Needy Girl Overdose批評
Needy Girl Overdoseというゲームを知っているだろうか。
Needy Girl OverdoseはWSS Playgroundというレーベルが2022年に発売したシミュレーションゲームであり、超てんちゃんことあめちゃんを一流のネット配信者に育成していくというもの。
PCゲームプラットフォームSteamでは、発売から1週間のユーザーレビューで「圧倒的に好評」の評価を獲得し、初週で10万本を売り上げた。
一方でポップなレイアウトとは裏腹に、過激な展開やプレイスタイルに対する批判も多く一部で議論も読んだ。
なぜこのゲームが高い売り上げを記録し、賛否両論の評価を受けているのか考えていこうと思う。
改めて詳しくゲームのシステムを説明していくと、プレイヤー(ピ)は恋人のあめちゃんを30日間で配信者超てんちゃんとしてプロデュースするというもの。30日間の間にフォロワー100万人獲得するのがゲームの目的となる。
あめちゃんの行動はプロデューサーが選択し、「配信」「ねる」「いんたーねっと」「おでかけ」「おくすり」「えっちなこと」などを行っていくことになる。選んだ行動によって、ストレス、好感度、やみ度のパラメーターが増減する。
30日が経過した時点でのパラメーターとフォロワー数によって迎えるエンディングが決まる。あるいは30日を迎えていなくても、パラメーターが極端に高い(あるいは低い)、フォロワー数が低い場合にはゲームオーバーになる。
ゲームのエンディングに影響するパラメーターとフォロワー数という要素がこのゲームの決め手だ。
価値の数値化
フォロワー数は承認欲求を数値化したものである。これはこのゲームにおいても、現実の社会においても同じ意味を持つ。
震災以降、日本の安全神話は大きく崩壊した。平穏な日常はたった数時間で崩壊し、行政の不手際で原発は放射能を垂れ流し、多くの人が故郷を追われた。
リーマンショックの影響もあり、経済は落ち込み、日本は絶対的な価値観を喪失。ポストモダン化はより一層進行し、カルチャー面でも多様化が進んだ。絶対的価値観やイコンが喪失したなかで登場したSNSは複雑化する世の中をシンプルに錯覚させる“おくすり”として機能した。
それが価値観の数値化である。facebookを開けば簡単に“友達”の数を見ることができる。TwitterやInstagramでは自分の投稿に対してどれだけの人が“いいね!”と言ってくれているか知ることができる。先進国日本という「大きな物語」が喪失した日本社会において、人間関係も評価も簡単に数値化してくれるSNSは都合のいいシステムと言えるだろう。無論この現象は日本だけでなく世界的に進んでいる現象ではあるのだが、日本は特にこの現象の進行が顕著な社会と言えるだろう。
Needy Girl Overdoseはフォロワーという承認欲求を稼ぎながらストレスやメンタルヘルスの均衡を保つことを目標とした、ゲーム化した社会をゲームとして逆輸入した作品なのだ。
このゲームのさらに特徴的な点はマルチ破滅エンディングという方式である。
マルチ破滅エンディング
公式サイトには「マルチ破滅エンド搭載」と記述がある。もちろんマルチ破滅エンドとはこのゲームが作り出した造語である。ゲームとは基本的にパッピーエンドを迎えてクリアすることが目的だからだ。
フォロワーが目標の100万人に到達しない、ストレスや病み度、好感度が高い(あるいは低い)、「おくすり」や「えっちなこと」などを特定の行動を繰り返すことであらゆるパターンの破滅的なエンディングを迎えることになる。
エンディングは全25種類。ある一つのエンディング以外はバッドエンドになっている。
薬物に手を出してしまうもの、精神崩壊してしまうもの、主軸をポルノ配信に切り替えてしまうもの、陰謀論に陥ってしまうものなど、どう足掻いても何らかの破滅を迎える。
このマルチ破滅エンドというのはかなり批評的だ。仮にストレスがなくても、好感度が高くても、メンタルヘルスが安定していても、全ての道は破滅に繋がっていくということを示唆しているのだ。
ピことプレイヤーの行動によって、繰り返し繰り返し、いとも簡単に若い女性を破滅させることができる。破滅することが当然のようになっていく。確かに一部のこのゲームに寄せられた批判は的確だと言える。破滅する30日間を繰り返していけば、確かに他者を傷つけることへの抵抗感は麻痺していくかもしれない。
Happy End World
↓↓↓下記ネタバレを含みます↓↓↓
このゲームにおいて唯一ハッピーエンドを迎えるものがある。
それが隠しエンディングの一つ「Happy End World」というものだ。
このエンディングへの到達方法というのはかなり特殊なので、普通にプレイしていては到達できないものだ。
このゲームにおける唯一のハッピーエンド、それは超てんちゃんがインターネットをやめるという結末である。
目標の100万フォロワーに到達しても、ストレスを下げたり、メンタルヘルスを安定させても、ピとして愛情を与えても絶対に幸福になれなかった超てんちゃんは配信者を卒業するという選択において、初めて幸せになれたのだ。
そして、超てんちゃんがインターネットを辞めたことで、徐々にSNS文化そのものが廃れていくという結末に向かっていく。
これだけが明確に超てんちゃんの不幸が描かれておらず、示唆もされていないエンディングになっている。
このエンディングに到達するためには、29日目に実際にPCのインターネット接続を切断しておく必要がある。つまりゲームを超えた現実での「切断」という行為が必要になってくる。
この結末は『新世紀エヴァンゲリオン』シリーズが繰り返し描いてきた「現実に帰れ」というテーマに通底するものがある。監督の庵野秀明がTVシリーズ版のやり直しとして描いた旧劇場版『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』にて、映画館で映画を鑑賞している観客を実写で映したシーンがある。あれはアニメーションという虚構が現実に対して投げかけたものだったが、「Happy End World」というエンディングはインターネットゲームという虚構においてそれを実践したと言える。
SNSやインターネットは便利なものだし、もはや生活のインフラである。しかし、インターネットはあくまでツールであり、そこには幸福も、愛情も、私たちの実存も存在していない。インターネットは人間のツールであり、人間はインターネットのツールではない。
1999年にデヴィット・ボウイが「インターネットはまるで地球外生命体のようだ。」と述べたが(下記動画参照)、インターネットというエイリアンには主従関係ではなく、友達として付き合っていくべきだと思う。まず、インターネットに対してしっかり認識を持っておくべきだとも思う。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
また、近いうちに何か批評を上げたいと思うので、その時はまた読んでください!