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#376 アクノレッジメントの観点から考える謝罪の本質とは?

 人は他者との関係性を築きながら人生を進めていきます。時には他者に迷惑をかけたり、不快にさせてしまうこともある。でもそれはお互い様であり、ある意味では当事者同士が相互理解を深めることができるチャンスとも言える。そのような時に、どのような対応をするべきかを学ぶことは、私たちが生きていく上で価値あることであると考えます。

 自分が相手に対して何か悪いことをしてしまったなと感じる時、その対応方法として「謝罪」というものがある。しかし、こんなことを世間に公表すると、お前はどんなやつなんだと言われそうですが実は私、謝るのが苦手。自分が何か悪いことをした時は、もちろん謝罪をするのですが、自分が悪いと自覚しているからこそ、謝罪するのがしんどいなと思ってしまうのです。謝ると言うのは非常に難しい。もちろん物事の程度によるのですが、謝れば済むのはちょっと違うし、だけど謝ることを前提とした改善策を提示すればいいのか。

 阿部サダヲさん主演の「謝罪の王様」と言う映画がありましたが、人がどう人と向かい、その中でどう謝罪するのかは難しいのかもしれない。

 東京大学大学院の古田徹也准教授が、「謝罪」を哲学や倫理学の知見を基に解きほぐして『謝罪論 謝るとは何をすることなのか』にまとめたという記事を見つけました。

古田氏は様々な企業の謝罪会見を例に出しつつ、その謝罪の本質をこう語っています。

そうなんです。最近では危機管理マネジメントの一環として、謝罪をマニュアル化する取り組みもありますが、それではあまり意味がないと思います。技術的に「うまい」と感じさせる謝罪であればあるほど、そこには誠意を認めにくくなりますから。

ヒントのひとつとして「定型的な表現に頼り切らない」を挙げました。これはマニュアルというよりも、むしろ脱マニュアルの提案です。「誤解を与えたとしたら~」「ご迷惑をおかけして~」といった紋切り型に頼らず、起きてしまった問題の認識や今後の取るべき行動を、自らの言葉で語る努力をすることで、なんらかの「誠意」が伝わると思うんです。

 謝罪と言うのは、自分の行動と相手の負った傷が何かを適切に理解する行為。自分の行為が悪かった部分、それによって相手がなぜ悲しんだのかを想像する。謝罪とは、形式ではなく、その人自身が誰かに対して優しくなれる大切な「学び」なのだとも思う。私も自分の大切な人に謝罪することも多いですが、謝罪にしんどさがあるのは、大切な相手に対する自分の至らなさを痛感するからなのかもしれません。


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