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#254 「ない」のではなく「ある」を探す

 ないものねだり。これは人間の「性(さが)」なのかもしれません。

 少し前の話になりますが、今年の2月に通っている絵画教室の教室展があり、初めて自分の『作品』を出すことに。自分の「描きたい」意欲をベースに、アイデアを出し、画材を決め、限られた技術の中で、自分の作品を「創造」していきます。他者評価はもちろん気になるところですが、初めて1年も経っていない。無心になって制作に没頭した結果、自分なりに手応えのある作品が完成。

 教室展に来て下さった方々に、お世辞にも『いい作品だね』と仰っていただき、気持ちの高揚があったことを覚えています。

 その後諸事情によりその教室を退会し、しばらく「絵」とは疎遠の時期がありましたが、現代の情報社会はすごい。7月末に、2月の教室展で私の作品を見てくださった方からSNSを通じて、家族写真を描いて欲しいという依頼が。自分のキャリア(つまり絵画経歴1年未満のド素人)を説明したのですが、結局は依頼を受けることに。

 約半年ほど練習もしてなかった私は、突然絵を描くことが「仕事」になってしまいました。依頼主と都度コミュニケーションを交わし、彼の中のイメージを具現化する。非常に難しい。自分の作品を作る時にはなかった苦しさがあります。相手の意思を組み、丁寧にすりあわせ、だけど自分では少し納得できないことも。徐々に「楽しい」と思う気持ちが「しんどさ」に変わり、心折れそうになった時に描いた絵を写メすると「すごく素敵です」と言われ、嬉しくなる。

あぁ、私はどれだけ単純なのだ....

人には、その特性があります。自ら何かを創造することが得意な人。相手の意思を汲んで、与えられたことをこなす人。私は比較すれば圧倒的に前者側で、後者の素養は無いに等しい。そして時々思うのです。会社などの指針を理解して、そこで求められる業務を適切に遂行できる力が欲しいなと。私は自分の納得できないことは本当にやりたくないしできない。社会の中で生きていくことに困難さを感じることも多々あります。

でもそれは「ないものねだり」。

みんな得意不得意があっていいのだと。それぞれの特性に対してどちらが価値が高いとか低いとか、そんなものは社会や顔も名前も知らない誰かが勝手に決めていること。それぞれ得意なことを頑張り、苦手なことを助けてもらう。そんな社会がいいな。


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