#390 「良い環境」を求めて彷徨う私たち
子育てに関する情報が溢れる現代、保護者は、子どもに何を与えようかと試行錯誤しています。
先日私の元同僚にも子どもが生まれましたが、習い事、中学受験、将来の大学や職業、どこの学区に住むかなどなど、パートナーとの子育ての話題は尽きないらしい。最近は、パートナーが英語教育に熱心で、インターナショナルスクールに入れたいと言っていると同僚は苦笑いをしながら語っていました。
環境要因というものがあります。私たちの成長は外的環境に影響を受ける。時に発達の初期段階においては、その人が触れるものは、良くも悪くも人生において影響を与えるでしょう。
子どもの健やかな発達のためにどんな環境が良いのか。選択肢を増やす、多様性を感じるには都会の方が良いのか、はたまた都会の喧騒を逃れ自然豊かな田舎で伸びやかに育てた方が良いのか。物事には良悪のいずれも存在し、そして結果論的なこともある。また子どものためにという言葉は本当に子どものためになっているのか。保護者のエゴが垣間見える時もある。また、子どものために保護者が無理をし、結局うまくいかない。子育てに限らず、何かを選ぶということは、何を取るかというよりも何を残すかという、こんまりさん的な観点が必要なのだと思う。
『「田舎でのびのび育児。夢見た私がバカだった…!」都心から移住した夫婦が「田舎懲り懲り」と泣き出した、地方育児の厳しすぎる現実。』という記事を見つけました。
記事の中では。個人事業主の斉木まりあさん(仮名)の例を紹介。息子(小学校3年生)により良い環境を求め、夫と相談した結果、郊外の自然溢れた田舎に引越し。少人数制の小学校にも魅力を感じていたそうです。しかし、現実はそんなに甘くない。都会にはない、その地域独特の雰囲気が、様々なものに影響を与える。それは人との繋がり方、人間関係の固定化、極論を言えば多様性の排除に繋がることもあるのです。
とまりあさん(仮名)は語っています。
もちろん保護者として子どもの成長にとって、より良い環境を整えたいという気持ちは私も100%賛成です。しかし「良い環境」というものは、ある一定の基準を満たしたあとは、そこには思想が入っている。それはつまり、主観であって、結局は合う合わないは個人の問題となってくる。保護者が良いと思っても、子どもはそう思っていない、そういうケースは多々あるでしょう。
だからこそ、保護者の「主観」が子どもの「普遍」にならないように気を付けることが大事。子どもを意思を持った一人の人格として接し、互いの意見や価値観を共有していくことが大切なのだと思います。