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#623 共感によって「捏造」される怒り
共感力という言葉があります。他者の気持ちや心情を想像し、喜びや悲しみの感情を共有することで、他者とのより良い関係を築くことができる。
共感とは、他者と自分の「距離」を近くすることにあると個人的には考えています。例えば、自分の親や子ども、大切な友人に対しては、人の「共感力」は多少なりとも上がります。それは、自分と彼らとの関係性が深いからこそ、相手を大切に思うし、彼らのために自分ができることは何かを探す過程で、自然と「共感力」が生まれていくものではないかと。
私は自分とは本来関係性のない著名人や公人の方を意識して「〜さん」で呼ぶようにしています。そうすることによって、自分と彼らの心の距離を意識的に近くすることで、相手が一人の大切な人であるという認識を強化することができる。その結果、彼らに対する誹謗や中傷を防ぐことができると考えているからです。
一方、私たちは時に「共感」を自分の怒りを強化するために使うこともある。自分と同じような(苦しい)境遇の人たちに寄り添うことを通じて、自分の心の奥底に抱いてる憤怒を育てていくこともある。他者の怒りを自分が背負う(ふり)をすることで、自分が誰かを攻撃する正義を得ようとするのかもしれません。
いわゆる、怒りの捏造です。
共感を英語の辞書で調べて見ると、sympathyとempahty の2つが出てきます。
前者は、「他者の苦悩に対して同情すること」を意味し、感情的な支援を表す際に用いられ、後者は「感情移入を伴い、他者の感情を深く理解し、内面から共感すること」を表します。
I cried with sympathy/empathy for Matt who lost a precious dog last week.
「私は、先週最愛の犬を亡くしたマットに共感/同情して泣きました」
上記の例文だと、 "sympathy" の場合、マットの気持ちに共感・同情して泣いているものの、あくまでも「自分の気持ちが主体の感情」で、マットの犬が死んでしまったことについてはどこか他人事感がありますが、"empathy" の場合は、「相手の気持ちが主体の感情」を中心として、その「気持ちをわかちあう」ことに主眼が置かれます。
「相手の立場を考えて」というのは、学校教育でもよく言われることですが、それはつまりempahtyであり、現代ではビジネスにおけるマネジメントの分野でも大切にされる感覚です。
しかし、私がここで注意したいのは、相手の立場を想像するということは、それだけ彼らとの距離を近づけることにあり、その結果、あたかも自分もそのような怒りや悲しみを持つようになってしまうことにある。
以前のコラムで「共感とは主観的体験」であり、そこに客観性はないと書きました。empathy力を育むことは非常に大切ですが、過剰な「共感」は時として、非常にネガティブな感情を誘発し、他者への攻撃衝動となるのです。