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 福岡市の中学生3人が、教員の願書の出し忘れで第一志望校を受験できなかったというニュースが問題となっています。

ここで私が気になるのは、

 教員は慌てて、2時間遅れで提出しようとしましたが、組合教育委員会は「公平公正性が必要な願書の締め切り・受け付けとなるので特別な対応はできない」として、願書を受理しませんでした。

という部分。もちろん前提としてミスをした中学校が一番悪いし、その対応の仕方が適切であるかも個人的には疑問に思える。しかし、組合教育委員会の対応が適切であったのかは非常に疑問に残ります。そこで考えるべきなのは、ルールは何のために存在するのか、という問題。杓子定規的な物事の決め方は、時として人を不幸にし、そして、人の命を奪ってしまう。

元大阪府知事で弁護士の橋下徹氏も、救済措置の妥当性を訴えています。

 「中学がミスしたことが1番悪いんですけれども、そういう願書の形態を高校側がやっておいて生徒側に一切ミスがないのであれば、これを例外として認めるべき。教育現場でこういう一律の対応をするのであれば、公立高校で各自治体が共同で設置した高校らしいので、ここは首長の出番。入試に直接介入するのはだめですが、願書受け付けのところくらいは首長が例外を認めるということで受け付けをやってほしい。ぜひ考え直してほしい」

 今回のポイントは、「中学生が受験できないという状況を解消すること」だけ。願書提出のミスが学校側に責任があるのなら、学校長の名義で謝罪文を提出、組合はその謝罪文をHPに掲載し、そして遅延に対する(それなりの)罰金を学校に課せば良い。そうすれば、学校側も再発防止対策を取らねばならないし、生徒は受験できる。それで手打ちになることがなぜできないのか。ルールというものに縛られ本来の目的を見失っている人たちがいるのかもしれません。

 

 
 
 

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