時の私は全く理解不能だった)
そんな状況を目の当たりにした私は「ふざけるな!一人ひとりの社員が会社に帰属意識をもってイキイキ働きながら成長することが、目の前のお客様の満足となってはじめて会社の成長につながる。その源泉は社員でありその一人ひとりが当事者意識を持ってイキイキ働く仕組みを創っていくことこそが、会社が最優先で取り組むべきことだ!」「なぜわからないーーー!大企業病だーーー!」と心の中で叫んでいました。

エンジニアからの転身

ただそんなことを言っても変えるのには相当な時間を要するだろうし、自分自身の無力さも認識していたので、この辺が起業のタイミングかなと、自身の24歳エンジニア限界説を理由に、上長に退職を願い出た。
そうしたら当時の上長から「起業をしたいのなら応援するが、営業も経験しておくことは将来の起業にも必ず役に立つぞ」と言われ、当時24歳で営業未経験の私を本部営業に抜擢していただいた。(後々振り返るとココは一つの岐路であり当時の上長には今でも感謝している)
今後は、営業や本部の立場からエンジニアを支え、そうした環境改善に取り組むということは、私がやりたかったことであり将来の起業にも役立つと思ったので、退職するのを辞め営業として転身することにした。
(当時の現場常駐メンバー全員が年上だったこともあり、ナメられないようにしようと髭を生やし、身の丈に合わないアルマーニのスーツを纏い、ダレスバックを持ち始めたのは圧倒的自信の無さの表れだったのであろう(笑))

そんな中身が伴わない営業マンになってから暫くは目の前の数字を追うことに追われていた。そして数字という形で徐々に成果が見える楽しさにものめり込んでいて、気が付いたら私自身エンジニアだった時の課題感を忘れ「人=数字」みたいな感覚に陥っていた。ある飲み会でエンジニアから指摘をされてハッとしたことを今でも覚えている。

2年経った26歳の頃にはメンバーが40名位いたのだが、毎月「ご相談」というタイトルの退職メールがきて(当時は軽いトラウマ)、その度に飲みに誘い本音ベースで話を聞いていた。その中で、改めて当時エンジニアだった時に感じていた課題感は深く広く、かつ重要なものであるという気持ちを強くしていった。私が本部の営業である以上、私にしか出来ないリアルを本部マネジメント陣に伝え、皆の働きがいをつくっていく役割を担っていかなくてはと、この機会を通じて改めて原点に戻ることができた。

理念の重要性

その退職相談のコミュニケーションで「なぜ退職をするのか?」への問いの3大アンサーは、

「給与」「キャリアパス」「理念」であった。

当時の初任給は恐ろしく低く(たしか私は16万8千円)、人事評価も成果型ではなくほぼ年功序列型だったので、給与に関してはどうにも解決が難しい問題であった。キャリアパスについても未経験入社が多かったこともありサーバやネットワークの運用プロジェクトが中心で、構築や設計などに進むプロジェクトは会社としてほぼやれていなかったので「育つと巣立つ」という負のスパイラルとなっていた。
これらは個としては非常に重要な問題であるのは間違いないが「会社は何を最も大切にしていて、どこに向かっていくのか」という問いに対して明確でなかったのが、これらの問題を引き起こしている根本原因だと感じた。つまり、会社の理念やビジョンが無いということである。当時読んでいた松下幸之助氏の『実践経営哲学』という本には理念の重要性が何度も書かれていて、それをクリアにすることが会社経営において最も大切なことだと考えていたので、良い意味で反面教師として客観視できていた自分がいた。

私は60年にわたって事業経営に携わってきた。そして、その体験を通じて感じるのは経営理念というものの大切さである。いいかえれば“この会社は何のために存在しているのか。この経営をどういう目的で、またどのようなやり方で行なっていくのか”という点について、しっかりとした基本の考え方をもつということである。

 事業経営においては、たとえば技術力も大事、販売力も大事、資金力も大事、また人も大事といったように大切なものは個々にはいろいろあるが、いちばん根本になるのは、正しい経営理念である。それが根底にあってこそ、人も技術も資金もはじめて真に生かされてくるし、また一面それらはそうした正しい経営理念のあるところから生まれてきやすいともいえる。

 だから経営の健全な発展を生むためには、まずこの経営理念をもつということから始めなくてはならない。

参考:松下幸之助『実践経営哲学』(PHP文庫)より

業界革命

こうして社員の人たちから色々な話を聞きながらモヤモヤと格闘していたところ、ある時渋谷の居酒屋でメンバーから「そんなに熱く語るなら、入江君が会社つくっちゃえばいいじゃん」と言われた。26歳の冬、若造は決心した。ちょうどその頃は奥さんのお腹に長男が宿っていたこともあり、一度きりの人生でそろそろ勝負に出る時期だと考えていたことも相まって背中を押された気持ちになり、その勢いで二度目の退職願いを出しにいった(営業限界説ではなく起業したい欲でポジティブなやつ)。結局大阪の立ち上げもやってくれと言われ、退職は1年後という約束で最後の1年を大阪でやり切った後、2008年3月31日をもって8年間お世話になった会社を退職し、翌4月1日より前身の会社で第二創業をした。

私自身、20歳でキャリアをスタートしてから今まで変わっていない軸がある。それは、どんな状況であろうと圧倒的当事者意識を持って仕事に取り組むことだ。それが自分にとっても相手にとっても会社にとっても社会にとっても、全方位ハッピーであると考えている。なので皆が圧倒的当事者意識を持ち、会社の主体として「課題」も「あったらいいね」もガンガン提案し、皆で創っていくような会社を創りたいと。その会社が最も大切にする価値観である理念を軸に、その理念に共感した仲間が集まった最高の会社を創り、この業界に革命を起こそうと。
そんな想いを持って28歳で新しいスタートをきった2008年4月。キャリアスタートから8年が経っていたが、これからハードシングスが待っていることはまだ知る由もない。

                 …つづく


書きながら思い出が溢れてきてついつい文字数が多くなりすぎちゃいました。途中端折った部分もありますが、20代はこんな感じで無我夢中だったなぁと改めて振り返って原点に戻れた気がします。良い機会でした。

前身の会社で2008年に第二創業してから2019年のコクー立ち上げまでのセカンドステージの30代は全ては書けない位のハードシングスですが、またどこかでペンを執りたいと思います。

長文、最後までお読みいただきありがとうございました。


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