
#734 教育無償化は「本当に」良いことなのか
私たちは資本主義システムの中で生まれ、その中では、私たちはありとあらゆるものに「値段」をつけています。
値段は非常に面白い。生活必需品の値段が安く、嗜好品が高いのは、ある意味での矛盾を表すから。
価格が安いことは、それがいかなる人にも届くためにそうなる。しかし、そうなると、手に入れ易くなり、その本質的価値が見えにくくなる。
もし地球から空気がなくなって、空気製造会社が誕生したら、一体どれくらいで売れるのか。
教育の無償化。
教育は社会基盤。だから、より多くの人に届けるために安くしなければならない。
この考え方自体は、私は賛成です。
しかしその結果
教育の価値が相対的に下がる可能性があることには大きな憂慮がある。
東洋経済オンラインにおいて、慶應義塾大学院教授の小幡 績氏の『 「授業料を無償化」したら、日本の教育が滅んでしまうと言える「4つの理由」』という記事を見つけました。
教育には、所得の大部分をつぎ込んでもいい、という世界から、教育は当然タダだよね、という世界になると、無意識に教育の価値の認識がおろそかになっていく。授業料を無償にすることで、学校教育がいまいちでも、まあタダだから仕方ない、金持ちはもっとお金をかけて特別な塾に行っている、という価値観が普通になるだろう。
と小幡氏は述べ、教育の無償化が、逆に教育の質を低下させる可能性があることを指摘。その上で大切なのは、教育無償化への財源を、公教育そのものの充実に繋げる(つまり公教育に投資する)ことが大切だと主張しています。
どうすればいいか?簡単だ。無償化をやめればいい。そして、最低でも高校授業料の無償化に使う予定と言われる約5000億円の予算を、公的教育投資に回すのである。(中略)5000億円を、教育を無料にしてバラまいている場合ではない。その分、投資を強化して、教育の質を上げることであり、授業料をいくら払ってもいい、と思えるぐらいの教育を実現することである。では低所得者は?貧困家庭には、これこそ最高の教育政策である。塾に行かなくとも、金持ちが使うような高級学童に行かなくとも、学校で、夕方7時まで、毎日面倒を見てくれる。塾の代わりも、課外スポーツ活動、文化活動をやってくれれば、安心して、共働きもできるし、親が1人の家庭も、稼ぎに精を出すことができる。
私たちはどうしても数字の「絶対値」に対して敏感になっています。その絶対値への感覚は、そのものが身近であればあるほど、シビアになっていく。「絶対値」が小さくなることは、家計にも優しいし、政府としてアピールしやすい。
しかしながら、価格競争の先に待っているのは、経営圧迫であり、その結果による労働環境の劣悪化、そしてその結果としてのサービスの低下であることは今までの経済史から見ても明らかです。
教育無償化という言葉の「甘美さ」に吸い寄せられた先に何があるのかをしっかりと見極める必要があると感じています。